第二十二話 追跡、崩れる搬送路、そして地上へ
背後の足音は、着実に近づいていた。
「距離、百メートル切ってる」
御子柴さんの声は静かだったが、切迫していた。
「走る。ただし声を立てないこと。ここ、反響するから」
僕たちは全員で頷き、来た搬送路を一気に駆け戻り始めた。
段差を上がる。
コンクリートの壁が戻ってくる。
錆びたレールの上を、足音を殺して駆ける。
夜目補助の効果はもう薄れかけていて、視界はだいぶ落ちていた。それでも一ノ瀬さんと御子柴さんは、迷わず進路を拾っていた。
途中、篠宮さんが少しだけ息を乱した。
「……ごめん、ちょっと」
「無理しないで」
僕は一瞬立ち止まり、彼女の腕を引いた。
「大丈夫。続ける」
その声に、弱音はなかった。ただ、息が整うのを待っているだけだった。
三十秒。
息が戻った頃には、追跡者の足音は、さらに近くまで来ていた。
そして、その足音から別の音が混ざってきた。
――ずるり。
――ぬるり。
湿った音。
「まずいわね」
御子柴さんが低く呟く。
「あの連中、担体を使ってる」
僕の背筋が冷えた。
「担体って、あの白い――?」
「いや、黒濁のことよ」
僕たちはさらに速度を上げた。
◇
搬送路の入り口近く、錆びたシャッターの半開きの下をくぐり抜けようとした、その時だった。
ごうっ!
低い圧の音が、通路の奥から響いた。
そして、揺れた。
最初は足元が揺れたのか、頭が揺れたのか、分からなかった。
それから、小さな砂埃が天井から落ちてきた。
次の瞬間、通路の隅から、コンクリートの塊が崩れ落ちた。
「崩れてる!」
一ノ瀬さんが叫んだ。
「走れ!」
御子柴さんの声が飛ぶ。
もう後ろは見なかった。
見て、確認する余裕なんてなかった。崩れ始めた搬送路を、僕たちは全力で駆け抜けた。
後方で、壁が落ちる音。
低い呻き声のような音。
そして、湿った音は消えていった。
崩落が、迫る。
最後の数メートルを、僕はほとんど転がるように進んだ。
肩が壁にぶつかる。
一ノ瀬さんが僕の腕を掴んで引き上げる。
篠宮さんが先に外へ滑り出ていた。
御子柴さんが最後尾で、僕の背中を押し出した。
そして、シャッターの下をくぐり抜けた瞬間。
どおおん!
背後で、搬送路の入り口が、大きく崩れ落ちた。
砂埃が、乾いた風の中へ舞い上がる。
僕は腹這いのまま、荒い息で空を見た。
昼の、青い空だった。
……生きてる。
僕たちは、まだ生きてる。
◇
数分後。
僕たちは、旧資材搬入口の裏手にある、廃材置き場の影で座り込んでいた。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
心臓がまだ、早く鳴っている。手が震えるのを止められない。
一ノ瀬さんが、僕の肩をそっと叩いた。
「生きてる?」
「……たぶん」
「なら、いい」
その一言に、少しだけ力が抜けた。
篠宮さんは、自分の上着の袖を見て、ため息をついた。
袖が大きく破けていた。
「……制服、掛け替えないと」
そんな当たり前のことを言いながら、彼女の指は震えていた。
御子柴さんだけが、落ち着いて周囲を見回した。崩落した搬送路の入り口を見て、それから、僕たちを見る。
「……今回は、運がよかったわ」
「本当に?」
「ええ。あの崩落が、追跡者を埋めたとは限らない。でも、少なくとも今は、追ってこられない。それだけが、確かなことよ」
その通りだった。
でも、あの崩落が、偶然だったとは、とても思えなかった。
「……あれ、崩れるタイミング、変じゃなかったですか」
僕が言うと、御子柴さんは目を細めた。
「何か気づいた?」
「崩れ始めた音より、先に、圧の音がした。あれは爆発みたいなものじゃなくて……重い魔力が一度に流れた時の音に近かった」
「魔力が、流れた」
篠宮さんが顔を上げる。
「それって、誰かが、意図的に崩したってこと?」
「たぶん」
僕は首を傾げる。
「でも、追いかけてた側が、自分から道を崩す理由がない」
「ないわね」
御子柴さんは静かに頷いた。
「つまり、崩したのは追跡者じゃない誰か。あるいは――」
「追跡者の中に、僕たちを逃がす側がいた」
その言葉が落ちると、誰もすぐには何も言えなかった。
一ノ瀬さんが、少しだけ顔をしかめた。
「……それって、味方も敵も、あの中に混ざってたってこと?」
「分からない。でも、あの白い担体が、あえて見つかるように置かれていた事実と、合わせると」
御子柴さんは、空を見上げた。
「天城冬吾の“もう一人の残党”が、まだどこかに生きている可能性が高い」
その一言に、僕は握りしめていた石の筒を、無意識に強く握った。
中の紙は、もう安全な場所へ移してある。
でも、あの文字は、まだ掌に残っている気がしていた。
――回復魔法使いと、手を組め。
◇
その日の夜。
僕は祖父母と、いつもの居間に座っていた。
祖父は、僕の話を黙って聞いていた。
祖母も、何も言わなかった。
話が終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて祖父が、重く口を開いた。
「……お前は、大きなものを抱え込んだな」
「……うん」
「でも、あの担体のこと、あの紙のこと、そして天城の娘のこと。全部、一日で消化できる話じゃない」
「分かってる」
「分かってるなら、焦るな」
祖父はそう言って、それから、少しだけ目を逸らした。
「……でも、一回だけ聞いておきたい」
「なに?」
「あんたは、あの紙に書かれた通り、回復魔法使いに会う気か」
僕は、答えられなかった。
会いたい。
でも、会うことが、正しいのかどうかは分からない。
祖父は、それ以上追わず、代わりに祖母が静かに言った。
「湊。あんたは、あの子を助けた時も、誰かに聞かれた時も、いつも“正しい方”を選んできたね」
「……そうかな」
「そうさ。ただし、今度のは、正しさを簡単に決められないやつだよ」
祖母の言葉に、僕は小さく頷いた。
「でも、行かないと、たぶん終わらない」
その言葉に、祖父は深く息を吸い、それから、ゆっくりと頷いた。
「なら、行け。……ただし、独りでは行くな」
「うん」
「信じられる相手と、行け」
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
第三ダンジョンの方向、遠くの灯りが、いつも通り明るく見える。
でも、その地下深くでは、今も何かが静かに“完成”に向かっている。
僕はそれを止めなければならない。
たぶん、僕しかいない。
そしてそのために――天城聖良に、会わなければならない。
次の朝、スマホには二人のメッセージが入っていた。
御子柴さんから。
昨日の件、整理したわ
まずは聖良さんの接触経路を作る
来週、一度だけ面会の隙間ができそうよ
そして、篠宮さんから。
私の家の内部にも、手を打つわ
あなたが動く前に、私は動く
……でも、心配なら、言って
最後の一行だけ、何度も読み返してしまった。
僕は、短く返信した。
行こう
一緒に
送信ボタンを押した瞬間、僕の中の《錬金術》が、また少しだけ脈打った気がした。
まるで、待っていたみたいに。




