第二十一話 白い担体と、深部に残された声
白い塊は、まだ脈を打っていた。
ゆっくりと、呼吸みたいに。
一つ膨らんで、しぼんで、また膨らむ。不気味なはずなのに、どうしても「醜い」とは思えなかった。むしろ、傷ついた何かが静かに息をしているように見えた。
「……手を、離して正解だったわね」
御子柴さんの声が、低く背後から届く。
「触れた瞬間、反応した」
「ごめん」
「謝らないで。結果、何か分かったでしょう」
その言い方に、叱られるよりずっと堪えた。
僕は掌を見下ろす。熱はまだ、かすかに残っている。
《錬金術》の感覚は、あの白い塊に触れた瞬間、はっきりと「同じもの」を感じた。正確には、同じ“系統”だ。
「朝比奈くん」
篠宮さんが膝をつき、白い塊を慎重に観察する。
「これ、何なの。さっきから、あなたと共鳴してるみたいに見える」
「……たぶん、治癒の担体の、原型に近いものだと思う」
「原型?」
「真壁さんの話だと、黒濁は途中で“喰うもの”に変わったって言ってた。でも、これは喰ってない。むしろ、抱え込もうとしてる感じがする」
僕は言葉を選びながら続ける。
「黒濁は集める。これは、たぶん、癒やそうとしてる。……同じものから生まれたのに、向きが逆なんだ」
一ノ瀬さんが、槍を下ろさないまま横で言った。
「それって、いいものなの? 悪いものなの?」
「まだ分からない」
正直だった。
でも、悪意だけは感じない。
そのことが、逆に不気味でもあった。
御子柴さんが周囲を見回し、短く命じる。
「ここで長居はしない。担体のことは記録して、先を見る」
「先、って、まだ奥があるんですか」
「空気の流れがある。奥へ抜けてるわ」
たしかに、空洞のいちばん奥、低い天井の下の暗がりから、冷たい風が流れてきていた。
鉄と、土と、さっき嗅いだ青い草の匂い。
その風に混じって、ほんのわずかだけれど、別の匂いがある。
機械油。
それと、焦げた金属。
誰かが、つい最近まで、そこにいた匂いだ。
◇
空洞の奥は、思いのほか短かった。
低い天井をくぐるように進むと、そこは小さな作業空間になっていた。
広さは、篠宮さんの研究室と同じくらい。天井は低いが、床は水平に整えられ、壁には古い配管が何本も這っている。
「……ここ、使われてる」
一ノ瀬さんが呟いた。
その通りだった。
ほこりを被った場所と、そうでない場所が、はっきり分かれている。古い棚の一角だけが、妙にきれいだ。誰かが定期的に手を触れている。
壁際には、簡素な折りたたみ机。
その上に、古びた端末が一台。
そして、その横に、小さな金属の箱が置かれていた。
土埃の層が、他の什器とまるで違う。
これだけは、最近動かされている。
「罠かしら」
篠宮さんが言う。
「可能性はある。でも、それだけじゃない気がする」
僕は、その金属の箱を見て言った。
《錬金術》の感覚が、微かに反応している。
けれど、白い担体の時ほど強くはない。もっと、余韻みたいなものだ。誰かが長く持っていたものが、染みつけている残り香。
御子柴さんが慎重に近づき、金属の箱をじっと見る。
「鍵は」
「かかってないみたい」
「開けるわよ」
彼女は手袋をしたまま、ゆっくりと留め具を外した。
ふたが開く。
中に入っていたのは、壊れた分析用具の一部、古い薬包紙の束、そして――一番上に、小さな記録用の魔石が一粒、転がっていた。
一ノ瀬さんが、思わず身を乗り出す。
「これ、何?」
「記録用の魔石よ。音声を残せるタイプ」
篠宮さんの声が、わずかに震えた。
「古い型だけど、まだ生きてる」
御子柴さんは魔石を慎重に取り上げ、机の端へ置いた。
「再生する?」
「……するべきよ」
答えたのは篠宮さんだった。
僕はその横で、嫌な予感と、それ以上に強い“聞きたい”という気持ちがせめぎ合っているのを感じていた。
だって、これはたぶん。
これをここに残した誰かが、聞かれることを想定して置いていったものだ。
御子柴さんが、予備の小型端末へ魔石を接続する。
数秒の沈黙。
小さな雑音が走る。
そして、部屋の中に、掠れた男の声が流れ始めた。
『――記録、最終。第二素材応用研究室、主任、天城冬吾』
その声は、年を重ねた男のものだった。落ち着いているのに、どこか疲れている。言葉の端々に、息が混じる。
『この記録を、誰が聞くかは分からない。だが、もし聞く人間がいるなら、まず謝らせてほしい。俺たちは、人を救うために始めた。本当だ。回復魔法の届かない傷を、魔法のない人間でも癒やせるように。それを本気で信じていた』
一ノ瀬さんが、息を止めている。
声は続く。
『だが、計画は途中で歪んだ。俺の預かり知らぬところで、出資者が変わった。目的が変わった。治すための担体は、集めるための器に作り替えられた。誰が、とは言わない。言えば、この記録ごと消されるからだ』
御子柴さんが、無言で拳を握った。
篠宮さんの表情は、ほとんど硬直していた。
『俺は止められなかった。技術の半分は俺だ。責任の半分は、たぶん俺にある。……だから、せめてもの抵抗を残しておく。あの歪んだ形になる前の、正しい担体を、ここに封じた』
僕の胸が、大きく鳴った。
白い、あの塊。
『誰かが、いつかこれを見つけたら。もし、あんたが治す側の人間なら――頼みがある』
声が、少しだけ詰まる。
『この担体と、あとひとつ、俺の残したものが組み合わされば、回復魔法に頼らずとも……いや、違うな。回復魔法と、肩を並べられるものになるはずだ。だが、そのためには、担体に“意思”を通せる人間が要る』
意思を通せる人間。
僕は、自分の掌を見た。
『魔法とは別の形で、素材の性質を読み、組み替えられる才能。俺は、それを“錬成”と呼ぼうとしていた。だが、俺の周りには、十年探しても見つからなかった』
自然と、一歩、後ろへ下がりかけた。
一ノ瀬さんが、その肩を掴む。
「朝比奈くん」
彼女の声は、静かだった。
「……うん」
僕も、小さく頷いた。
声は、最後の方を言い淀むように続く。
『この記録を、俺の娘が聞くようなことになれば……すまない、と思う。彼女には、この仕事を背負わせたくない。だが、もう一人、俺に近い才能の持ち主が現れたなら。その時だけは――あの子に、会ってやってほしい。俺は、もう、会えないから』
その一言のあと、声はしばらく途切れた。
かすかな息遣いだけが、数秒残る。
そして、最後にもう一度。
『無事に、あんたが人を治す側でいてくれることを、願っている』
終わった。
静寂が、狭い作業空間に落ちる。
古い配管の先で、水の落ちる音だけが、規則的に鳴っている。
◇
再生端末を消したあと、誰もすぐには口を開かなかった。
一ノ瀬さんは槍の柄を握ったまま、ずっと床を見ていた。
篠宮さんは、机に手を置いて、小刻みに指を動かしている。
御子柴さんは、静かに魔石を袋へ戻した。
しばらくして、最初に声を出したのは篠宮さんだった。
「……私たちの家は、彼の研究を“歪めた側”なのね」
その言い方に、僕は何も返せなかった。
「責任者を、追い出した。表向きは中止にして、裏で使えるところだけ使った」
「ひまりさん」
御子柴さんが静かに呼ぶ。
「断定は早いわ」
「でも、辻褄は合ってる」
篠宮さんの声は、震えているのに、逃げていなかった。
「うちの物流記録に、第二素材応用研究室の名義が残っていた。旧資材搬入口を使えるだけの権限を持てるのは、うちの系統を辿れる人間だけ。だとしたら、今も内部に――」
「だからって、あなた一人が背負う話じゃない」
御子柴さんの言い方は、静かだけれど、はっきりと遮るものだった。
「あなたはまだ十八よ。起きたことを、一人で決算しないで」
「……分かってる」
分かっていて、それでも揺れているのが、その横顔に出ていた。
僕は、机の上に残った金属の箱を見る。
天城冬吾が残した、正しい担体。
そして、彼の“もうひとつのもの”。
「……あの人が言ってた、“あとひとつ”って」
僕が口を開くと、三人の視線が集まった。
「もしかして、まだこの近くにあるのかな」
「可能性は高いわ」
御子柴さんが頷く。
「ただ、担体と同じ場所に置くとは限らない。分けて隠すのが記録の基本よ」
「でも、ここに置かれてるのは、あえて見つけさせるためみたいだった」
一ノ瀬さんが言う。
「それって、朝比奈くんに見つけさせたかった、ってこと?」
「……断定はできない。でも、そう置かれているのは確か」
僕は席を立ち、周囲を見回した。
狭い作業空間。古い配管。ほこりの層。
この部屋に、もうひとつ何かが隠されているなら、そう遠くはないはずだ。
その時だった。
《錬金術》の感覚が、また微かに脈打った。
さっきは白い担体に共鳴した。今度は、別の方向だ。
低い天井の脇。
古い配管が壁へ入り込む、その根本のあたり。
僕は無言で歩み寄り、配管の陰を覗き込んだ。
そこには、小さな石の窪みがあった。土埃を被っているのに、その窪みの中だけは妙に乾いている。
手を伸ばすと、指先に硬いものが触れた。
「……なに」
一ノ瀬さんが後ろから声をかける。
僕はそれを静かに引き出した。
出てきたのは、小さな石の筒だった。筒の中に、細く折り畳まれた紙が詰まっている。
「手紙?」
「分からない。でも、読める」
慎重に取り出すと、紙は古びているのに、折り目だけは妙に新しい。何度も開いては閉じた跡がある。
僕はゆっくりと広げた。
走り書きだった。乱れている。けれど、さっきの声と同じ人間の筆跡に違いない。
紙には、こう書かれていた。
―― 歪んだ方の担体は、第三の中層にある。誰かが、そこで“完成”させようとしている。俺には止められなかった。せめて、向かう人間が正気でいられるよう、これを残す。
そして、その下にもう一行。
―― 錬成に目覚めた者よ。回復魔法使いと、手を組め。それだけは、忘れるな。
僕は、しばらくその文字を見つめていた。
回復魔法使いと、手を組め。
天城聖良の顔が、まだ一度も見ていないのに、頭に浮かぶ。
ポスターの中で、静かに微笑んでいた、あの少女。
紙の端には、小さな染みがひとつ。
指で触れると、乾いているのに、なぜか温かく感じた。
「……朝比奈くん」
御子柴さんが、横へ並んだ。
「何が書いてあったの」
僕は紙を彼女へ渡す。
読んだあと、御子柴さんはしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「これは、たぶん決断の紙よ」
「決断?」
「このまま帰って、何事もなかったことにするか。それとも」
彼女は紙の一行を指でなぞる。
「ここに書かれた通り、中層へ向かうか」
一ノ瀬さんが、僕の袖を掴んだ。
「朝比奈くん。今日は、三時間だけの許可だよ」
「……うん。分かってる」
「でも、明日、って言われたら」
彼女の手が、少しだけ強くなる。
「行くでしょ、たぶん」
僕は答えられなかった。
けれど、答えないことが、いちばん正直だった。
その時、空洞の奥、来た道とは反対側の暗がりから、かすかな音が聞こえた。
機械が、ゆっくりと動き出すような音。
金属が擦れ、空気が動く。
誰かが、こちらへ向かって扉を開けた音だ。
「……まずい」
御子柴さんが、即座に腰を落とした。
「戻るわよ。急いで」
「でも、担体は!?」
「記録は取った。今の優先度は、生きて戻ることよ」
僕は白い担体を一瞬だけ振り返った。
それは変わらず、ゆっくりと脈を打っている。
まるで、別れを惜しむみたいに。
一ノ瀬さんが肩を掴んで引く。
「朝比奈くん、走って」
僕たちは、来た道を引き返し始めた。
背後から、足音が近づいてくる。
急いでいるのに、整っている。迷いがない。
それは、また、あの連中だった。
低い天井をくぐり抜けながら、僕は掌の中の紙を強く握った。
――回復魔法使いと、手を組め。
あの一行だけが、暗がりの中で、やけに明るく残っている気がした。




