第二十話 元職員の生きた証言と、第三の深部へ
その夜、僕たちは篠宮ひまりさんの個人研究室へ集まった。
学校から歩いて十五分ほどの、古い雑居ビルの二階。表札も看板も出ていない部屋の扉を、篠宮さんは慣れた手つきで開けた。中は、教室ひとつ分ほどもない狭い空間だった。けれど白い壁、分厚い防音扉、壁一面の資料棚、そして小さな分析台。台の上には見慣れない器具が、これまた几帳面に並んでいる。
「ここが、あなたの研究室」
一ノ瀬さんが物珍しそうに見回す。
「そう。家の正規施設じゃないから、出入りの記録も残らない。だから人にはあまり言ってないの」
「なんで僕たちには教えてくれたの?」
「必要だったからよ」
篠宮さんはそう言って、防音扉の鍵を二重にかけた。それだけで、ここがただの勉強部屋ではないと分かる。
御子柴さんはすでに奥の椅子に腰かけていた。いつも通りスーツ姿だけれど、今夜は上着を脱いでいる。それだけで少しだけ、警戒より“仕事”の顔に見えた。
「それで、その人?」
僕が訊くと、篠宮さんは小さく頷いた。
「あと十分で来るわ。……面と向かって話すのは、私も初めてなの」
「初めて?」
「記録の中の名前でしか知らなかった人だから」
その言い方に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
◇
約束の十分後、扉が三回、短く叩かれた。
篠宮さんが確認してから開ける。
入ってきたのは、五十代半ばくらいの男の人だった。痩せていて、背は高くない。薄い灰色の上着に、よれたズボン。そして、妙に目を引くのはその両手だった。指の付け根が白くただれ、爪の一部が変形している。薬品か、あるいはもっと別の何かに、長く触れ続けた手だ。
「真壁さん。来てくださってありがとうございます」
篠宮さんの声は丁寧だった。
「真壁宗一さん。元第二素材応用研究室、副主任」
真壁さんは、部屋の中を一度だけ見回した。
その目で、御子柴さんのスーツを、一ノ瀬さんの腰の槍ケースを、そして僕の手元の革袋を、順番に確かめていく。落ち着かない目だった。逃げたい人の目だ。
「……篠宮のお嬢さんが直々に来るから、何かと思えば」
声は低く、掠れていた。
「俺はもう、あの研究室とは縁を切ったんだがな」
「縁を切った人にしか聞けない話だから来てもらったんです」
篠宮さんはそう返して、僕の方を振り返った。
「朝比奈くん。例のもの、見せてあげて」
僕は頷いて、革袋から二つの密封袋を取り出した。ひとつは旧搬入口で拾った金属片。もうひとつは、処理した核の破片と、黒い粉のついた布の切れ端だ。
分析台の上に並べると、真壁さんの動きがぴたりと止まった。
金属片に目を落とし。
黒い粉の袋へ手を伸ばしかけ、その手前で止める。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……これ、どこで」
「第三ダンジョンの旧資材搬入口で」
御子柴さんが静かに答える。
「あなたが今、触れようとしてやめたそれの意味を、教えてほしい」
真壁さんは答えなかった。
代わりに、しわの寄った指で、自分のこめかみを二、三度押さえた。
「俺は、もう関係ない」
「関係なくても、分かるんでしょう」
篠宮さんが一歩も引かない。
「この刻印が、あなたのいた研究室のものだって分かるんでしょう」
沈黙。
部屋の中に、古い空調の音だけが残った。
やがて真壁さんは、小さく、本当に小さく頷いた。
「……第二素材応用研究室の、旧型式だ」
「やっぱり」
「見つけたら、俺でもそう思う。でも、俺はもう十八年、あそこに関わってない」
「じゃあ、なぜ顔色が変わったんです」
今度は僕が訊いた。
真壁さんは僕をじっと見た。
さっきまで、僕をこの場でいちばん軽い相手と見ていた気がする。けれど黒い粉を見た瞬間から、その視線が変わった。
「坊や。あんた、これを触ったな」
心臓が跳ねる。
「……はい」
「素手で?」
「途中から、手袋と器具を使いました」
「間に合ってるかどうかは、俺には分からんよ」
真壁さんはそう言うと、突然、分析台の椅子を引き寄せて座り込んだ。立っているのが堪えられなくなったみたいだった。
「いいか。一度だけだ。俺の話は、ここで聞いたら、忘れろ」
誰も返事をしなかった。
その沈黙を、了承と受け取ったんだと思う。
真壁さんは、袋の中の黒い粉を見たまま、ぽつぽつと話し始めた。
「あれは、もともと武器じゃない」
その一言で、部屋の空気が止まった。
「黒く濁ったスライムを見たんだろう。ニュースでも、内部でも、そう呼ばれてる。でもな、元は違う。あれは、治癒の担体だ」
「治癒の、担体」
僕が繰り返すと、真壁さんは頷いた。
「回復魔法ってのは、この国に数人しかいない。一人が救える人間の数には、限りがある。なら、その力の代わりに、誰でも運べて、誰にでも使える“治し手”を作れないか――それが、あの研究室の始まりだった」
僕は思わず息を飲んだ。
一ノ瀬さんも、御子柴さんも、篠宮さんも、誰も動かない。
真壁さんの言葉を、一文字も落とすまいという顔をしている。
「担体ってのは、薬を運ぶものだ。傷口へ届く。毒を吸い上げる。体内の悪いものを抱え込んで、外へ出す。俺たちは、そういう生き物を作ろうとした。薬草と、魔石と、モンスターの素材を混ぜてな」
「それが、あの黒い……」
「そう。……なんだがな」
真壁さんは、自分の両手を見た。
薬品焼けした指を、ゆっくりと組む。
「できなかった。正確には、辿り着く前に、方向が変わった」
「変わった?」
「治すはずのものが、喰うようになった。運ぶはずのものが、集めるようになった。誰かの指示でな」
そこまで言って、真壁さんはぴたりと口を閉じた。
「誰の」
御子柴さんが訊く。
「……そこは、言えん」
「言えない、ではなく、言わない?」
「どっちでもいいだろ」
真壁さんは顔を背けた。
けれど、僕はその時、妙なものを見てしまった。
真壁さんの袖口から、ほんの少しだけ見える手首に、うっすらと緑がかった筋が浮いていたんだ。
薬草の匂いはしない。
でも、《錬金術》の感覚が、かすかに反応した。
最近、あの手が、何か濃いものに触れている。それも、この部屋に来る前の、ごく数日のうちに。
思わず、口が動いた。
「真壁さん。最近、また触りましたね」
真壁さんの肩が、びくりと跳ねた。
一ノ瀬さんが息を呑む音が聞こえた。
「触ってない」
「でも、手に残ってます。今日じゃない。ここ二、三日のうちの何かです」
「……っ、坊や、あんた」
真壁さんは僕を見て、それから、がくがくと首を振った。
「あんた、何者だ」
その反応が、答えだった。
御子柴さんが静かに立ち上がる。
「真壁さん。あなたは、何かを知っている。それも、私たちが踏み込もうとしている場所のことを」
「知らん」
「知っていて、隠している」
「知らんと言ってる!」
真壁さんは声を荒げて立ち上がった。
椅子が床を擦り、耳障りな音がした。
けれど、その勢いのまま扉へ向かおうとして、彼は突然、足を止めた。
そして、僕の方を振り返った。
「なあ」
掠れた声だった。
「あんた、何か作れるんだろ」
どくり、と心臓が鳴る。
「薬か、何か。人を治すものを」
答えられなかった。
肯定すれば、《錬金術》に触れる。否定すれば、嘘になる。
真壁さんは、答えを待たずに続けた。
「あのな、ひとつだけ言っておく」
彼は分析台の上の黒い粉を、指さした。
「あれを作り直そうとしてる連中が、まだいる。それも、本気で完成させようとしてる」
「完成……」
「あの担体は、まだ途中だ。最後まで行けば、たぶん」
真壁さんの喉が、一度、大きく鳴った。
「たぶん、回復魔法が、要らなくなる」
部屋が、いっそう静かになった。
回復魔法が要らなくなる。
それは、この世界の医療の根幹を揺るがす言葉だった。国が数人しかいない適性者を守り、囲い、管理してきた理由そのものを、根こそぎにする。
「そんなもの、作ってどうするんですか」
篠宮さんの声が、少しだけ震えていた。
「……知らんよ。俺は、途中で降りた人間だ」
真壁さんはそれだけ言って、今度こそ扉へ向かった。
そして、扉を開ける前に、もう一度だけ僕を見た。
その目が、何か言いたそうだった。
でも、結局彼は何も言わずに、廊下へ出ていった。足音は、やけに急いでいた。
扉が閉まる。
残された四人は、しばらく誰も動けなかった。
最初に口を開いたのは、一ノ瀬さんだった。
「……治癒の担体、だって」
「ええ」
篠宮さんは小さく頷く。
「回復魔法の代わりを作ろうとした。それが、あの黒いものの正体」
「で、失敗して、暴走するようになった」
「そして誰かが、それを完成させようとしている」
御子柴さんが静かに締める。
僕は、まだ掌が冷たいままだった。
人を治すために作られたものが、喰うようになった。
それは、どこかで僕のことを刺す話だった。
僕の《錬金術》も、人を救うために使っている。
でも、使い方を一つ間違えれば、簡単に別の顔になる。
あの黒濁は、たぶんその“間違え方”の果てだ。
そして――あの真壁さんの手首の緑。
隠していたものを思い出すたび、胸の奥がざわつく。
「朝比奈くん」
御子柴さんが僕を見る。
「さっきの、どうして分かった」
「……手に、残ってたから」
「魔力痕?」
「よく分からない。でも、《錬金術》の感覚が、何かに反応した。あれは、今日ついたものじゃない」
「二、三日のうちに、何か濃いものに触れた」
「たぶん」
御子柴さんは目を細めた。
「真壁さん、何かを隠しているわね」
「でも話してくれなかった」
「話せば、自分が危ないからよ」
彼女は分析台の上の袋を見た。
「それに、彼の言い回しには引っかかるところがある。“辿り着く前に、方向が変わった”といったわ」
「うん」
「なら、“変えた人間”がいる。誰かが意図的に、治すためのものを喰うものへ作り替えた」
部屋の温度が、一段下がった気がした。
もしそうなら、第三で起きていることは、事故でも暴走でもない。誰かの意思で進められていることになる。
◇
その夜のうちに、御子柴さんはギルドへ戻って確認を取ってくれた。
翌日の昼、僕たちはふたたび研究室へ集められた。
「一つ、確かなことが分かった」
御子柴さんは開口一番に言った。
「あの旧資材搬入口の先、昔の搬送坑道が、第三ダンジョンの中層へ続いている」
僕は息を呑んだ。
「中層……」
「しかも、浅層の封鎖区域からは直接行けない。搬入口の裏手から、古い搬送路を伝って下るしかない。今は閉鎖扱いだけれど、一部はまだ構造が残っている」
「そこが、あの連中の通り道かもしれない」
篠宮さんが言う。
「ええ。黒い粉、培養体、木箱。全部あの搬入口から出ていた。なら、その先の“やって来た場所”があるはずよ」
「深部、ですか」
僕の問いに、御子柴さんは一拍置いて答えた。
「正確には中層から深部へかけて。古い搬送路は、当時の採掘跡を通って下へ抜けてる。今は地図からも落ちてる区画よ」
「なんで落ちてるの」
一ノ瀬さんが訊く。
「分からない。ただ、落とされた記録には必ず理由がある」
御子柴さんはそう言って、四枚の立入許可証を机の上へ並べた。
「明日、一部区画の限定立入が取れた。今のところ、四名まで。時間は昼の三時間だけ」
つまり、僕たちで行くということだ。
沈黙のあと、最初に口を開いたのは一ノ瀬さんだった。
「行くんでしょ」
「……うん」
「だよね」
彼女はため息をついて、それから笑った。
篠宮さんは立入許可証を一枚手に取り、しばらく見つめていた。
その顔には、怒りと、悔しさと、覚悟が一緒に浮かんでいる。
「私は、家の方がどうなっているかを、この目で確かめたい」
「危ないわよ」
御子柴さんが言う。
「分かってる」
「本当に?」
「本当よ。……でも、ここで引き返したら、私はたぶん、この先ずっと自分を許せない」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
一ノ瀬さんも、何も言わなかった。
たぶん、同じ気持ちだったんだと思う。
◇
翌日、昼。
僕たちは旧資材搬入口の裏手から、古い搬送路へ入った。
入り口は、思ったよりずっと小さかった。人がやっとひとり通れるほどの穴で、上には錆びたシャッターが半分だけ下りている。
「灯りは最小で。夜目補助は使うけど、二人だけ」
御子柴さんが確認する。
僕と篠宮さんが、昨夜の残りを飲む。
一ノ瀬さんには渡さない。前衛の踏み込みが狂うからだ。
「朝比奈くん、手札は」
「検知液が小瓶で三本。中和液が改良版で二本。粘着液が二本。それと、細かいの少々」
「爆ぜる薬は?」
「……置いてきた」
「賢明ね」
御子柴さんはそれだけ言って、先頭を歩き出した。
搬送路は、最初のうちこそコンクリートの壁と古いレールが続いていた。けれど、十分も歩くと、壁は次第に岩肌へ変わっていく。
レールは途中で途切れ、代わりに、人の手で削ったような段差が下へ続いていた。
「これ、前はトロッコが通ってたのかな」
一ノ瀬さんが小声で言う。
「ええ。素材運搬用ね」
篠宮さんが答える。
「でも、ここから先は当時の地図にもない」
空気が変わってきた。
冷たい。湿っている。そして、浅層にはなかった匂いがある。鉄と、土と、かすかに甘い、青い草の匂い。
「薬草が、ある」
僕は思わず立ち止まった。
段差の脇、光の届かないはずの壁面に、細い葉がびっしりと張りついている。夜色苔の仲間だ。けれど、浅層で見たものよりずっと色が濃く、中心がまるで内側から光を帯びているように見える。
「過剰吸収型の、群落……」
篠宮さんの声が、少し掠れた。
「こんなに深いところで、勝手に?」
「ええ。……いや、勝手じゃないわ。誰かが、そうなるようにした痕跡がある」
彼女は壁の一部を指さした。
石の表面に、細かい刻みが規則正しく並んでいる。魔力誘導の刻印だ。浅層で見たものと、同じ系統。
「やっぱり、ここだ」
御子柴さんは低く言った。
僕たちはさらに下へ降りた。
その時だった。
《錬金術》の感覚が、急に強く脈打った。
体中の血が、少しだけ温かくなるような感覚。浅層でも、黒濁の前でも、感じたことのない種類の反応だ。
「……なに、これ」
「どうしたの?」
一ノ瀬さんが振り返る。
「何か、ある。この先」
「敵?」
「違う……たぶん、違う」
うまく言えない。
敵の気配ではない。むしろ、似たものに引き寄せられる感覚に近い。
最後の段差を降りたところで、通路は小さな空洞へ開けた。
天井は低く、床は平らで、ところどころに白い染みが広がっている。まるで、何かの体液が長い時間かけて乾いたような跡。
「これ、なに」
一ノ瀬さんが槍を構えたまま、足元を見る。
僕はしゃがみ込んだ。
白い染みの中心に、まだ湿り気の残る塊があった。
黒くも濁ってもいない。むしろ逆で、透き通るように白く、内側に細かい糸のようなものが幾重にも重なっている。
その塊を見た瞬間、《錬金術》の感覚が、はっきりと共鳴した。
「……これ、培養体だ」
僕の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「黒濁とは、違う。これは、元の形に近い」
「元の形?」
篠宮さんが息を呑む。
「治癒の担体、の」
「あの真壁さんの話の」
一ノ瀬さんが言う。
「それが、ここに、まだ生きてるみたいに」
僕は思わず手を伸ばしかけた。
御子柴さんが止めるより、僕の指が先に、白い塊の表面へ触れていた。
瞬間。
白い塊が、ゆっくりと脈を打った。
まるで、待っていたとでも言うように。
そして僕の掌の《錬金術》が、応えるように熱を持った。
「朝比奈くん!」
一ノ瀬さんの叫びで、僕ははっと手を引いた。
けれど、白い塊の脈は、もう止まらなかった。
一つ、また一つ。遅い呼吸のように、それは確かに生きて、こちらを数えている。
「なんで……《錬金術》に、反応してるんだ」
誰も答えられなかった。
空洞の奥、さらに闇が続いている。
その奥から、かすかに、澱んだ空気が流れてくる。何かが、まだ先にある。
その時、僕ははっきりと分かってしまった。
これは、天城冬吾が本当に作りたかったものの、途中の姿だ。
けれど、それをここへ置いていった誰かは、ただ置き忘れたわけじゃない。あえて、残したんだ。
僕に、見せるために。
白い塊が、また脈を打つ。
その鼓動に合わせて、僕の中の《錬金術》が、答えるように脈打った。
奥の闇は、まだ何も語らない。
それでも――その沈黙の奥から、何かがこちらを見ている気配だけは、はっきりと感じられた。




