第十九話 眠れぬ朝と、篠宮家からの呼び出し
すみません。
予約投稿の日時を間違えてしまい昨日は投稿できていませんでした。
結局、その夜はほとんど眠れなかった。
布団に入ってから何度も寝返りを打ち、天井の染みを数え、窓の外で風が鳴るたびに意識が浮き上がる。目を閉じれば、あの黒い粘液の脈打つ光景が浮かんだ。フードの奥から聞こえた低い声が、耳の奥で何度も繰り返される。
――朝比奈薬店の坊や。やっぱり君か。
――回収対象としては、まだ早いと思っていたんだが。
回収対象。
その一言が、どうしても頭から離れなかった。
朝が来て、階下から祖母の足音が聞こえ始めた頃には、僕はむしろほっとしていた。夜をやり過ごせたという安堵と、これから始まる一日への緊張が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
「湊、起きてるかい」
廊下から祖母の声。
「起きてる」
「声が眠そうじゃないね」
扉越しに苦笑が伝わってくる。
やっぱりこの人は、僕の寝不足なんてすぐに見抜く。
顔を洗い、制服に着替えて階下へ降りると、店の空気はいつも通りだった。
乾燥棚の薬草。湯気の立つ小鍋。帳面を広げる祖父。
昨夜の出来事が嘘みたいに穏やかな光景なのに、その平穏そのものが今は薄氷に思える。
「飯を食え」
祖父が帳面から目を上げずに言う。
「食べないと頭が回らん」
「……うん」
食卓では、祖母がいつも通り味噌汁をよそいながら、さりげなく言った。
「昨夜のあれ、昼には篠宮さんと御子柴さんが詰めるって話だったね」
「うん。連絡はまだないけど」
「焦るんじゃないよ。ああいうのは、早く動くより、変に隙を見せない方が大事だからね」
祖母の言葉は、たぶん昨夜のうちに気持ちを整理してくれたんだろう。
教えられることが多すぎる。
朝食を終えて店を出る時、祖父が短く呼び止めた。
「湊」
「なに」
「今日は、変な呼び出しがあっても、独断で動くな」
「……分かってる」
「お前は“分かってる”と言いながら、困ってる人を見ると動くからな」
その言い方に、少しだけ返す言葉が詰まる。
結局、僕は祖母の言葉を借りるしかなかった。
「気をつけるよ」
学校への道すがら、いつもより人の声が遠く聞こえた。
眠っていないせいもある。でも、それだけじゃない。
誰かが僕を見ているような気がする。
振り返っても、そこにはただの通学路があるだけなのに。
◇
学校に着くと、教室の空気は少しだけざわついていた。
原因はすぐに分かった。
「おい、朝比奈」
隣の席の男子が、声を潜めて僕に言う。
「お前、なんか篠宮さんに呼び出されてるって本当?」
「……誰がそんなこと」
「みんな言ってるよ。昨日、旧視聴覚室で二人きりだったって」
どうしてそうなる。
僕は思わず額に手を当てた。
旧視聴覚室を誰かに見られていたらしい。しかも、見られ方が悪い。
「仕事の話だよ」
「仕事って何の」
「……家の用事」
「はあ?」
当然、納得はされなかった。
説明できないことだらけの僕の返答は、たいてい怪しまれて終わる。
そこへ、背後からぽん、と肩を叩かれた。
「朝比奈くん、ちょっと」
振り向くと、一ノ瀬さんが立っていた。
いつも通り明るい顔だけれど、目の下にうっすら隈がある。……この人もあんまり眠れなかったんだろう。
「なに?」
「ちょっと、話」
彼女は僕を教室の外へ連れ出し、人気のない階段の踊り場で足を止めた。
「大丈夫? 顔、ひどいよ」
「君も大概だよ」
「私はいいの」
むっとしたように言ってから、すぐ真面目な顔になる。
「昨夜、あれからちゃんと寝られた?」
「……あんまり」
「だよね。私も」
一ノ瀬さんは手すりに手をかけ、外の景色をぼんやり見ながら言った。
「あのフード、朝比奈くんのこと知ってた。それだけでもう、嫌な感じしかしない」
「うん」
「しかも“回収対象”って」
声を落とすあたり、ちゃんと分かっている。
教室に聞かれたら終わりの単語だ。
「……自分でも、ひどい言葉だと思った」
「でしょ。人を何だと思ってるんだろうね」
彼女の口調は怒っているようでいて、少しだけ震えていた。
たぶん、僕に言われたことを、自分のことみたいに腹を立ててくれている。
それが分かると、眠れなかったことも、少しだけ報われる気がした。
「御子柴さんから連絡来るまで、今日はおとなしくしてる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ約束」
一ノ瀬さんは右手の小指を差し出してきた。
「約束って」
「小指。指切り」
「小学生みたいだね」
「朝比奈くんが相手だと、これくらいしないと信用できないの」
言いながら、その顔は少しだけ笑っていた。
僕は苦笑しながら、その小指にそっと自分の小指を重ねた。
「じゃあ、約束」
「うん。破ったら、次の探索で私が先頭突っ込むから」
「脅しが物騒すぎる」
その時だった。
スマホが震えた。
画面を見ると、表示は篠宮ひまり。
「篠宮さん?」
一ノ瀬さんも覗き込む。
メッセージは短かった。
昼休み、屋上に来れる?
一人で来る必要はない
「一人で来る必要はない」の一文に、少しだけ篠宮さんらしさを感じる。
全部は抱え込むな、と昨日の僕も言われたばかりだ。
「屋上、ねえ」
一ノ瀬さんが横でにらんでいる。
「一緒に行く? それとも、私が行くとまずい?」
「いや、行こう」
僕はすぐに答えた。
「向こうも、一人じゃなくていいって言ってる」
「ふーん」
彼女は少しだけ口を尖らせてから、すぐに頷いた。
「あ、でも」
「なに?」
「教室の人には、また変に言われるかもね」
確かに。
昼休みに篠宮さんと一ノ瀬さんと屋上に集まったら、噂が噂を呼ぶことくらい想像できる。
けれど、今はそれどころじゃない。
何より、篠宮さんが昼に呼び出してきたのは、昨夜の一件で何か動きがあったからに違いない。
「……行こう」
そうして僕たちは、うるさい噂を背に、昼休みの屋上へ向かった。
◇
屋上は、昼の日差しが強かった。
うだるような熱気の中で、手すりに手をついて立つ篠宮さんは、いつもより少しだけ疲れて見えた。けれどその背筋は、やはりぴんと伸びている。
彼女は僕たちの足音を聞きつけて振り返り、一ノ瀬さんの姿を認めても、嫌な顔はしなかった。
「来てくれてありがとう」
「何かあった?」
僕が訊くと、篠宮さんは小さく息を吐いた。
「ええ。かなり大きな話」
その言い方に、全身が自然と緊張する。
篠宮さんは持参した端末ではなく、紙のメモを一枚、僕へ差し出した。
手帳から切り取ったような、小さな紙片だ。そこには、昨日の旧搬入口で回収した金属片の刻印について、彼女がどうしても判別できなかった部分を、家の記録係にそれとなしに探らせた、と書いてある。
「記録係から返ってきた答えが、これ」
メモには一行だけあった。
『旧第二素材応用研究室。閉鎖は十八年前。責任者、天城冬吾(故人)』
名字を見た瞬間、僕は目を丸くした。
「天城……」
どこかで聞いたことがある気がする。
けれど、思い出せない。とても大切な、でも普段は意識していない名前だ。
「知ってる名前?」
一ノ瀬さんが訊く。
「いや、すぐには……」
正しくは、「知っている気がする」という感覚が抜けない。
篠宮さんは少しだけ眉を寄せる。
「そっか、学校レベルじゃ、たぶんその名前は知らないか」
「どういう意味?」
僕が聞くと、彼女は一度だけ周囲を見回してから、声を一段落とした。
「天城冬吾って、この界隈でも少しだけ名前を知られてる医療系の研究家だった人。ただし、職業を普通に探っても表にはあまり出てこないタイプの人よ」
「なんで?」
「ダンジョン出現以降、回復魔法使いの研究をしていた人だから」
回復魔法。
その単語を聞いた瞬間、僕はようやく、自分の記憶の裡に何かが引っかかるのを感じた。
国に二、三人しかいないと言われる超希少な適性。
その存在は、この世界の医療の在り方を根本から揺るがすものだ。
現に僕のポーションも、回復魔法に近い働きを持つと言われることがある。
「天城冬吾さんは、回復魔法の代替になる研究を進めていた人。ただし、非合法まではいかなくても、かなり際どいことをしていたらしいわ」
「それが、第二素材応用研究室」
「ええ」
篠宮さんは小さく頷いた。
「旧研究部門の主任として、彼はダンジョン産素材を医療へ直結させる試みをしていた。でも、事故か失踪か……途中で研究が止まっている」
「辞めたの?」
「表向きは、研究中止よ。でも、私の家の上司に当たる人の中には、彼の消息に触れると不機嫌になる人がまだいる」
つまり、まだ生きているのか、死んでいるのか。
どちらでも、この話は僕たちの世界へまっすぐ繋がっている。
そして僕は、どうしても気になっていたことを聞いた。
「その人と、同じ名字の人が、この界隈にいる?」
篠宮さんは目を伏せて、しばらく黙った。
数秒の間を置いて、彼女は小さく息を吐く。
「ええ。……天城聖良さん」
名前を聞いた瞬間、僕の心臓が一度だけ強く鳴った。
「天城、聖良?」
「同じ学校じゃないけれど、娘に近い年齢で、今は国が定めた保護下にある治療施設にいるらしいわ」
その説明を聞いて、僕の中でようやく点と点が繋がった。
学校の保健室の掲示板に貼ってあった、珍しい医療講演のポスター。
それは、超希少な回復魔法の適性者による公開講演だった。参加者は少なく、一般公開されていなかった。その名前が、確か――天城聖良。
まさか。
僕は自分の考えを打ち消そうとして、けれど間に合わなかった。
天城冬吾の娘が、回復魔法使い。
そして、彼の研究が止まっている。
さらにそこへ、黒濁スライムの素体と、異常な薬草。
これは偶然にしては、あまりに整いすぎている。
「篠宮さん」
僕の声は、思ったより低く出た。
「もしかして、天城聖良さんに、会う必要がある?」
篠宮さんは少しだけ目を見開いた。
その反応で、僕の推測は当たっていたことが分かった。
「……よく分かったわね」
「名前の繋がりが、強すぎるから」
「そう」
彼女は静かに頷いた。
「私もそう思ってる。もちろん会うのは簡単じゃない。国の保護下にある人を、簡単に会わせてはくれないから」
「それでも、必要なんだね」
「ええ」
女学院の屋上に、熱と静寂が垂れこめる。
そして僕たちは、この一件が、ただのダンジョン異変ではなくなっていることをはっきりと知った。
現場の罠。企業の旧研究。保護された回復魔法使い。そして僕の錬金術。
ここまで来ると、これはもう巨大な流れの一部で、僕は知らないうちにその渦の中へ足を踏み入れている。
その時だった。
篠宮さんが、ふと言いにくそうに口を開いた。
「それで、なんだけど」
「なに?」
一ノ瀬さんがすかさず応じる。
篠宮さんは少しだけ言葉を選んでから、僕へ言った。
「聖良さんのところへ、行けるように行動を取ってみる」
僕は息を呑んだ。
でも、次の言葉が、二の句を告げさせなかった。
「ただし、条件があるの」
「……条件?」
「ええ」
彼女はまっすぐ僕を見る。
「その時に、一緒に来てほしい人がいるの」
僕の頭に、一ノ瀬さんと御子柴さんの顔が浮かんだ。
けれど篠宮さんが告げたのは、そのどちらでもなかった。
「この前、家の正規ルートじゃない場所で見つけた、一冊の記録」
僕は首を傾げる。
「それに、私の名前じゃないけど、旧研究部門の元職員の名前が出てくる」
篠宮さんは一拍置いて、続けた。
「その人に、現場を見てもらいたいの。私が一人で握りつぶされないように、ちゃんと生き証人として来てもらう」
現場の状況を知る人を、もう一人つれて行く。
それは、篠宮さんが自分を守るための知恵でもあり、たぶん勇気でもあった。
屋上の扉の向こうで、午後のチャイムが鳴り始める。
「お昼休み、終わっちゃうね」
一ノ瀬さんが小さく言う。
「でも、たぶんその話、これから重要になる」
「ええ」
篠宮さんは静かに頷いた。
「だから、また夜に。ちゃんと四人で話しましょう」
昼のチャイムが、やけに遠く聞こえた。
あとで振り返れば、この昼休みの屋上での数分こそが、僕たちの“章”の始まりだったのだと思う。




