第十八話 培養体の鎮静と、朝比奈薬店に帰る夜
最初の核は、思ったより素直に鎮まってくれた。
中和液を染み込ませた薬草の切れ端で一滴ずつ落とすたび、核の表面がぶつぶつと泡立ち、黒い色がゆっくり澄んでいく。完全に無くなるわけではない。けれど、さっきまで“蠢く気配”を纏っていたものが、次第に動きを失っていくのが分かった。
「……効いてる?」
一ノ瀬さんが小声で訊く。
「たぶん。まだ完全じゃないけど、暴走の兆候は止まってる」
そう答えた僕の手元を、篠宮さんが静かに見つめていた。
目を奪われている。
理解しようとしている。
その視線に、僕の背中は少しかすかに熱くなる。
今、この場にいる全員が、僕の《錬金術》の一端を見ている。
蓋をして、瓶にしまって、そしてここにいなかったら――。
いや。
考えるのは後だ。
「二つ目、いくよ」
一ノ瀬さんが次の核を、また槍の石突で慎重に液から引き上げる。
ぶに、と嫌な音がして、黒い糸が細く伸びる。
「……絵になるな」
御子柴さんが唐突に言った。
「何が?」
「いや。観察記録には書けない話だと思ってね」
口元をわずかに緩めて、すぐに真顔に戻る。
どういう意味かは、あとで考えよう。
二つ目も、三つ目も。
順に中和していく。
手は震えた。
怖かった。間違えれば、ここで黒濁化が暴発するかもしれない。
もしそうなったら、一ノ瀬さんが真っ先に危険に晒される。
篠宮さんも、御子柴さんも。
それでも、不思議と手を止めなかった。
なぜなら、自分に“できる感覚”があるから。
《錬金術》は、今の僕にはこういう使い方が自然なんだ。
やがて最後の核を鎮めた時、箱の中の黒い粘液は、明らかに活発さを失っていた。
水飴みたいにとろりと硬化し、先ほどまでの脈打つ動きが消えている。
「……できた」
僕は息を吐き、箱をひとつ眺める。
御子柴さんが警戒しつつ、そばへ近づいて確かめる。
「動きは?」
「止まってる。たぶん、このまま固まっていく」
「本当に?」
「分からない。でも少なくとも、今は暴走しそうには見えない」
御子柴さんは数歩してから、小さく頷いた。
「よし。ならこれで持ち帰れる」
それから、残った箱の破片、黒い粉のついた布、そして核の破片をいくつか、用意した密封袋へ丁寧に移していく。
篠宮さんも端末で何枚か撮影し、こちらも助手に回した。
「血痕」
一ノ瀬さんがふと言った。
「あのフード……じゃなくて、倒した方の傷跡かな。腕から血がついてた」
「ここで倒れてた男のものか」
御子柴さんが溶けた部分を見る。
実際、男を拘束していた時におそらく手首を切ったのだろう。黒い布の切れ端に、かすかに暗い染みが広がっている。
「それも回収しておく」
御子柴さんは袋へ入れた。
「身元特定の足がかりになるかもしれない」
そうして、現場が最低限の証拠回収を終えた頃には、夜はさらに深くなっていた。
眼下の旧搬入口は、再び静まり返っている。
逃げたフードの人物たちの姿は、もうない。
けれど、その静けさが不気味なのは、相手がまだ近くにいるような気配がするからだった。
「……帰ろう」
御子柴さんが短く言う。
「ここから先は、手持ちの証拠を整理して動くのが先」
僕たちは頷き、高台を下りた。
決して早足にならないように、できるだけ足音を抑えて、元来た道を戻る。
しばらく誰も口を開かなかった。
緊張が続いていたせいか、会話する余裕がなかったのだ。
朝比奈薬店の裏口に着いた頃には、全員が疲れ切っていた。
「……帰ってきた」
僕が呟くと、一ノ瀬さんが隣で小さく笑った。
「無事に帰ると、こんなにほっとするんだなって思う」
「それは僕もだよ」
裏口を開けると、待っていた祖父の低い声が飛んできた。
「おかえり。……無傷か」
「なんとか」
僕を一通り見てから、祖父は三人にも目を走らせる。
「お前らも。怪我人は?」
「ほぼなしです」
御子柴さんが静かに答える。
祖母が温かいものと布を用意してくれ、僕たちは作業場に再び集まった。
先ほどまで敵の箱と格闘していたのが嘘みたいに、いつもの薬草の匂いがする場所。
作業台に証拠袋を並べ、御子柴さんが端末の記録を共有する。
「概況を話すわ」
そうして、さっき起きたことを簡潔に説明した。
旧搬入口での貨物車両。
三つの木箱。
保温?いや保冷の可能性。
黒い培養体。
フードの人物。
そして、あの人物が口にした言葉。
「『朝比奈薬店の坊や。やっぱり君か』って言われたんだ」
僕がそう言うと、作業場の空気が一瞬で固まった。
祖父が腕を組み、深く息を吸う。
「……向こうは、もうかなり本気でお前を特定している、と」
「みたいです」
祖母がひそかに呟く。
「回収対象って言われたの?」
一ノ瀬さんが顔を真っ青にして言う。
「言われた」
その言葉に、祖母がゆっくりと祖父を見る。
祖父も、答えを探すように僕を見た。
「……湊」
「なに」
「これは、もう冗談じゃない話だぞ」
祖父の声は低かったが、どこかしら震えていた。
おそらく、心配しているんだ。
「分かってる」
心配されても、それはもう避けられない。
向こうは僕を知っている。
その僕を“回収”しようとしている。
それは、もはや単なる怪しい調査ではない。
沈黙が落ちて、しばらく誰も言葉を出せなかった。
その沈黙を破ったのは、篠宮さんだった。
「──あれ、私が知ってる旧研究部門の資料と、動きが似すぎてる」
全員の視線が彼女へ向く。
「何それ」
一ノ瀬さんが身を乗り出す。
「私もはっきり覚えてるわけじゃない。でも、さっきのフードみたいな動きは、他の部署じゃなかった」
「旧研究部門が、中身を回収しようとしてるってこと?」
篠宮さんは一度だけ頷いた。
「そうかもしれない。けれど、それはまだ断言できるレベルじゃない」
その言葉に、作業場の空気が少しだけ静かになる。
みんな、誰も完全な答えを持ってはいない。
それでも、全員が同じ方角を見ている。
怖さの中でも、少しだけ前へ進めている。
──その夜、擦り傷の簡単な手当てが済み、僕が自室へ戻るのはかなり遅くなった。
部屋へ入ると、僕は机に対面し、鞄から出してきたあの瓶の小さな欠片をそっと置く。
対腐食寄りの中和液の残りだ。
まだ分からないことは、たくさんある。
あの黒い培養体が何なのか。
その中身が黒濁スライムの素体なら、何のために増殖させていたのか。
そしてあのフードの人物は、どこまで僕のことを知っているのか。
答えのない問いばかりが、頭の中を巡る。
それでも。
一ノ瀬さんが隣にいてくれた。
ここまで、ちゃんと隣に。
あの日、店前で一ノ瀬さんを救った時から始まったこの流れは、いつの間にか僕の日常そのものになりかけている。
この世界にいると、平穏だけでは済まない。
でも、その平穏の傍らで、助けてくれる人が増えていく。
ネオンの光灯が、窓の外でちらつく。
その光を見ながら、僕はふと、祖父のあの言葉を思い出した。
――お前はまず、自分を大切にしなさい。
それは、一番最初に祖父に言われた言葉だ。
今日も、守りたいものを守るために進んだ。
けれど、その先で失ってしまうものも、増えている。
守るというのは、難しい。
それでも、守りたい人がいるなら、もう止まるわけにはいかない。
僕は鞄の中から、青い小さな瓶を取り出した。
さっき、最終調整まで終えた、対黒濁用の中和液の仕上がり品だ。
これが、明日僕を守ってくれる武器になる。
そして、ちょっとだけ――この力が、誰かを守るために使える、という気持ちがあった。
窓の外で、夜風が静かに吹き抜けていく。
明日は、また何かがある。
今日はそんな予感がしても、今夜は眠ろう。
僕は、机の証明書をそっと置いて、布団へ横たわる。
こうして、夜は更けていく。
そして、朝はまだ来ない。




