第十七話 黒い培養体と、錬金術師の選択
黒い粘液は、開いた木箱の中でまだ蠢いていた。
複数の小さな核のようなものが、どろりとした液の中に浮かんでいる。
さっきまで塩漬けだったのか、動きはゆっくりだ。それでも、時折表面がぶくぶくと持ち上がり、内側で何かが形を持とうとしている気配がした。
「……まずいな」
御子柴さんが低く呟く。
「これ、放置すれば増殖する可能性があるわ」
「増殖?」
一ノ瀬さんが顔をしかめる。
「黒濁スライムって、単体で割っても増えるの?」
「個体によってはそうよ」
御子柴さんは倒れた男の拘束を確かめながら、横目で箱を見る。
「特にこうして人工的に培養されたものは、条件が揃えば急激に活性化する。今はまだ保冷か抑制剤で抑えられているけど、その抑えが切れれば――」
その時、黒い粘液が一度だけ大きく脈打った。
まるで、呼吸みたいに。
「……抑えが切れかけてる」
僕は門ではなく言葉が漏れた。
いつもなら曖昧な“嫌な感じ”で済んでしまう。
でも今は違う。《錬金術》の感覚が、はっきりと告げていた。
この個体は、もうすぐ活性化する。
「朝比奈くん、見えるの?」
篠宮さんが急ぎ足で近づく。
「はっきりじゃない。でも……脈を感じる。これから動き出す」
その言葉を聞いて、御子柴さんはすぐに判断した。
「なら、ここで処理するしかないわね」
「ここで?」
「持ち帰るにも、このまま店へ持っていくのは危険すぎる。運搬中に活発化したら、町中で黒濁スライムがばらまかれることになる」
それは正しい。
でも、現場で処理となると、やはり危険なことには変わりない。
「どうやって消すの?」
一ノ瀬さんの問いに、御子柴さんと篠宮さんが少し目を合わせる。
そして、自然と僕の方へ視線が向かった。
「……僕、か」
「あなたの薬が、この手のものに一番効くのは今までで分かってる」
御子柴さんの言い方は、説得ではなく確認に近かった。
ちらりと横を見ると、篠宮さんも一ノ瀬さんも、僕を止めようとはしなかった。
冷静な判断と、それとなく僕への期待が混ざった目をしている。
それが、少しだけ苦しかった。
なぜなら、僕には分かっているから。
この培養体を完全に無力化する方法は、たぶんある。
あるけれど、それは今まで試したものよりずっと強い中和を必要とする。
そして、強い中和というのは――僕の《錬金術》の正体を、もう少しだけ見せてしまうことになる。
「……一つ、聞いてもいい」
僕は呼吸を整えて言う。
「この箱を、ここで完全に処理できれば、証拠として何が残る?」
御子柴さんは即答した。
「培養体の破片と、黒い粉の付着した箱の破片。それと今のうちに撮影した記録。ぎりぎり分析には足りるかは怪しいけれど、ないよりはまし」
「完全に消しちゃえば、鑑定資料は減るんだ……?」
篠宮さんが小声で言う。
「減るわね。でも、町を危険に晒す方が大きい。選択は決まってる」
御子柴さんはきっぱりと言い切った。
僕は深く息を吸う。
分かっていた。
この場で正しいのは、黒い培養体を止めることだ。
でもその代償として、僕の《錬金術》はもう一段だけ、みんなの前で見せてしまうことになる。
隠したい。
これは、命を守るための力だとはいえ、見せるほどに僕の日常は遠ざかる。
それでも――。
「……やる」
僕はそう言って、革袋から対腐食寄りの中和液と、残っていた青葉草の切れ端を取り出した。
「もの足りないはずだ」
門は既に聞こえていない。
篠宮さんがふと、手にしたままの魔石水の小瓶を僕へ差し出してきた。
「これ、使える?」
「……え」
「こっちの研究用に持ってた精製魔石水。微量だけど、あなたの調合に足せるかも」
僕はそれを受け取る。
瓶の中で、かすかに淡く光る液体。
《錬金術》の感覚がざわつく。
これなら――中和を強くできる。
ただし、調合の手順をずっと精密にしないといけない。雑さが命取りになる。
「人を下げて。少し場所がいる」
言いながら、僕は箱のそばへ膝をつく。
そこに、一ノ瀬さんが少しだけ移動して、僕の背中側に立った。
邪魔になる距離ではない。でも、ちゃんと隣にいる距離だ。
「これ、薬を混ぜるだけじゃ足りないよね」
一ノ瀬さんが小声で言う。
「……うん。たぶん、一か所にかけても駄目。培養体の核さんに少しずつ浸透させないと」
「じゃあ、やることを教えて。私が手伝う」
驚いて顔を上げると、彼女は何でもない顔で言った。
「私には《錬金術》なんてないけど、槍の先で核を動かすくらいはできるよ」
「動かす?」
もし、という考えが頭へ浮かんだ。
「できるかも」
僕は手元の小瓶を持つ手を止めて、一ノ瀬さんの方を見る。
「核を一つずつ、液から引き出す感じで。そうすれば、一つずつ中和できる」
「そっか。じゃあ任せて」
そのやり取りを、御子柴さんも篠宮さんも黙って見ていた。
この世界では、こういう連携がたぶん一番強いんだ。
自分一人で全部やろうとするのは、この場合むしろ幼稚なのかもしれない。
「行くよ」
僕は中和液を、少しだけ薄めて使いやすくするために精製魔石水を合わせる。
瓶の中で、液が淡く光った。
以前は見たことのない手触り。でも感覚ははっきりある。
これは、使える。
「一ノ瀬さん、核を一つだけ、液の上に浮かせて」
「了解」
彼女が槍の石突で、慎重に最前面の核へ触れる。
ぶに、と嫌な肌触りがするのだろう、一瞬眉を寄せたけれど、すぐに核をひとつだけ優しく引き上げた。
黒い粘液が糸を引いて絡む。
その隙に、僕は中和液の入った小瓶から、ごく少量を薬草の切れ端に染み込ませ、核へ一滴落とした。
じわり。
核の表面が、ぶつぶつと細かく泡立つ。
黒い色が、一瞬間だけ澄む。
「効いてる?」
「……たぶん。まだ途中だけど」
頼るのは、淡い光を纏う核を見つめたまま、しっかりと応じる。
これが世界初の錬金術の、今僕ができる形。
医療のためのものと、だれかのためのものと、そして、だれかを止めるためのもの。
何度も重なった夜の間、僕は不思議と、怖さの中で少しだけ変わっていた。
役に立てる。
ただの見習いでも。
その日も、夜はまだ終わらない。




