第十六話 挟撃、黒い箱、そして初めての対人戦
高台の反対側。
僕たちが上ってきた保守通路の奥で、かさり、と乾いた足音がもう一度鳴った。
夜の静けさの中では、ほんの小さな音でもよく響く。
「挟まれた?」
一ノ瀬さんの囁きは低かった。
その声にはもう、昼間の軽さはない。完全に戦う時の顔だ。
「まだ確定じゃない。でも、人の気配はある」
御子柴さんは身を伏せたまま答える。
「数は?」
「……一人か二人。多くはないと思う」
その一方で、旧搬入口の下では、黒い箱を運んでいた連中がまだ動いている。フードの人物もいる。つまり、前方に三人から四人、後方に一人か二人。
最悪だ。
僕は喉が渇くのを感じながら、柵の影へさらに身体を寄せた。
逃げ道を考える。高台からそのまま下へ飛び降りるのは無理。前へ出れば搬入口側の連中に見つかる。後ろへ退けば通路側の気配とぶつかる。
「どうする?」
篠宮さんが小声で尋ねる。
いつもより少しだけ息が浅い。
でも、指先にはすでに微かな火の光が宿っていた。
「まず後ろを確認する」
御子柴さんの判断は早かった。
「前はまだ、こちらに確信を持っていない。なら見つかる前に、後方の目を潰すか、最低でも数を把握する」
「僕たちは?」
一ノ瀬さんが聞く。
「私が見る。二人は朝比奈くんを挟んで待機。接触したら音を立てずに止める」
「了解」
「分かった」
僕も頷いたけれど、正直なところ心臓がうるさすぎて自分の声が遠かった。
御子柴さんは警棒ではなく、小さな投擲ナイフを一本だけ抜いた。
それから、崩れかけた壁の陰に沿うように、音もなく後方へ移動していく。
すごい。
ギルド査定官見習いって、もっと机仕事寄りの人かと思っていた。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
僕たちは息を潜めたまま、下の搬入口と後ろの気配、両方へ意識を割いた。
夜目補助の効果はまだ続いている。暗がりの輪郭は見える。見えるからこそ、怖い。
数秒。
あるいは一分。
時間の感覚が曖昧になりかけた頃、後方で小さな物音がした。
ばた、と何かがもつれるような音。続いて、押し殺した息。
「……っ」
一ノ瀬さんがすぐ槍を構える。
僕も革袋へ手を入れ、粘着液の瓶へ指をかけた。
直後、闇の中から御子柴さんが戻ってきた。
片手で、黒っぽい服の男の口を塞いだまま。
「え」
思わず声が出かけたのを、一ノ瀬さんに口元へ指を当てられて止められる。
御子柴さんは男を足元へ転がすと、小声で言った。
「見張り一人。もう一人いる可能性は低い。でも、こいつが戻らなければ下が不審に思う」
男は意識を失っていた。首筋を的確に打ったらしい。
「すご……」
僕が呟くと、御子柴さんは無表情のままだった。
「感心している場合じゃないわ。問題はここからよ」
その通りだ。
「ここで下がる?」
篠宮さんが訊く。
「それとも、証拠を取る?」
その二択はどちらも正しい。
見つかる前に撤退するなら今だ。だけど、ここまで来て黒い箱の中身も搬入口の使われ方も分からないままでは、得た情報が足りない。
僕は下を見た。
男たちはまだ木箱を動かしている。
フードの人物が何かを確認し、ひとつの箱だけを保守扉の内側へ運ばせていた。残る二箱は搬入口の陰に置かれたままだ。
あの二箱。
もし中身が黒濁スライムの素体や変質素材なら、持ち去られたあとでは追いづらい。
「……一つだけでも、中身を確認したい」
気づけばそう口にしていた。
三人が同時に僕を見る。
「理由は?」
御子柴さんの問いに、僕はできるだけ落ち着いて答える。
「中身が本当に黒濁スライム系なら、第三の異変が“運び込まれたもの”だって裏づけになる。薬草だけじゃなく、モンスター側にも人為的介入があった証拠になるかもしれない」
「確かに」
篠宮さんが小さく頷く。
「でも危険よ。見つかれば対人戦になる」
「なるわね」
御子柴さんも否定しない。
一ノ瀬さんが僕を見て、少しだけ唇を引き結んだ。
「朝比奈くん、それ本気で言ってる?」
「……うん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
即答だった。
強がっても仕方がない。
「でも、ここで何も掴めないと、また次に同じようなことが起きる気がする」
黒濁スライム。
罠。
店先に置かれた警告。
全部が繋がっているなら、こっちはまだ後手だ。
「……分かった」
一ノ瀬さんは短く息を吐いた。
「でも条件。絶対に一人で前へ出ない」
「うん」
「薬を使う時は声をかける」
「うん」
「変だと思ったらすぐ退く」
「……うん」
「返事に間があった」
「ちゃんと守る」
今度はちゃんとそう言うと、彼女は少しだけ表情を緩めた。
「よし」
御子柴さんが低く言う。
「やるなら短時間よ。方法はこう」
彼女は地面へ指で簡単な配置を描いた。
「搬入口の正面は避ける。下の荷台側に死角があるから、そこへひまりさんと朝比奈くんが回る。私は上から監視しつつ、必要なら後ろから落ちる。一ノ瀬さんは中間で退路確保」
「私が前衛じゃないの?」
一ノ瀬さんが少し不満そうに言う。
「今回は戦闘が主目的じゃないからよ。あなたが一番足が速い。撤退時のカバー役を任せる」
「……それなら納得」
この人は役割を貰うと強い。
「朝比奈くん」
御子柴さんが最後に僕を見る。
「黒い箱に妙な反応があっても、蓋を開けようとしすぎないこと。見るのは外側だけで十分な場合もある」
「分かった」
「本当に?」
「……本当に」
ちょっと疑われすぎでは。
いや、信用の積み重ねが足りない自覚はあるけど。
◇
僕と篠宮さんは、保守通路の側面から崩れた壁を伝い、ゆっくりと下へ回り込んだ。
夜気はひんやりしているのに、手のひらにはじっとり汗が滲む。
足場は悪い。小石ひとつ転がせば終わりだ。
篠宮さんは驚くほど静かに動いていた。
火魔法の使い手というより、訓練された探索者そのものだ。
「……大丈夫?」
僕が小声で訊くと、彼女は前を向いたまま答える。
「それはこっちの台詞よ」
「僕はたぶん大丈夫」
「“たぶん”が多いのよ、あなた」
こんな状況でもそれを言われるのかと思って、少しだけ変な気分になった。
でも、そのやり取りで呼吸が少し整う。
荷台の陰へ辿り着くと、旧搬入口までの距離は思ったより近かった。
男たちの声が、かすかに聞こえる。
はっきりとは拾えないが、苛立っているのが分かる。見張りが戻らないせいかもしれない。
黒い布のかかった木箱が二つ。
そのうち一つが、僕たちの隠れた位置からぎりぎり見える。
「どっちを見る?」
篠宮さんが囁く。
「手前の箱。……あれ、黒い筋が濃い」
僕は息を止めるようにして箱を見つめた。
《錬金術》の感覚がじわじわと反応する。
木箱そのものじゃない。
継ぎ目に塗り込まれた黒い粉と、内側からにじむ湿った魔力。
生き物だ。しかも、かなり不安定。
「中に何かいる」
「やっぱり」
篠宮さんの声が硬くなる。
「開けなくても分かる?」
「少なくとも、液体や普通の素材じゃない。動いてる感じがする」
その時だった。
箱の内側から、ぐに、と鈍い音がした。
「……っ」
僕も篠宮さんも一瞬動きを止める。
生きている。
しかも輸送されているだけじゃなく、まだ活動性がある。
「証拠、撮る」
篠宮さんが端末を構えた。
その瞬間、搬入口の男の一人がこちらへ顔を向けた。
「誰だ!」
まずい。
叫びと同時に、男が短剣を抜いて走ってくる。
「見つかった!」
「下がって!」
篠宮さんの指先に火が灯る。
だが広範囲には撃てない。箱がある。中身を燃やせば証拠ごと失う。
僕は反射的に革袋から粘着液を掴んだ。
「粘着液、使う!」
瓶を男の足元へ投げる。
砕けた液が石畳へ広がり、男の踏み込み足を絡め取った。
「っ、な!?」
男の身体が前へ崩れる。
「はあっ!」
同時に、一ノ瀬さんが横から飛び込んだ。
いつの間に降りてきたのか分からないくらい速かった。
槍の石突が男の脇腹へめり込み、短剣が吹き飛ぶ。
「まず一人!」
だけどそれで終わりじゃない。
搬入口の前にいたもう一人が、すぐにこちらへ向き直る。
さらにフードの人物も一歩下がりながら、腰元から何か細い筒を取り出した。
「遠距離来るわ!」
御子柴さんの声が上から飛ぶ。
次の瞬間、鋭い破裂音。
細い針のようなものが一直線に飛んできた。
「っ!」
僕は咄嗟に身を屈める。
針は荷台の木板へ突き刺さり、じゅっと黒い煙を上げた。
「毒!?」
「腐食も混ざってる!」
篠宮さんが火球をひとつ放つ。
狙いは相手本体じゃない。フードの人物の足元。閃光と熱で視線を切らせるためだ。
だが相手は怯まない。むしろ冷静に間合いを取っている。
「面倒ね……!」
御子柴さんが高台から飛び降りるように現れ、残る男へ警棒を振るう。
相手はぎりぎりで受けたが、勢いを殺し切れず後退した。
「一ノ瀬さん、朝比奈くんを下げて!」
「分かった!」
「待って!」
僕は思わず声を上げた。
フードの人物が、保守扉の脇に置かれたもう一つの箱へ手をかけている。
あれを持って逃げられたら、また追えない。
「朝比奈くん!」
「一回だけ!」
自分でも危ないと分かっている。
でも、ここだ。
僕は革袋から最後の改良中和液を抜いた。
対腐食寄りで、粘液性を崩す試作品。もし箱の封印や黒い粉に近いものが塗られているなら、反応するかもしれない。
狙うのは人物じゃない。箱の継ぎ目。
「お願いだ……!」
瓶を投げる。
箱の側面へ当たった小瓶が砕け、液体が黒い筋にかかる。
直後、箱の継ぎ目がじわっと発光した。
「な――」
フードの人物が初めて明確に動揺した。
次の瞬間、箱の留め具がばちんと弾ける。
「嘘でしょ!?」
篠宮さんが声を上げる。
蓋が半分ずれ、中から黒い粘液がどろりと溢れた。
ただのスライムじゃない。複数の小さな核のようなものが、粘液の中で脈打っている。
「培養、体……?」
僕は思わず息を呑んだ。
黒濁スライムを“運んでいた”んじゃない。
もっと悪い。
作りかけのものを持ち込んでいたのかもしれない。
「全員離れて!」
御子柴さんが叫ぶ。
けれど、箱の前にいたフードの人物は逆に一歩踏み込んだ。
細い筒を今度は箱の中へ差し込み、何か液を注ぎ込もうとする。
「まずい!」
僕の中で《錬金術》の感覚が警鐘みたいに鳴った。
あれを入れられたら、たぶん暴走する。
「止める!」
気づけば身体が動いていた。
「朝比奈くん!」
一ノ瀬さんの声を背中で聞きながら、僕は手近にあった空箱の破片を掴んで投げつける。
当然そんなものじゃ大した威力はない。けれど、相手の手元を逸らすには十分だった。
細い筒が箱の縁へぶつかり、液体が一部こぼれる。
同時に、篠宮さんの火球がその腕のすぐ横を掠めた。
「下がりなさい!」
フードの人物が舌打ちし、大きく後ろへ跳ぶ。
その隙を、御子柴さんが逃さなかった。
一直線に踏み込み、警棒の一撃を胴へ叩き込む。
鈍い音。
フードの人物の身体がぐらりと揺れる。
だが倒れない。
代わりに、フードの奥から低い声が漏れた。
「……想定より早い」
ぞっとするほど落ち着いた声だった。
男か女かも判別しにくい。
「朝比奈薬店の坊や。やっぱり君か」
その一言で、血の気が引いた。
やっぱり。
つまり向こうは、もうかなり確信している。
「お前――」
一ノ瀬さんが槍を向ける。
けれどフードの人物はそれを無視して、僕だけを見ていた。
「回収対象としてはまだ早いと思っていたんだが」
回収対象。
その言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。
人を、物みたいに。
「ふざけないで!」
一ノ瀬さんが怒鳴ると同時に踏み込む。
槍先が一直線に走る。
だが相手は短く腕を振り、黒い小球を地面へ落とした。
「閃光!」
御子柴さんの警告。
僕たちは反射的に目を庇う。
白い光が弾け、視界が潰れる。
次に目を開けた時、フードの人物の姿はすでに数歩先へ退いていた。残っていた男も、倒れた仲間の腕を無理やり引きずって搬入口側へ下がっていく。
「逃がすな――!」
一ノ瀬さんが追おうとして、
「追わない!」
御子柴さんが鋭く止めた。
「箱がある!」
その一言で、全員の動きが止まる。
そうだ。
開いた箱の中では、黒い粘液がまだ蠢いている。
中途半端に処理された培養体みたいなそれは、今にも形を持ちそうで、持たない不気味な状態だった。
「くっ……!」
フードの人物は最後にもう一度だけこちらを振り返った。
「次は、もう少し静かに話そう」
そう言い残し、搬入口の闇へ消える。
残ったのは、倒れた男が一人。
砕けた木箱。
そして、蠢く黒い培養体。
僕は荒い呼吸のまま、その場に立ち尽くした。
初めての対人戦。
勝ったとも負けたとも言い切れない。
でも、はっきり分かったことがある。
向こうは僕を知っている。
しかも、ただの薬師見習いとしてじゃない。
「朝比奈くん!」
一ノ瀬さんが肩を掴む。
「怪我は!?」
「ぼ、僕は大丈夫……それより箱」
「ええ」
篠宮さんが険しい顔でそれを見つめる。
「これをどうにかしないと、ここで黒濁化する可能性がある」
御子柴さんは倒れた男の拘束を確認しながら、短く言った。
「証拠は取れた。けど本番はここからね」
黒い粘液が、また一度だけ大きく脈打つ。
その不気味な動きを見た瞬間、僕の中の《錬金術》が強く反応した。
止め方が、うっすら見える。
けれど同時に分かってしまう。
これは、今までよりずっと危険な一手になると。




