第十二話 放課後の呼び出しと、令嬢の提案
翌日の教室は、いつも以上に落ち着かなかった。
第三ダンジョン浅層の一部封鎖。
変異個体の出現。
ギルドの調査班増員。
そんな話題が、朝のホームルーム前からあちこちで飛び交っている。ダンジョンの話は珍しくないけれど、初心者ルートの異変となると、さすがに空気が違う。
「やっぱ第三しばらくやめとくべきかな」
「でも他も混みそうなんだよなあ」
「黒いスライムってマジで出たの?」
「なんか救助された人いたらしいぞ」
そんな声を聞きながら、僕はできるだけ気配を消して席についた。
視線を感じる。
でも前みたいに“朝比奈薬店の坊主がすごい薬を出した”だけではない。今は“第三の異変の現場にいたらしい”まで混ざっている気がした。
目立ちたくない。
切実に。
「おはよう、朝比奈くん」
明るい声と一緒に、一ノ瀬さんが僕の机の横へ来た。
肩にはまだ薄くテーピングが見えるけれど、いつもの調子にかなり戻っている。
「お、おはよう。肩は?」
「平気。そっちは?」
「僕も大丈夫」
「ほんとに?」
疑わしげに見られて、少し言葉に詰まる。
昨日、無茶をして心配をかけた自覚はあるので、強くは言い返せない。
「……たぶん」
「そこは“うん”って言ってよ」
一ノ瀬さんは呆れたように笑って、それから少し声を落とした。
「で、昨日のあと。篠宮さんと何話してたの?」
やっぱりそこを聞かれる。
「情報の整理とか、今後のこととか」
「ふーん」
疑っている顔だ。
「ほんとだよ」
「まあいいけど」
そう言いながらも、一ノ瀬さんは完全には引いていない目をしていた。
そこでさらに何か言おうとした時、教室の入り口が少しざわついた。
視線がそちらへ向く。
いたのは、篠宮ひまりさんだった。
違うクラスの彼女が朝からうちの教室の前にいるだけで、目立たないわけがない。しかも当人はまったく気にしていないように、まっすぐこちらを見ていた。
「朝比奈くん、少しいいかしら」
教室が静かになる。
やめて。
ものすごくやめてほしい。
「……い、今?」
「一分で済むわ」
一ノ瀬さんが横でじっと僕を見る。
なんだろう、この妙な圧。
僕は観念して立ち上がり、教室の前まで出た。
「おはよう」
「おはよう。朝からごめんなさい」
篠宮さんは声こそ落ち着いていたけれど、どこか急いでいるようにも見えた。
「昨日の件だけれど、放課後に少し時間をもらえる?」
「それはメッセージで言ってたやつだよね」
「ええ。できれば、人目の少ない場所で」
その一言に、教室の中からいっそう視線が刺さる気がした。
「……分かった」
「ありがとう。図書準備室の隣にある旧視聴覚室、覚えてる?」
「たぶん」
「放課後、そこで待ってるわ」
それだけ言うと、篠宮さんは本当に用件だけ済ませて去っていった。
残された僕の背中へ、教室中の視線が集まる。
席へ戻ると、一ノ瀬さんがなんとも言えない顔でこっちを見ていた。
「人目の少ない場所、ねえ」
「変な言い方しないで」
「してないよ?」
している。かなり。
「仕事の話だから」
「分かってるって」
そう返しながらも、一ノ瀬さんの口元は少しだけ尖っていた。
朝から胃が痛い。
◇
授業はほとんど頭に入らなかった。
黒板の字を写しても、気づけば頭の中では第三ダンジョンの罠や黒い粉、それに金属片の刻印のことを考えてしまう。篠宮さんがわざわざ放課後に呼び出すくらいだから、それなりに重要な話なのだろう。
もしかしたら、家の調査で何か分かったのかもしれない。
あるいは逆に、まずい事実に触れてしまったのかもしれない。
考え始めるときりがない。
そして放課後。
「じゃ、私は部活……じゃなくて、今日はギルドの簡単な報告寄るから」
一ノ瀬さんは鞄を肩にかけながら、わざとらしく軽い口調で言った。
「でも、終わったら連絡して」
「うん」
「ちゃんと、連絡して」
「……するよ」
「よし」
それで満足したのか、一ノ瀬さんはようやく頷いた。
たぶん昨日のこともあって、僕を一人で自由にしすぎるのが不安なのだろう。
僕は旧視聴覚室の前まで来て、一度深呼吸した。
使われなくなって久しいその部屋の周辺は、人通りが少ない。窓から差す夕方の光が廊下の床へ細長く伸びていて、妙に静かだった。
扉を開ける。
中には篠宮さんが一人、窓際に立っていた。
「来てくれてありがとう」
「ううん。何か分かったの?」
「ええ。少しだけ」
彼女の表情は、昨日テラスで話した時より真剣だった。
僕は扉を閉め、少し離れた場所で向き合う。
「まず結論から言うわ。あの金属片の記号、やっぱり篠宮グループの旧研究部門と無関係とは思えない」
心臓が重くなる。
「旧研究部門って、そんなにまずいところなの?」
「部門そのものが即違法だったわけじゃない。でも……かなり際どい研究もしていたらしいの」
「らしい、ってことは」
「私も記録の全部を見られる立場じゃないのよ」
篠宮さんは少し悔しそうに唇を結んだ。
「家の中でも、古い研究記録の一部は閲覧権限が絞られてる。特にダンジョン出現初期の素材応用系は、事故や失踪、研究中止が絡んでいる案件もあって、簡単には触れられない」
事故。失踪。研究中止。
どれも穏やかじゃない。
「じゃあ、どうして分かったの?」
「家のデータベースに残っていた周辺情報と、旧報告書の目次だけは確認できた」
篠宮さんは鞄から小さなメモを取り出した。
「記号形式が似ていたのは、“第二素材応用研究室”。主な研究対象は、ダンジョン産薬草の効率増殖と魔石反応による成分変質」
その単語を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
「薬草の……効率増殖」
「ええ。しかも自然環境下じゃなく、“局地的な魔力誘導”によって薬草帯そのものの性質を変える方向の研究」
第三浅層で見た、あの不自然な青葉草。
魔力を吸われたみたいに枯れた灰鈴草。
全部が一本の線で繋がっていく気がした。
「でも、それって……」
「かなり危ういわ」
篠宮さんがはっきり言い切る。
「薬草の効率化だけなら聞こえはいい。でも、環境へ無理やり干渉すれば、周囲のモンスターや魔力流にも影響が出る可能性が高い。出現初期ならなおさら制御も甘かったはず」
「そんな研究が、なんで今また……」
「分からない。正式に中止されたはずの系統を、誰かが独自に再利用してるのかもしれないし、当時の残党みたいな人間がいるのかもしれない」
残党、という言い方が物騒すぎて少し息を詰める。
篠宮さんもそれに気づいたのか、小さく首を振った。
「ごめんなさい。言い方が悪かったわ」
「いや……でも、そういう可能性もあるってことだよね」
「ええ」
彼女は静かに頷いた。
「それで、本題なのだけれど」
ここからが本題らしい。
僕は無意識に背筋を伸ばした。
「朝比奈くん。私に協力してほしいの」
「協力?」
「第三の異変と、旧研究部門の繋がりを調べるための」
予想通りではある。
でも、その先が読めない。
「僕に何ができるの?」
「二つあるわ」
篠宮さんは指を二本立てた。
「一つ目。現場で採取した薬草や残渣を、あなたの目で見てほしい」
「僕の目で」
「あなた、素材を見る時だけ“なんとなく”じゃ済まない精度で違和感を拾うでしょう」
返す言葉がない。
普通じゃない。
そこまではもう、隠し通せないところへ来ている。
「二つ目」
彼女は一拍置いた。
「私の個人研究室を使って、一緒に検体を調べてほしいの」
「……え?」
思わず聞き返した。
「個人研究室?」
「ええ。家の本流施設じゃないわ。学校外れにある、私個人名義に近い小さな研究スペース。元は勉強用に与えられた場所だけれど、素材観察や簡易分析くらいならできる」
そんなものを持っている時点で、やっぱり住む世界が違う。
「どうしてそんな場所に、僕を?」
「家の正式な研究所へ入れれば、出入りの記録が残るし、人目も増える。あなたの立場的にもまずいでしょう?」
「……それは、そうだけど」
「それに、私もまだ家の誰を信用していいか分からないの」
その言葉は、思った以上に重かった。
篠宮さんは強い。賢い。自信もある。
でも今この時は、その強さの下にある警戒と孤立が少しだけ見えた気がした。
「あなたの力の核心を教えろとは言わない」
彼女はまっすぐ僕を見る。
「ただ、現場で起きていることを正しく見るために、あなたの感覚が必要かもしれない。私はそれを借りたい」
借りたい。
奪うでも、管理するでもなく。
その言い方に、僕は少しだけ息をしやすくなった。
「……もし協力したら、篠宮さんは何をくれるの?」
我ながら、少し打算的な聞き方だった。
でもここで曖昧にしたくはなかった。
篠宮さんは驚いたように一瞬目を見開き、すぐに真顔に戻る。
「そうね。対価は必要だわ」
彼女は指先で髪を払ってから、静かに言った。
「まず、私が持っている範囲の旧研究情報を共有する。篠宮側の素材流通や解析結果も、危険がない範囲で見せる」
「……うん」
「それと、必要な検体の分析設備、簡易保管設備、資料の閲覧環境も提供する。あなたの家で全部やるには限界があるでしょう」
それは正直、大きい。
祖父母の店の設備は優秀だけれど、あくまで町の薬師としての範囲だ。黒い粉や人工的な残渣まで見ようとすれば、限界がある。
「最後に」
篠宮さんの声が少しだけ低くなる。
「もし家の内部に、本当に今回の件へ関わっている人間がいるなら、私はあなたと朝比奈薬店を守る側に立つ」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
「そんなこと、言って大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないかもしれないわね」
彼女は苦く笑った。
「でも、言わないまま協力を求める方が不誠実でしょう」
その誠実さが、この人の強さなんだと思う。
僕はしばらく黙っていた。
条件だけ見れば悪くない。
むしろかなりありがたい。
けれど同時に、踏み込めば戻れないところまで関わることになる気もする。
篠宮さんは急かさなかった。
ただ、静かに返事を待っている。
「……一人じゃ決められない」
やがて僕は、正直にそう言った。
「祖父母にも相談したい」
「ええ。それでいいわ」
即答だった。
「むしろ、ちゃんと相談して。あなたが一人で勝手に決める方が困るもの」
その返しに、少しだけ肩の力が抜ける。
「ありがとう」
「お礼を言うのはまだ早いわ。引き受けてもらえるか分からないんだから」
「それもそうだね」
僕がそう返すと、篠宮さんはほんの少しだけ表情を和らげた。
夕方の光が教室の古い机へ差し込んでいる。
静かな空気の中で、彼女が不意に口を開いた。
「ねえ、朝比奈くん」
「なに?」
「あなた、本当に不思議な人ね」
「……急にどうしたの」
「普通、こういう話をされたらもっと怯えるか、逆に飛びつくかのどちらかよ」
「たぶん、どっちも少しずつあるよ」
本音だった。
怖い。
でも知りたい。
危ない。
でも放っておきたくない。
そういう気持ちがぐちゃぐちゃに混ざっている。
篠宮さんは、それを聞いて小さく頷いた。
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
「え」
「そのままの意味よ」
さらっと言われて、心臓が変な音を立てる。
何か返さないとと思うのに、上手い言葉が出てこない。
僕が固まっていると、篠宮さんは少しだけ目を逸らした。
「……いちいち反応が素直すぎるのよ、あなた」
「ご、ごめん」
「だからどうして謝るの」
またそれだ。
前にも似たやり取りをした気がする。
でも、その時より今の方が少しだけ空気がやわらかい。
その瞬間だった。
がらっ、と旧視聴覚室の扉が開いた。
「やっぱりここだった!」
振り向かなくても分かる。
一ノ瀬さんだ。
彼女は僕と篠宮さんを見て、じっと数秒止まったあと、妙に落ち着いた声で言った。
「……へえ。今日は旧視聴覚室なんだ」
「誤解を招く言い方しないで」
「してないよ?」
している。
かなりしている。
篠宮さんがすっと立ち上がる。
「ちょうど話は一区切りついたところよ」
「ふーん」
一ノ瀬さんはぜんぜん“ふーん”で流していない顔だった。
けれど、昨日みたいに露骨に刺々しくはない。むしろ様子を見ている感じに近い。
「それで、何の話だったの?」
やっぱり聞くよね。
僕が返答に詰まっていると、篠宮さんが先に口を開いた。
「第三の件よ。旧研究情報と、今後の検体分析について」
「……ちゃんと真面目な話なんだ」
「最初からそう言っていたでしょう」
「まあ、そうだけど」
一ノ瀬さんは僕を見た。
「朝比奈くん、ちゃんと説明してくれる?」
「う、うん。歩きながらでいいなら」
「いいよ。ついでに途中で何か甘いものでも奢って」
「なんで」
「心労代」
「理不尽だ……」
そのやり取りに、篠宮さんがほんの少しだけ笑った。
学校で見る彼女はもっと澄ました印象だったのに、こうして一緒にいると、時々年相応に見える瞬間がある。
それが少しだけ、不思議だった。
「じゃあ私は先に帰るわ」
篠宮さんは鞄を持ち直す。
「返事は急がなくていい。でも、あまり遅くはしないで。向こうも動いている可能性が高いから」
「分かった。今日中に祖父母へ話してみる」
「お願い」
そう言って彼女は扉の方へ向かったが、すれ違いざまにほんの少しだけ足を止めた。
「一ノ瀬さん」
「なに?」
「朝比奈くん、放っておくと一人で危ない方へ行きそうだから、見張っておいてくれる?」
「……うん、それは任せて」
一ノ瀬さんが即答する。
その返答に、篠宮さんは小さく頷いてから部屋を出ていった。
扉が閉まる。
少しの沈黙。
そして次の瞬間、一ノ瀬さんがじとっとした目で僕を見る。
「で?」
「……はい」
「全部、話してもらおうかな」
「歩きながらでいい?」
「だめとは言わない」
助かったような、助かってないような返事だった。
◇
校門を出て、駅へ向かう道を並んで歩きながら、僕は篠宮さんから聞いた話を一ノ瀬さんにも伝えた。
旧研究部門。
薬草の効率増殖。
魔石反応による成分変質。
そして、個人研究室での共同分析の提案。
一ノ瀬さんは途中から真剣な顔になって、黙って全部を聞いていた。
「……なるほどね」
話し終えると、彼女は小さく息を吐いた。
「思ったよりずっと大きい話になってる」
「うん」
「で、朝比奈くんはどうしたいの?」
「まだ決めきれてない。でも、たぶん知るべきことなんだと思う」
「危ないけど?」
「危ない」
「面倒そうだけど?」
「かなり」
「それでも?」
その問いに、僕は少し考えてから頷いた。
「それでも、かな」
一ノ瀬さんはしばらく前を向いたまま歩いていた。
やがて、ふっと笑う。
「そっか。なら私も付き合う」
「え」
「当然でしょ。秘密の共犯者なんだから」
その言い方に、思わず苦笑してしまう。
「研究室って、たぶん危ない話も増えるよ?」
「だから前衛が必要なんじゃない?」
「研究室に前衛っているのかな……」
「朝比奈くんには必要そう」
否定できないのが悔しい。
夕焼けに染まる帰り道を歩きながら、僕は胸の奥にあった迷いが少しだけ整理されていくのを感じていた。
篠宮さんの提案を受ければ、たしかに一歩深く踏み込むことになる。
けれど、その先には今の僕たちだけでは届かない情報がある。
そしてたぶん、第三ダンジョンの異変を止めるためにも必要な一歩だ。
帰ったら祖父母に話そう。
それで、ちゃんと決める。
そんなことを考えていた、その時だった。
スマホが小さく震える。
画面に表示された名前を見て、僕は思わず足を止めた。
「……御子柴さん?」
「なにかあったの?」
一ノ瀬さんが覗き込む。
メッセージは短かった。
第三の件で動きあり
今夜、店に寄る
できれば祖父母も同席して
胸の奥が、また重くなる。
ようやく少し整理しかけたと思ったのに、状況は待ってくれないらしい。
「一ノ瀬さん」
「うん」
「……たぶん今夜、また秘密会議だ」
そう言うと、彼女は一瞬きょとんとして、次に吹き出した。
「なにそれ。ちょっとかっこいい」
「全然かっこよくないよ……」
「でも、行くんでしょ?」
「行くしかない」
「だよね」
彼女はそう言って、僕の隣でまっすぐ前を向いた。
夕暮れの風が、少しだけ強く吹く。
第三ダンジョンの異変。
旧研究部門。
篠宮ひまりの提案。
そして、御子柴雫から届いた新しい“動きあり”の連絡。
物語は、また次の段階へ進もうとしていた。




