第十一話 祖父母への報告と、夜の秘密会議
朝比奈薬店へ戻った頃には、空はもう夕暮れに染まり始めていた。
西日を受けた店の看板はいつもと何も変わらないのに、今日の僕にはそれがひどくありがたく見えた。
無事に帰ってきた。
たったそれだけのことが、こんなにもほっとするなんて、少し前の僕は知らなかった。
「ただいま」
裏口を開けると、すぐに祖母の声が飛んできた。
「おかえり、湊。遅かったね」
その声に振り向いた祖母は、僕の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「……何かあったね」
「うん」
ごまかすつもりは最初からなかった。
ごまかせる顔もしていないんだと思う。
作業台の向こうでは、祖父が薬包紙を折る手を止めてこちらを見ていた。
低い視線。いつも通り厳しそうなのに、その奥にははっきりとした警戒がある。
「奥で聞く」
「わかった」
僕は荷物を下ろし、応接スペースではなく、店のさらに奥にある居間へ通された。こういう時に使う、本当に家族しか入らない場所だ。
座布団へ座った途端、全身から力が抜けそうになる。
でも、まだ気を抜くには早い。
祖母がお茶を置き、祖父が向かいに腰を下ろした。
「順番に話しな」
祖父の一言に、僕は小さく頷く。
今日の再調査。
薬草帯の異常。
枯れた灰鈴草。
不自然な刃物跡。
黒い粉。
そして、過剰吸収型みたいに変質した青葉草の根元に仕掛けられていた罠。
そこまでは、祖父母も険しい顔をしながら黙って聞いていた。
けれど、僕が未登録の男たちの話に入った辺りで、祖父の眉間の皺がさらに深くなる。
「封鎖区画に人がいたのか」
「うん。しかも偶然入り込んだ感じじゃなかった」
「武器持ちで、煙幕と閃光球まで使ったんだろ?」
「うん」
「……素人じゃないね」
祖母の声も低かった。
僕は喉を鳴らし、さらに続きを話す。
篠宮さんの火魔法で罠を破壊したこと。
男たちが逃走しようとしたこと。
一ノ瀬さんが僕を庇って矢を受けたこと。
そして最後に、男たちが落としていった金属片の刻印が、篠宮グループの旧研究部門の管理記号に似ていたことまで。
話し終えた頃には、居間の空気はかなり重くなっていた。
しばらく沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは祖母だった。
「厄介だねえ……」
いつものやわらかい声音だけれど、その中に明確な緊張が混ざっている。
「黒濁スライムだけでも十分嫌な話なのに、そこへ人の手まで絡んでるとなると、ただの事故じゃ済まないよ」
「……うん」
「篠宮家の名前が出てきたのもまずいな」
祖父が低く言う。
「本当に本筋かどうかはまだ分からん。だが、名のある企業の旧部門なんぞが絡む話なら、表に出る情報と裏で動く連中が食い違う可能性が高い」
「じいちゃん、そういうの詳しいの?」
僕が思わず聞くと、祖父は少しだけ目を細めた。
「詳しいというほどじゃない。だが、ダンジョンが出てきたばかりの頃は今以上に混沌としていた。薬草も魔石も、何でも金になる時代だったからな」
祖母が小さく頷く。
「真っ当な研究者もいたし、命を救うために必死だった人も大勢いた。けどその一方で、“使えるものは何でも使う”って連中もいたのさ」
その言い方に、背筋が少し寒くなる。
今の僕ですら、ポーションひとつでこれだけ面倒の種になると分かっている。
なら、ダンジョン出現直後の混乱期は、もっとひどかったのかもしれない。
「……湊」
祖父が僕を見る。
「今日は、お前の《錬金術》はどこまで見られた」
その問いに、僕は少し考える。
「直接、スキル名までは誰にも知られてないと思う」
「思う、じゃ困る」
「ごめん」
「続けろ」
「でも、普通じゃないってことは、たぶん篠宮さんにもかなり伝わってる。御子柴さんはもちろん、最初から分かってるはずだし……一ノ瀬さんも」
「一ノ瀬さんはもう共犯者みたいなものだろうさ」
祖母が言う。
言い方がちょっと雑だ。
「問題は、その篠宮さんだね」
「……うん」
僕は今日のテラスでの会話を、話せる範囲で祖父母にも伝えた。
篠宮さんが家そのものに盲従しているわけではないこと。
才能や技術を資源扱いするやり方を嫌っていること。
僕に全部話せとは言わず、“守りたいものがあるのかどうか”を見極めようとしていたこと。
祖母はそれを聞いて、ふうと息を吐いた。
「悪い子じゃなさそうだね」
「うん。たぶん」
「たぶん、か」
祖父は腕を組む。
「だが“悪い子じゃない”のと“信用していい”は別だ。そこは履き違えるなよ」
「分かってる」
本当に、その通りだと思う。
篠宮さんは真っ直ぐだ。けれど彼女の背後には大きな家と組織がある。その全部まで信じていい理由にはならない。
「ただ」
祖父は少しだけ視線を落とした。
「お前が一人で抱え込むよりはましだ。御子柴も篠宮も、一ノ瀬も、それぞれ立場は違うが、お前を即座に売り渡すような動きはしていない」
「……うん」
「なら今は、使える縁は使え。だが、核心はまだ話すな」
核心。
つまり《錬金術》そのものだ。
「じいちゃんは、どこまでなら話していいと思う?」
「“薬草と素材の相性を見る勘が異様にいい”くらいだな」
「かなりぼかすねえ」
祖母が苦笑する。
「ぼかして足りんくらいだ。ポーションを作れるだの、即席で性質変化を起こせるだのが知れたら、勘どころの騒ぎじゃ済まん」
「……爆ぜる薬も?」
僕が恐る恐る聞くと、祖父の目がすっと鋭くなった。
「特にだ」
即答だった。
「ああいう“戦える薬”は危険だ。回復薬はまだ建前として人助けに使えるが、攻撃や制圧に転用できるものは、欲しがる連中の質が一気に悪くなる」
「やっぱり……」
自分でも分かってはいた。
でも、祖父に言葉にされると重みが違う。
「お前が今日生きて戻れたのは、状況と仲間に恵まれたからだ。薬が万能だったからじゃない。そこを忘れるな」
「……うん」
「それに、閉所での炸裂系なんて下手をすれば自分の耳も目も終わる。次は改良前提で扱え」
「改良、できるかな」
「できるようにするんだよ」
祖母が湯呑みを手に、にやりと笑った。
「せっかく世界初かもしれない力なんだ。怖がるだけじゃもったいないだろ?」
「ばあちゃん、言い方」
「でも本音だろう、じいさんも」
祖父はわずかに目を逸らした。
否定はしないらしい。
僕は少しだけ笑ってしまう。
重い話をしていたはずなのに、祖父母のこういうやり取りがあると、少し呼吸がしやすくなる。
「……それで、これから先どうしよう?」
僕が尋ねると、祖父母は一度顔を見合わせた。
先に口を開いたのは祖母だ。
「夜にもう一度、作業場で話そう。店を閉めて、完全に人がいなくなってからね」
「今じゃ駄目なの?」
「表の店に誰が来るか分からないからさ」
たしかにその通りだ。
黒濁スライムの件が広まってから、探索者の出入りは増えている。聞き耳を立てるつもりの人間が混ざっていてもおかしくない。
「今は普通に店を手伝いな。顔を曇らせたままだと余計に怪しまれるよ」
「……分かった」
◇
その後の数時間は、妙に長く感じた。
店の表では、いつも通り薬を求める探索者がやって来る。
浅層封鎖の噂。第三の危険化。しばらく別ダンジョンへ流れるか迷っているという話。
誰も彼も不安そうで、けれど生活のために潜るのをやめられない顔をしていた。
そういう人たちを見ていると、僕の胸の奥にある感情はますます複雑になる。
助けたい。
でも、助け方を間違えれば全部壊れる。
その答えをまだ持てないまま、閉店時間が来た。
店先の戸を閉め、照明を落とし、暖簾を仕舞う。
外の音が少し遠くなったところで、祖父が短く言った。
「裏へ来い」
作業場には、もう簡単な準備が整えられていた。
乾燥棚の横の卓に、メモ帳、空瓶、小皿、数種類の薬草、そして昨夜の試作の残りが並んでいる。さらに今日は、それに加えて祖父の古い帳面が数冊持ち出されていた。
「これ……昔の記録?」
「儂と千鶴が若い頃につけてたものだ」
祖父が一冊を開く。
古びた紙には、今よりずっと荒っぽい字で薬草名や症状、処方の組み合わせが書かれていた。
「ダンジョン出現初期の記録もある。黒濁化や魔力偏重で薬草帯が変質した例がないか、今のうちに洗っておく」
「そんなの、残してたんだ」
「薬師が記録を捨てるわけないだろう」
ごもっともだ。
祖母は作業台へ寄りかかりながら言う。
「今夜の秘密会議の議題は三つだよ。
一つ、第三浅層の異変が薬草にどう出るか。
二つ、お前の《錬金術》で対抗策をどこまで作れるか。
三つ、もし人の手が絡んでるなら、うちがどう身を守るか」
「……本当に会議だ」
「秘密会議だからね」
祖母は少し楽しそうですらあった。
たぶん不安を押しつぶすためでもあるんだろう。
僕たちはまず、祖父の古い帳面を手分けして見ていった。
薬草帯の枯死。
魔力過剰区域での突然変異。
スライム残滓に侵された採取地の再生遅延。
断片的ではあるけれど、第三浅層で起きていることに似た記述がいくつか見つかる。
「これ」
僕が指差したページを、祖父が覗き込む。
『魔力汚染域にて青葉草の葉脈濃化を確認。根部周辺に不明残渣。通常効能の増大が見られるが、安定せず』
「葉脈濃化……今日の青葉草に近いかも」
「時期は?」
「出現初期の第七年目って書いてある」
祖父は小さく唸った。
「似ているが、これだけじゃ判断材料としては弱いな。しかも“不明残渣”止まりだ」
「当時は今みたいな検査設備も乏しかったからねえ」
祖母が言う。
「でも、少なくとも“自然にはまず起きない変質”が昔にもあったってことだ」
つまり、今回の異変が完全に前例ゼロというわけではない。
それは少しだけ希望でもあり、同時に不気味でもあった。
「……人が意図的に再現してる可能性は?」
僕がそう言うと、祖父母の表情が固くなる。
「ある」
祖父はためらわず答えた。
「特定の薬草帯を過剰吸収型へ寄せ、そこへ変異スライムや魔力汚染を重ねれば、局地的に妙な素材を育てること自体は理屈の上では不可能じゃない」
「なんのために?」
「高効率素材の抽出、異常個体の観察、あるいは単純な試験場づくり」
祖母の言葉に、背筋が冷たくなる。
試験場。
そんなものを浅層でやっていたのだとしたら、そこに巻き込まれた初心者探索者たちはたまったものじゃない。
「……許せないな」
気づけば、ぽつりとそんな言葉が漏れていた。
祖父がちらりと僕を見る。
「そう思うのは構わん。だが怒りだけで突っ込むなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは“はい”だろうが」
祖父の呆れた声に、祖母が吹き出した。
僕もつられて苦笑する。
それから話は、《錬金術》で何を優先して作るべきかへ移った。
「回復薬は今まで通り、切り札扱いだ」
祖父が指を折る。
「中和液は需要が高い。だが効果を出しすぎると目立つ。簡易版と高性能版を分けろ」
「うん」
「粘着液は?」
祖母が聞く。
「探索補助用品としてなら比較的ごまかしやすいよ。けど強度が高すぎると逆に不自然だ。こっちも一般向けと、秘密裏の実戦用で段階を作った方がいい」
「刺激煙と爆ぜる薬は?」
僕が尋ねると、祖父は腕を組んだまま少し考えた。
「刺激煙はまだ改良の余地あり。味方を巻き込みやすすぎる。
爆ぜる薬は……当面、封印寄りだな」
「やっぱり」
「ただし研究は続ける」
その一言に、僕は顔を上げた。
「封印するんじゃないの?」
「使わんのと、作れんのは違う」
祖父は低く言う。
「お前の力を本当に守るなら、“できること”は把握しておけ。いざという時、知らんでは済まん」
その考え方は、どこまでも薬師であり、同時に探索者時代を知る人のものだった。
危ないから知らないままにするのではなく、危ないからこそ理解する。
「……うん。分かった」
「それから」
祖母が卓の端をこつりと叩く。
「うちの店そのものの防衛も考えないとね」
「防衛?」
「もし本当に第三の件を弄ってる連中がいるとして、そのうち朝比奈薬店まで嗅ぎつけない保証はないだろ?」
それは考えたくなかった。
でも、考えないで済む話でもない。
「店の表は今まで通りでいい。変に警戒色を出すな」
祖父が言う。
「だが裏の在庫管理は見直す。高品質の試作品は別保管。原料も記録を分散させろ」
「帳面も?」
「当然だ。全部まとめて置くな」
祖母も真顔で頷いた。
「もし誰かが入った時、“普通の薬屋”以上のものが見えないようにしとかないとね」
普通の薬屋。
僕たちはそこへ必死に擬態し続けるしかない。
その時、僕のスマホが小さく震えた。
画面を見ると、メッセージは一ノ瀬さんからだった。
‘’肩どう?
ちゃんと帰れてる?‘’
その文を見た瞬間、少しだけ緊張がほどける。
今日一日が重すぎたせいで、こういう普通のやり取りが妙に沁みた。
「澪ちゃんかい?」
祖母が覗き込んできて、僕は慌てて画面を伏せた。
「ち、違っ、いや違わないけど」
「分かりやすいねえ」
「茶化さないでよ」
祖父が咳払いする。
「話を戻すぞ」
「はい……」
けれど祖母はまだ少し楽しそうだった。
こういう時でも平常運転でいてくれるのは、ありがたいような恥ずかしいような、複雑だ。
会議が終盤に差しかかった頃、祖父が最後に言った。
「結論として、しばらくは三本立てだ。
第三の異変は御子柴たちの情報を待ちながら、こちらでも薬草面から記録を洗う。
《錬金術》は対黒濁・対人為罠を想定した実用研究を進める。
そして店は、平常を装いながら裏の備えを固める」
「……うん」
「できるか?」
「やるよ」
それは自然に出た言葉だった。
怖い。
面倒も増えた。
正直、普通の高校生としてはもうだいぶ許容量を超えてる気がする。
それでも。
今日みたいに誰かが傷ついている場面で、何もできずにいるのはもっと嫌だ。
だったら、準備するしかない。
「よし」
祖父が短く頷く。
「なら明日からは、対腐食用の中和と、簡易拘束系の安定化を優先だ」
「あと保存性もね」
祖母が指を立てる。
「その場しのぎで作れても、持ち運べなきゃ意味がない。湊、明日は瓶の材質も変えてみよう。黒濁相手だと普通のガラスじゃ心許ないかもしれない」
「分かった」
話しながら、僕の中の不安が少しずつ“やること”へ変わっていくのが分かった。
それだけでも、ずいぶん違う。
秘密会議が終わる頃には、もう夜もかなり更けていた。
作業場の明かりだけが、静かな家の中でぽつんと灯っている。
片付けをしながら、僕は机の上のメモを見た。
黒濁スライム対策。
過剰吸収型薬草。
人為的罠。
保管体制見直し。
やることだらけだ。
でも、その一つひとつが、僕の進む先を少しずつ形にしていく気もした。
「湊」
作業台を拭いていた祖母が、ふと呼ぶ。
「なに?」
「今日、怖かったろう」
その問いに、少しだけ手が止まる。
「……うん」
「それでいいんだよ」
祖母はやわらかく笑った。
「怖くなくなったら、たぶん取り返しがつかない。怖いまま、それでも必要な時に動けるくらいがちょうどいい」
その言葉に、僕は静かに息を吐いた。
「覚えとく」
「おう」
祖父も短く応じる。
そしてその夜、部屋へ戻った僕を待っていたのは、もう一件の新しいメッセージだった。
差出人は、篠宮ひまり。
‘’今日はありがとう
それと、金属片の件で少し確認したいことがある
明日、学校で話せる?‘’
画面を見つめながら、僕は小さく息を呑む。
篠宮グループの旧研究部門。
人為的な罠。
そして、僕に近づきつつある新しい秘密。
たぶん明日も、平穏にはならない。
それでも僕は、ほんの少しだけ前より落ち着いた気持ちで返信を打った。
‘’分かった
放課後なら大丈夫‘’
送信してから、ベッドへ倒れ込む。
目を閉じる直前、浮かんだのは今日の出来事そのものではなく、一緒に戦ったみんなの顔だった。
一ノ瀬さんのまっすぐな横顔。
御子柴さんの冷静な目。
篠宮さんの、揺れながらも前を向こうとする表情。
僕の秘密は、少しずつ人との繋がりの中へ入り込み始めている。
それが危険なのか、救いなのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも――
このまま一人で抱え込むだけの物語では、もうなくなっていた。




