第十話 刻印の秘密と、令嬢の本音
未登録の男たちが消えたあと、僕たちはそれ以上の追跡を諦めて現場保存を優先した。
御子柴さんがギルドへ応援を要請し、封鎖区画の拡大と追加調査の手配が進められる。僕たちは小部屋の手前まで下がり、最低限の安全を確保した位置で待機することになった。
その間、篠宮さんはずっと無言だった。
手の中にある小さな金属片。
そこに刻まれた印を見つめる横顔は、さっきまでの冷静さとは少し違っていた。いつもの強い目の奥に、はっきりとした動揺がある。
一ノ瀬さんもそれを感じているのか、珍しく軽口を叩かない。
「……応援、遅いね」
ぽつりと漏らした声が、妙に静かな通路に溶けた。
「封鎖区域の奥ですもの。慎重になっているのよ」
御子柴さんはそう答えつつも、何度か通信端末を確認していた。
表情は落ち着いているが、警戒を解いてはいない。男たちが本当に撤退した保証はない以上、今も気を抜けないのだろう。
僕は壁際に立ったまま、篠宮さんの肩越しに金属片を見つめていた。
「本当に、篠宮グループのものに見えるの?」
慎重にそう尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙のあと、ようやく小さく口を開く。
「正確には、“篠宮グループの旧研究部門で使われていた管理記号の形式に似ている”よ」
「旧研究部門?」
「ええ。今は統廃合されて、表向きはもう存在しない部署」
その言い方が引っかかった。
「表向き、ってことは……」
「完全に消えたとは限らない、ということ」
篠宮さんはそう言って、金属片をそっと布袋へしまった。
「大企業には、整理されたことになっている古い案件や、記録上だけ閉じた研究系統がいくつもあるわ。全部が違法というわけじゃない。でも、中には表へ出せないものもある」
一ノ瀬さんが眉をひそめる。
「それって、かなりまずくない?」
「ええ。だからこそ、似ているだけで断定したくなかったの」
彼女はまっすぐ前を見たまま言う。
「けれどあの男たちの動きと、あの罠の仕込み方、それに浅層の異変。全部が重なると、無関係だと切り捨てる方が不自然になる」
僕は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
もし本当に篠宮グループの内部が関わっているなら、これはギルドの異変調査だけでは終わらない。企業、利権、隠蔽。僕の苦手なものが、一気に現実味を帯びて迫ってくる。
「ひまりさん」
御子柴さんが静かに呼ぶ。
「今ここで抱え込みすぎないこと。あなた個人で結論を出す段階じゃないわ」
「……分かってる」
答えた声は平静だった。
でも、分かっていてなお、心が追いついていないのが伝わってくる。
やがて、通路の向こうから複数の足音が近づいてきた。
応援班だ。
ギルドの調査員と武装探索者が数名。現場確認と簡単な事情聴取が始まり、僕たちは目撃した内容を最低限共有した。未登録の男たちの特徴、煙幕、閃光球、罠の位置、黒濁スライム残滓の分布。
もちろん、《錬金術》のことは伏せたまま。
僕は“家の薬を持ち込んでいた見習い”として処理され、救護補助と簡易観察をしたという程度の説明で済んだ。御子柴さんが言葉を選んで誘導してくれたおかげだ。
事情聴取が終わる頃には、正直かなり疲れていた。
控室へ戻った時には、もう昼を少し回っていた。
◇
ギルド側控室の空気は、朝とはまるで違っていた。
資料が増え、人の出入りが激しくなり、職員たちの顔色も硬い。第三ダンジョン浅層の異変は、どうやら本格案件として扱われ始めたらしい。
「今日のところは解散でいいわ」
御子柴さんが僕たちに向かって言った。
「これ以上あなたたちを現場に残しても、公式調査の邪魔になるだけ」
「でも、何か分かったら――」
一ノ瀬さんが言いかける。
「必要なら連絡する。あなたはまず肩の手当てをもう一度受けなさい」
「うっ」
忘れていたらしい。
篠宮さんの火魔法での援護と、その後の処置で今は動けているが、矢に掠めた肩はやはり無傷ではない。
「朝比奈くんもよ」
「え、僕も?」
「あなたも少し顔色が悪い」
篠宮さんにそう言われて、僕は反射的に否定しかけた。
けれど実際、気を張り続けていたせいでかなり消耗している。肩の古傷もまだ完全じゃないし、さっきの事情聴取で思った以上に神経を削られていた。
「そうかも」
「素直でよろしい」
御子柴さんのその言い方に、少しだけ力が抜けた。
そのまま解散、になるかと思った時だった。
「朝比奈くん」
篠宮さんが僕を呼び止めた。
栗色の目が、まっすぐこちらを見ている。
「少しだけ、時間をもらえるかしら」
「え?」
「話したいことがあるの」
一ノ瀬さんがぴくりと反応した。
その横で御子柴さんは、何かを察したように小さく息を吐く。
「私は報告をまとめる。一ノ瀬さん、あなたは治療室へ」
「えー……」
「えー、じゃない」
「はい……」
不服そうではあるけれど、さすがに今は従うしかないらしい。
一ノ瀬さんは僕をじっと見てから、「ちゃんと戻ってきてよ」とだけ言って控室を出ていった。
残された僕は、ますます落ち着かない気持ちになる。
篠宮さんはそんな僕へ、「場所を変えましょう」とだけ言った。
◇
連れて行かれたのは、ギルド施設の裏手にある小さな休憩テラスだった。
ダンジョン施設に併設された無機質な建物群の隙間に、少しだけ植栽とベンチが置かれている。人通りも少なく、話をするにはちょうどいい場所だった。
篠宮さんはベンチの前で立ち止まり、すぐには座らなかった。
僕もどうしていいか分からず、少し離れて立ったまま待つ。
先に口を開いたのは彼女だった。
「今日は助かったわ」
「え?」
「煙幕の時。粘着液で相手の足を止めたでしょう」
そのことか。
「とっさにやっただけだよ」
「それでも助かったのは事実よ。ありがとう」
きちんと頭こそ下げないものの、その声は本気だった。
「いえ、僕も一ノ瀬さんに助けられたし、篠宮さんの火魔法がなかったら逃げられてたと思う」
「そうかもしれないわね」
彼女は小さく頷いてから、ようやくベンチへ腰を下ろした。
「座ったら?」
「う、うん」
少し距離を空けて座る。
妙に緊張する。戦闘中より、こういう時の方が僕はずっと苦手だ。
しばらく沈黙が続いたあと、篠宮さんがぽつりと言った。
「私はね、家があまり好きじゃないの」
予想外の言葉に、僕は思わず顔を向けた。
彼女は前を見たまま続ける。
「正確には、全部が嫌いなわけじゃない。救われた人もいるし、実際に役立っている研究もある。誇れる部分だってあるわ」
「……うん」
「でもその一方で、“価値があるものは管理すべき”“才能は組織の中に置くべき”って考える人も多い。珍しい技術も、希少スキルも、まず人としてじゃなく資源として見る」
その言葉に、僕の胸が小さく痛んだ。
御子柴さんが言っていたことと、ほとんど同じだ。
「私は、そういうのが嫌い」
篠宮さんはそこで初めて、少しだけ苦い顔をした。
「嫌いなくせに、その家の名前も力も利用してる。矛盾してるわよね」
「……そんなことないと思う」
気づけば、そう返していた。
彼女が少し驚いたように僕を見る。
「どうして?」
「嫌いだから離れる、だけじゃなくて、中にいるからできることもあるんじゃないかなって。今日だって、篠宮さんが来てくれたから分かったことがあったし」
「慰めてるの?」
「いや……ただ、本当にそう思っただけ」
僕は人を上手く励ますのが得意じゃない。
でも、彼女がただ家に反発しているだけの人じゃないことは、今日だけでも十分伝わっていた。
篠宮さんはしばらく僕を見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「あなたって、本当にそういうところがずるいわね」
「えっ」
「計算してないのに、変なところで真っ直ぐ返してくる」
褒められているのか責められているのか分からない。
「ごめん?」
「どうして謝るのよ」
少しだけ呆れたように言われて、僕はますます分からなくなる。
けれど、さっきまで張っていた彼女の空気が少し和らいだのは確かだった。
「それで、話したかったことって……」
恐る恐る本題を促すと、篠宮さんは表情を引き締めた。
「二つあるわ」
「二つ」
「一つ目。あの金属片のことは、しばらくあなたたちにも内密にしてほしい」
「僕たちにも?」
「ええ。もちろん御子柴さんは別だけれど、少なくともギルドの広い範囲にはまだ出したくない。情報が漏れれば、証拠隠滅に動く人間が出る可能性がある」
それは理解できる。
「分かった。誰にも言わない」
「ありがとう」
彼女は短く礼を言ってから、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「二つ目は……あなたのこと」
「僕?」
「ええ」
また心臓がうるさくなる。
「あなた、何か隠しているでしょう」
真正面から来た。
僕は咄嗟に視線を逸らしかけて、でもそれをしたら余計に肯定みたいだと思って、どうにもならなくなった。
「それは」
「安心して。全部話せなんて言わない」
彼女の声は思ったよりやわらかかった。
「ただ、今日一緒に動いて、はっきりしたことがある。あなたは“ただ家の薬に詳しい見習い”ではない。薬草や素材への感覚も、応急判断も、即席での応用も、普通じゃない」
図星すぎて、何も言えない。
「だから知りたいの。あなたが隠しているものが、危険な野心なのか、それとも守りたいものなのか」
その問いは、鋭いのに不思議と冷たくなかった。
暴きたいから聞いているのではなく、見極めたいから聞いている。
それが分かるからこそ、余計に苦しい。
「……守りたい、です」
長い沈黙のあと、僕はそれだけを言った。
「店も、祖父母も、助けられる人がいるなら助けたいって気持ちも。たぶん全部」
篠宮さんは黙って聞いていた。
「でも、もしそれが知られたら、平穏じゃ済まない気がしてる。利用されるかもしれないし、家族まで巻き込むかもしれない。だから隠したい」
「それでも使うのね」
「……うん」
「なぜ?」
それは簡単な質問のはずなのに、答えるのは難しかった。
僕は少しだけ俯いてから、正直に言う。
「見捨てる方が、たぶんもっと苦しいから」
風が吹いた。
テラスの植え込みが小さく揺れる。
篠宮さんはしばらく何も言わなかった。
やがて、本当に小さく、ほとんど独り言みたいに呟く。
「……やっぱり、そういう人なのね」
「え?」
「なんでもないわ」
そう言いながらも、彼女の横顔は少しだけ赤く見えた。
気のせいかもしれない。たぶん、気のせいだ。
彼女は咳払いをひとつして、いつもの調子を取り戻す。
「分かった。今はそれで十分」
「十分、なの?」
「ええ。少なくとも、あなたが危ない力を嬉々として振り回すタイプじゃないことは分かったもの」
それはずいぶん低い評価基準な気もするけれど、今の僕にはありがたかった。
「その代わり」
「え」
「無茶をする時は、ちゃんと相談して」
意外な言葉だった。
「一人で抱え込まれるのは困るわ。こちらにも準備があるし、現場で勝手に死なれたら後味が悪いもの」
「……後味」
「そこに引っかかるの?」
少しだけ笑われてしまう。
けれどその笑い方は、学校で遠くから見ていた“完璧な令嬢”のものではなく、年相応の少女のそれに近かった。
「あと、もう一つだけ」
「まだあるの?」
「あるわ」
彼女はまっすぐ僕を見る。
「今日、私を庇おうとしたでしょう」
「え?」
思わず固まる。
煙幕の中、クロスボウの男が動いた時のことだ。
正確には庇ったというほど立派じゃない。ただ反射的に前へ出かけただけだったと思う。
「別に、そんな」
「したわよ」
言い切られた。
「そういうの、軽々しくやらないで」
その声は、責めているようでいて、少しだけ震えていた。
「私、自分が守られる側だと思われるの、あまり好きじゃないの」
「ご、ごめん」
「だから謝らないで」
まただ。
僕は本当に、こういう時の正解が分からない。
でも次に彼女が言った言葉で、少しだけ意味が分かった。
「……心配、しただけだから」
小さすぎて、聞き返しかけた。
でも聞き返したらたぶん駄目なやつだと本能が告げて、僕は黙る。
沈黙が落ちる。
さっきまでの張り詰めた空気とは違う、妙に落ち着かない沈黙だった。
その空気を壊したのは、勢いよく開いたテラスの扉だった。
「やっぱりここにいた!」
聞き慣れた明るい声。
振り向けば、一ノ瀬さんが肩に簡易包帯を巻いたまま立っていた。
「一ノ瀬さん」
「ちゃんと治療してきたよ。で、そろそろ戻ってこないかなーって思って来たら、二人でいい雰囲気出してるし」
「いい雰囲気ではないわ」
篠宮さんが即座に否定する。
「えー、そうかな」
「そうよ」
「でも朝比奈くん、ちょっと顔赤いよ?」
「えっ!?」
慌てて自分の頬に触れてしまう。
たしかに少し熱い気がする。たぶん疲れだ。疲れのせいに違いない。
一ノ瀬さんはにやにやしながら僕の前に立つ。
「何話してたの?」
「仕事の話よ」
「ふーん」
絶対に信じていない顔だった。
篠宮さんは立ち上がり、服の裾を軽く整える。
「誤解されるようなことは何もないわ。ただ、今後の情報管理と連携について確認していただけ」
「それを二人きりで?」
「一ノ瀬さん」
「はい」
「あなた、意外と面倒な性格してるわね」
「篠宮さんほどじゃないと思う」
また始まった。
僕は思わず額を押さえたくなる。
でも不思議と、昨日までよりはこの空気に慣れ始めている自分もいた。
御子柴さんがここにいなくて本当によかった、と思った次の瞬間。
「……やっぱり迎えに来て正解だったわね」
背後から、その本人の声がした。
三人まとめて振り向く。
テラスの入口に立つ御子柴さんは、呆れたような、それでいて少しだけ疲れた顔をしていた。
「報告ひとつまとめる間に、どうしてこうも面倒な空気を作れるのかしら」
「いや、これは……」
「言い訳はいいわ。ひとまず今日は解散。追加調査の連絡は私から回す」
そう言ってから、彼女は僕へ視線を向けた。
「朝比奈くん」
「はい」
「今日のこと、帰ったら祖父母にも共有しなさい。黒濁だけじゃなく、人為的な細工の可能性まで出た以上、店側も用心が必要よ」
「分かりました」
「それから」
一瞬だけ、御子柴さんの目がやわらいだ。
「……よく生きて戻ったわ」
その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
褒められたわけじゃない。
でも、ちゃんと帰ってきたこと自体を認めてもらえた気がした。
「ありがとうございます」
「感謝は結果が出てからでいい。次はもっと上手くやりなさい」
「はい」
その返事に、横で一ノ瀬さんがくすっと笑い、篠宮さんもほんの少しだけ口元を緩めた。
こうして第三ダンジョン浅層の再調査は、一応の区切りを迎えた。
けれど持ち帰ったものは多い。
人為的な罠。
逃げた未登録探索者。
篠宮グループに繋がるかもしれない刻印。
そして、僕自身の力がまた一歩、誰かに見抜かれ始めているという事実。
帰り道、ギルド施設の外へ出たところで、空を見上げる。
午後の日差しは明るいのに、胸の中にはまだ重いものが残っていた。
でもそれだけじゃない。
少しだけ信じられる人が増えたこと。
誰かと背中を預けて戦えたこと。
その感触もまた、確かに残っている。
平穏は遠ざかっている。
それでも、もう一人ではない。
そのことだけが、今の僕には思っていた以上に大きかった。




