第9話 帝国の使者③
気づけばずいぶんと時が経っていた。
「書類は以上ですな。お疲れ様でございました」
「やっと終わったか……」
アルベルトは凝り固まった肩をほぐすように大きく腕を上に伸ばした。骨の鳴る音がする。
「あれだけ高かった日が、もう沈もうとしているぞ」
窓の外を見れば空はすでに茜色に染まり、西の空に夕日が傾いていた。一日が書類の山とともに溶けて消えていったらしい。
「アルベルト様がこれほど集中してお仕事に励まれるとは。このヴィクター、嬉しい限りでございます」
「皮肉の通じない奴だ」
軽口を返しながらアルベルトはふと、窓の外の様子に気づいた。
城の中庭のあたりが何やら騒がしい。人の動く気配と慌ただしい足音。日が暮れようというこの時刻に、ただ事ではない空気が漂っていた。
「……何かあったか?」
アルベルトは眉をひそめ、窓辺へと歩み寄った。
「わかりませんな。ただ……早馬が来ているのが見えます。あそこに警備の兵が集まっておりますな」
ヴィクターもまた窓の外へ目をやって言った。中庭の一角に土埃にまみれた馬と、それを取り囲む数人の兵士の姿があった。
「早馬とは穏やかじゃないな。よほどのことがなければ早馬など使わん」
「確かに気になりますな」
「ヴィクター、悪いが何があったか見てきてくれるか」
「承知いたしました」
ヴィクターがそう言って部屋を出ようと扉に手をかけた、まさにそのときだった。
コン、コン、と扉を叩く音が響いた。それも幾分か慌てた、性急な叩き方だった。
「殿下、申し訳ありません。よろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、息を切らした、そしてどこか動揺を含んだ声だった。
アルベルトとヴィクターは思わず顔を見合わせた。
通常、この部屋への取次ぎは女官が行う。だが、いま扉の外から聞こえたのは明らかに男の声だった。つまり、女官を通せぬ用件――軍事的な、もしくは国政に関わる急報である公算が高い。
「かまわん、入れ」
アルベルトが声をかけると扉が開き、鎧を着用した一人の兵士が足早に入ってきた。額には汗が滲んでいる。
「お忙しいところ申し訳ありません。陛下より殿下をお呼びするようにと、仰せつかってまいりました」
「父上が? 何かあったのか」
「はっ。――ただいま早馬が到着し、報せがございました。帝国の使者がこちらへ向かっているとのことにございます」
その言葉にアルベルトの目にはっきりとした驚きが浮かんだ。
帝国の使者。こちらから謝罪の使者を送り、それで一件は落着したはずだった。なぜ、いまさら帝国のほうから使者が来るのか。
そして、長年にわたって外交の最前線で帝国と対峙してきたヴィクターの目は、いっそうその鋭さを増していた。老宰相はこの急な動きの裏に帝国の「次の手」の気配を、いち早く嗅ぎ取っていた。
「……来たか」
アルベルトは静かに立ち上がった。
「謝罪の使者を送ったばかりだ。それで一件落着のはずが、今度は向こうから使者が来る。タイミングが良すぎる。これはただの返礼ではないな」
「ええ」
ヴィクターが低く後を引き取った。
「さきほど申し上げた『次の手』。それが、もう動き出したのやもしれません。御油断めさるな、殿下。穏やかな顔をして来る使者ほど、懐に刃を隠しているものでございます」
「肝に銘じておく」
アルベルトは短く答えると、報せに来た兵士に向き直った。
「すぐに参る、と父上にお伝えしてくれ。――ヴィクター、お前も来い。帝国相手となれば、お前の目が要る」
「もとよりそのつもりでございます」
二人は顔を見合わせ、足早に部屋を後にした。夕闇の迫る回廊を急ぎ足で父王のもとへと向かう。その胸には同じ一つの問いがあった。
――帝国はいったい何を仕掛けてくるつもりなのか。




