第8話 帝国の使者②
それから数日が過ぎた。
アルセリアへ送った使者は、滞りなく事態を収拾して戻ってきた。
フォルティニアから丁重な謝罪があったことに対し、アルセリア側からは「痛み入る」との返答があり、「此度フォルティニア国境で起きたことについて、帝国は何ら憂いを抱いてはおらぬ」と伝えてきた。それどころか――アルセリア側こそ国境を騒がせて申し訳ない、と詫びてきたのである。
実は今回の国境の騒動の折、クシャス川の対岸――アルセリア側にも、帝国の騎士団の一部隊が集結していた。アルセリアが言うには、「帝国の国境領地にもならず者が集まり、周辺の村や町に被害が出ていた。騎士団は、そのならず者に対処するために皇帝が派遣したものである」とのことだった。
もちろんこれは嘘である。
本来、帝国はこう言い張るつもりだったのだろう。「フォルティニアに潜む盗賊が、アルセリアの村や町を襲っている。住民に被害が出ている。ならず者を討つため、やむなく国境を越えた」――と。フォルティニアの傭兵団が暴れるのを待ち、それを口実に堂々と国境を越えて兵を入れる。アルベルトが軍議で読んだ通りの筋書きだった。
しかし、フォルティニアが先んじて傭兵団を討ち、そのうえ謝罪まで入れてきた。帝国は当てが外れ、集結させた騎士団の存在を、自ら「ならず者対処のため」と公にせざるをえなくなったのだ。
アルベルトが詫びの使者を立てたことで、帝国は二重に手を縛られた。一つは傭兵団を口実にした国境侵犯。これはもう使えない。
フォルティニアが「我が国内の不届き者を片づけただけ」と先に言い切ってしまった以上、そこに帝国が割り込む余地はない。もう一つは集結させた騎士団。これも「ならず者対処」と公言した手前、おいそれとは動かせなくなった。下手に動かせば、自分のついた嘘で自分の首を絞めることになる。
会戦は半日で決し、外交は数通の書状で決した。剣を交えたのは国境のひと隅だけで、王国はほとんど血を流さずに、帝国の一手を完全に封じきったのである。
アルベルトはその報せを聞いて、わずかに眉を寄せた。
帝国が騎士団の集結を公にしたということは――次の手をすでに打ち始めているということでもある。一つの企みが潰えたなら、必ず次を仕掛けてくる。それが帝国という国だ。
それが何なのか。今はまだわからない。
だが、いまのアルベルトの大きな関心ごとは、実のところ別にあった。
*
「国境付近の村や町には、混乱はないようだな」
アルベルトは卓上に広げた書類に目を走らせながら言った。場所は王城内に与えられた執務の一室である。
「そうですな。これといった大きな混乱はございません。むしろ、住民たちは何も知らなかった、と申すのが正しいでしょう」
アルベルトの傍らに控える五十がらみの男が答えた。
若いころからその手腕を買われ、帝国という大きな脅威を相手に外交の一線で辣腕をふるい、その後は国の中枢に入って、宰相という立場で国を取り仕切ってきた男である。現王マクシミリアンが即位したころから脇でこれを支え、十五年前の帝国との和平交渉を取りまとめたのも、この男だった。
フォルティニアにこの人あり、と謳われる宰相――ヴィクターである。
「国境付近の傭兵団の狙いは周辺の村や町を襲い、混乱を起こすことだったのでしょう。が、その前に殿下がたが対処なさった。並の傭兵団であれば、村のいくつかは焼かれ、被害も出ていたはず。ですが今回は、裏に帝国がいた公算が高い。ゆえに連中も、勝手な略奪に走る短慮な者を出さぬよう、また住民に気取られぬよう、よくよく注意を払っていたようです」
ヴィクターは白いものの混じった顎髭を撫でた。
「皮肉なものですな。帝国がうまく統率していたおかげで、住民には被害が出なかった。住民たちからすれば、ある日いきなり見たこともない騎士団が現れたわけです。被害の話よりも『騎士団が来たぞ』という話で持ち切りでしてな」
「王国の民に被害が出なかったのなら何よりだ」
アルベルトはほっとしたように息をついた。
「騎士団のことは、住民には『野盗を警戒しての訓練だった』とでも伝えておけばいい。帝国の影をちらつかせて、いたずらに民を不安がらせる必要はない」
「承知しております。すでにそのように手配済みで」
「……相変わらず仕事が早いな」
「殿下のご指示を、先んじて片づけておくのが宰相の務めでございますれば」
涼しい顔でそう言うヴィクターに、アルベルトは苦笑するしかなかった。
ともあれ、これで国境の一件は表向きには綺麗に収まった。傭兵団は討たれ、民に被害はなく、帝国へは謝罪という名の牽制を入れ、帝国もまた騎士団を引かざるをえなくなった。一手一手、危ういところを縫うようにして、最悪の事態は避けられた。
――そう、ここまではよかったのだ。
「それよりも、だ……」
アルベルトはげんなりとした顔で、目の前に積み上げられた書類の束に目をやった。うずたかく積まれたそれは、一つ片づけてもいっこうに減る気配がない。
「いくら何でも仕事が多すぎないか? これは……どう見ても宰相の仕事ではないのか?」
恨めしそうにアルベルトは、ヴィクターと書類の山とを交互に見比べた。
「今回、国境で起きたことについては、後始末も含めてすべてアルベルト様にお任せする。それが陛下のお言葉でございます」
「後始末にしてはやることが多すぎるだろう。治水だの、徴税の見直しだの、街道の整備だの……これのどこが傭兵団の後始末だ」
「よい機会ゆえ、東部の統治を一部、殿下にお任せする。これを機に領地の治め方を学ぶがよい――と、陛下はそのように仰せられました」
「……俺は聞いていないぞ」
「ただいまお伝えいたしました」
ヴィクターは眉ひとつ動かさずに言った。
「アルベルト様。あなた様はいずれこの国の王となられるお方。もう二十歳を超えられたのです。剣や軍略ばかりでなく、徐々に領地を豊かにする術もお考えいただかねば、このヴィクター、困りますのでな」
その目がすっと鋭くなる。長年、帝国の海千山千の外交官たちと渡り合ってきた男の眼光だった。アルベルトは思わずたじろいだ。
「わかったわかった。剣や軍略だけでなく、統治も学べという事だろう。もう何度も聞いている」
「それはようございました。アルベルト様のお耳は特別仕様でいらっしゃいますからな。このヴィクターの言葉がはたしてちゃんと聞こえておるのか、いつも心配しておるのです」
「本当に聞こえなかったら、どれだけありがたいか……」
「はて。何かおっしゃいましたかな?」
「……なんでもない」
憮然とした表情で、アルベルトは口の中でつぶやいた。
タウロ将軍の雷が真正面から殴りつけてくる豪雨だとすれば、このヴィクターの小言はじわじわと真綿で首を締めるような底冷えのする雨だ。質が違うだけで、逃げ場がないのは同じだった。総大将として三百の傭兵を相手取るより、この老宰相一人を相手にするほうがよほど骨が折れる。
「このヴィクターも、微力ながらお手伝いいたしますゆえ、どうかご安心を」
「ああ、そうしてくれ。……それじゃあ、まずは東部の治水の状況から教えてくれ」
諦めたように、アルベルトは書類の山に向き直った。
こうして始まった政務は、思いのほかアルベルトの性に合っていた。
地図を広げ、川の流れと田畑の位置を照らし合わせ、どこに堤を築けば水害が減るか、どこに水路を通せば新たな田が拓けるか――それは、軍議で布陣を練るのとどこか似ていた。守るべきものを守り、活かすべきものを活かす。相手が敵兵か自然か、というだけの違いだ。
夢中で書類をめくるアルベルトを、ヴィクターは時おり目を細めて眺めていた。剣を持たせれば騎士、軍を率いれば将。だが、こうして民の暮らしに頭を悩ませる姿こそ、いずれ王となる者の顔だった。この若き王太子は戦の才だけの男ではない。老宰相はそのことに密かな手応えを感じていた。
「……なあ、ヴィクター。この東部の堤の普請だが」
アルベルトが一枚の書類を指で叩いた。
「毎年、雨季のたびに同じ村が水に浸かっている。なのに、修繕の費えばかりが計上されて、堤そのものを作り直した記録がない。これは毎年壊れる前提で、毎年直しているということか?」
「左様。古い堤ゆえ、根本から作り直すには大きな費えがかかります。歴代の代官は目先の修繕で済ませてまいりました」
「馬鹿げている。十年も修繕を続ければ、作り直す費えなどとうに超えているだろう。一度きちんと作り直せば、その後の修繕費はまるごと浮く。村も毎年水に浸からずに済む。――これは作り直しを上申する。費えの試算を出してくれ」
「……かしこまりました」
ヴィクターはわずかに目を見開いた。それから満足げに頭を垂れる。膨大な書類の中から長年見過ごされてきた一点の歪みを、この若者は的確に掴み出した。数字の奥にいる、毎年水と戦う村人たちの顔をちゃんと見ている。――王の器とはこういうものだ。
「ところでヴィクター。一つ聞いていいか」
ふと、アルベルトは書類から顔を上げ、声の調子を変えた。
「今回、帝国はずいぶんとあっさり引いた。騎士団まで集めておきながら、こちらが詫びを入れた途端、『感謝している』と返してきたそうだな。お前はどう見る」
ヴィクターはしばし手を止めた。その顔から先ほどまでの軽妙さが消える。
「……あっさり引いた、とは思いませんな」
その声は低かった。
「帝国という国は、一度狙いを定めた獲物をそう容易く諦める国ではございません。今回の傭兵の件は確かに失敗に終わりました。なれば必ず次を打ってまいりましょう。それもこちらが読みづらい搦め手から」
「搦め手、か」
「武で来るとは限りません。商人を装って利で釣るか、縁を結んで内に取り込むか、あるいは――こちらの内側に不和の種を蒔くか。帝国の手は剣ばかりではございません。むしろあの国は、剣を抜かずに勝つことを何より好みます。血を流さずに国を呑むのが、最も安く最も確かな征服でございますからな」
アルベルトはその言葉を胸の奥に深く刻んだ。
十五年、外交の最前線で帝国と渡り合い、煮え湯を飲まされ続けてきた男の言葉だ。軽く聞き流せるものではなかった。剣でなら、いつでも受けて立つ。だが、剣を抜かぬ戦いとなれば――それは、アルベルトのまだ知らぬ戦場だった。




