第5話 帝国の影
将軍の特大の雷を浴び、砂埃を落とすべく自分の天幕へ戻ったアルベルトは、泥のついた外套を脱ぎ捨て、濡らした手拭いで体を清めて、新しい上衣に着替えた。雷を浴びてから、まださほど時は経っていない。だがその頭は、すでに次のこと――これから開かれる軍議へと切り替わっていた。
天幕では、年若い従者が湯の入った桶を抱えて待っていた。まだ十五、六だろう。そばかすの浮いた顔を強張らせている。
「お、お帰りなさいませ、殿下」
「ああ、戻った。湯を頼む。……ひょっとして、お前も将軍に絞られたのか。俺が朝にいなかった件で」
従者は、観念したようにうなだれた。
「は、はい……。早朝に将軍様がお見えになって、殿下はどこかと。私は何も知らず、そのとおり申し上げたのですが……その、お声が、とても大きくて」
「すまんな。とばっちりだった。……それと、心配をかけた」
「で、殿下!? お、おやめください、頭を下げるなど……! 私などは、ただ……ご無事で、ようございました。本当に」
その目が少し潤んでいるのを見て、アルベルトは胸を突かれた。軍を抜け出すと決めたとき、頭にあったのは国境の情勢のことだけだった。この少年が空の寝台を見てどう思うか、考えもしなかったのだ。
慌てる従者に苦笑しながら、アルベルトは手早く身を清め、衣を改めた。鏡代わりの銅板に映る顔には疲労の色が残っていたが、目だけは妙に冴えていた。これから始まる軍議のことを思えば、疲れてなどいられない。
*
整えた身なりで軍議用の天幕をくぐると、すでにグレイをはじめ、タウロ将軍以下、主だった顔触れがそろっていた。
「すまぬ、待たせたな」
アルベルトは詫びを入れて、卓の前に立った。卓上には周辺の地形を描いた地図が広げられ、その上に親指大の石が並んでいる。白が味方、黒が敵だ。かがり火の灯りが石の影を長く伸ばし、地図の上に小さな戦場の様相を作っていた。
「さて、まずは俺とグレイが見てきた敵の様子を話そう」
アルベルトは、黒い石の集まりを指さした。
「敵はこのクシャス川を渡ったところに陣を張っている。アルセリア帝国はこちら側だから、敵がいるのは我がフォルティニアの領内ということになる」
「無断で我が国に踏み込むとは不届き千万。一気に蹴散らしてしまいましょう」
怒りを含んだ声をあげたのは、副官コージャンだ。元は傭兵あがりという変わり種だが、いまやタウロ将軍が最も信を置く男である。
「まてコージャン。怒りはもっともだが、相手の目的がわからぬまま戦を仕掛けては、要らぬ疑いをかけられるだけよ」
たしなめるタウロ将軍の顔は、先ほど雷を落とした時とは別人のように冷静だった。卓を囲むのは、いまや歴戦の指揮官たちの顔である。
「殿下。敵陣はどのような様子でしたか」
「グレイ、頼む」
「はっ」
グレイが地図上に指を向けた。
「陣取った敵ですが、装備は正規兵の揃いの鎧ではなく、大半が革鎧。武器も剣や槍と、思い思いです。騎馬もほとんどおらず、歩兵が主体。装備だけ見れば、傭兵の集まりと見るのが筋でしょう。――ですが、引っかかったのはここからです」
グレイは指を一本立てた。
「装備は傭兵。なのに陣の様子は、傭兵のものではなかった。柵が巡らされ、出入り口は二か所に絞られ、見張りは死角を補い合う配置。兵は列を作って整然と配給を受けていた。喧嘩も博打も酒盛りもない。コージャン殿、これほど静かな傭兵の陣を、ご覧になったことが?」
「……いや、ありませんな」
コージャンが苦い顔で首を振った。
「傭兵の溜まり場は、もっと汚くてうるさいもの。配給に大人しく並ぶなど、躾けられた軍隊でなければありえん。遊ばせておけば、すぐ博打と喧嘩で崩れていくのが傭兵です。それを抑え込んでいるとなれば、よほど金払いがよく、よほど厳しい雇い主がいる」
「そう。装備は傭兵、統率は軍隊。誰かが厳しく躾け、組織立てて金で動かしている。その証です」
将校たちが顔を見合わせた。単なる無法者ではない。その認識が、じわりと場に広がる。
「なぜ傭兵が我が領内に陣を張るのですかな、グラヴィス卿?」
コージャンの問いに答えたのは、アルベルトだった。グラヴィス卿――それがグレイの、公爵家嫡男としての敬称である。
「名目上、我が国とアルセリアは和平を結んでいる。正規兵が領土を侵せば帝国は非難を浴びる。だが傭兵なら『知らぬ、勝手に入り込んだ』と言い逃れができる。手を汚さず、こちらを探れるというわけだ」
「裏づけも、あります」
グレイが継いだ。
「偵察中、見つかった折に連中が叫んだのです。『フォルティニアの斥候だ』と。傭兵が、迷いもせず我々をフォルティニアと断じた。国境で鎧の騎士を遠目に見ただけで、どちらの人間か判じられるはずもないのに、です」
「最初から『敵はフォルティニア』と刷り込まれている、か」
タウロ将軍が髭を撫でた。
「誰のために雇われたか、自ら白状したようなものだな」
「お待ちください」
声をあげたのは、西部を受け持つ若い隊長だった。和平の世に育った世代だ。
「失礼ながら、にわかには信じられません。我が国とアルセリアは、十年からの和平を保っております。それを、帝国がみすみす破ると?」
「破るだろうな」
答えたのはアルベルトではなく、タウロ将軍だった。
「数年前のカロンを忘れたか。あの時も両国は和平を結んでいた。それでも帝国は、特使を殺されたという難癖を口実に攻め込み、カロンを地図から消した。和平条約など、帝国にとっては破り捨てるための紙きれにすぎん。同じことが、この国に起きぬという保証はどこにもない」
若い隊長が、息を呑んで口をつぐんだ。天幕に、重い沈黙が落ちる。
「私は、此度の件をアルセリアの工作と見ている」
アルベルトが一同を見渡した。
「傭兵を使い、我が軍がどれだけ早く国境の異変に気づき、駆けつけられるかを測っている。来るべき侵攻の、下調べだ。放置すれば、帝国に次の一手を許す」
タウロ将軍が、ゆっくりと頷いた。
「敵の狙いがそこにあるなら、なおさら放置はできません。傭兵を居座らせれば、いずれ近隣の村で狼藉を働く。民が苦しむ。帝国の思惑に乗るのは癪ですが――ここは、蹴散らさねばなりますまい」
一同が頷いた。
「コージャン。お前の見立てでは、連中はいつまであの陣を保てる」
問われたコージャンは、しばし顎を撫でた。傭兵あがりの男が、かつての同業の腹の内を測る間だった。
「傭兵の我慢が利くのは、長くてひと季節かと。それを過ぎて仕事がなければ、必ず痺れを切らして崩れ始めます。裏を返せば――雇い主は、遅くともひと季節のうちに、何かを起こすつもりでしょう」
ひと季節。その言葉が、場の空気をさらに重くした。猶予は多くない。
アルベルトは卓上の地図を見つめた。黒い石の一つひとつが、三百、四百の人間だ。雇われ、駒として置かれ、たぶんは自分たちが何のために国境に座らされているのかも知らされていない者たち。それを蹴散らすということは、その何割かを、この手で討つということでもある。
胸の奥が、わずかに重くなる。だがここで動かなければ、いずれ村が焼かれ、もっと多くの民が泣くことになる。天秤の片方には三百の傭兵、もう片方には国境に暮らす無数の民。総大将が選ぶべき答えは、一つしかなかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、グレイと目が合った。幼馴染は何も言わず、ただ小さく頷いた。お前の決めたことに従う、とでも言うように。その一つの頷きが、アルベルトの迷いを断ち切った。
ならば、こちらが先に動く。
「よし。話は決まった」
アルベルトは顔を上げた。
「これより、領内に侵入した傭兵団の討伐作戦を始める。敵陣は俺とグレイがすでに調べてきた。陣の構えも、見張りの位置も、この目で確かめてある。偵察をしてきて正解だったな」
「正解だった、ではありません! そういうことは殿下自らやらなくてよいのです!」
アルベルトが自慢げに言った途端、タウロ将軍の雷がまた落ちた。今日、何度目かわからない雷である。アルベルトは首をすくめたが、その顔は笑っていた。偵察に付き合わされたグレイも、苦笑している。
「わかったわかった。その話はまたあとだ。今は傭兵団に集中しよう。さっそく作戦を話すぞ」
批判をやんわり切り上げ、アルベルトは地図に向き直った。先ほどまでの軽口めいた空気は、すっと引いていた。その横顔は、一軍を預かり、人を死地に向かわせる総大将のものだった。
「敵の数はおよそ三百から四百。だが、こちらには地の利と、確かな下調べがある。要は、被害を出さず、いかに一息に蹴散らすかだ」
アルベルトは白い石を手に取り、地図の上にかざした。卓を囲む男たちが、一斉に身を乗り出す。
「まず、ここを見てくれ――」
かがり火の揺れる光の下、地図の上で白と黒の石が、これから始まる戦の形をかたどっていく。
国境の夜は、まだ長い。
アルベルトの低く、よく通る声が、傭兵団討伐の手筈を、一つずつ語り始めた。




