第4話 将軍の雷
「王子殿下ァッ!」
宿営地の空気を、大音声が震わせた。
重厚な鎧を着込んだ六十絡みの男が、大股でこちらへ向かってくる。いや——歩いてくる、という言い方は正確ではない。あれは突進だ。行く手にいた兵たちが、蜘蛛の子を散らすように道を空けていく。
そこは軍の宿営地だった。
見渡す限りに天幕が張られ、兵たちがせわしなく行き交っている。夕餉の支度の刻限らしい。大鍋を担いだ兵が駆け、薪の束を抱えた兵がそれとすれ違う。天幕の脇には馬が繋がれて飼い葉を食み、積み上げられた物資の袋を、帳面と突き合わせて数える兵の姿もあった。
その一番奥の大天幕から、雷は歩いてきた。
岩を削り出したような厳つい顔に、鋼色の見事な髭。六十を超えてなお衰えを知らぬ堂々たる体躯と、歴戦の古傷が刻まれた鎧。この国境守備の軍を預かる将——タウロ将軍、その人である。
「タウロ将軍、いま戻ったぞ」
赤髪の男、アルベルトは体の埃を払いながら、暢気に応じた。
その暢気さが、油の切れかけた火に薪をくべる結果を招くことを、本人は分かっているのかいないのか。
二人が森から戻って宿営地の門をくぐったのは、つい先ほどのことだった。門の歩哨が目を剥いて二人を通し、その直後、伝令らしき兵が奥の大天幕へ脱兎のごとく駆けていったのを、アルベルトは確かに見ている。つまりこの雷は予期されたものだった。予期はしていたが、回避はできなかった。宿営地というものは無情なもので、歩いていればいずれ見つかるのである。
「戻ったぞ、ではありませんッ! あれほど単独の行動はお控えくだされと申し上げたはずですぞ! 総大将の貴方様が軍を抜け出してどうなさるのです!」
将軍の声が、再び宿営地に轟いた。近くの天幕に繋がれた馬が、驚いていなないた。
一見すれば流れ者の剣士にしか見えぬこの赤髪の男は、実のところ、中央大陸の大国フォルティニア王国の王太子である。
なぜ王太子がこんな場所にいるのかは、来歴と共にひと筆触れておかねばなるまい。王族が軍の総大将に立つこと自体は、この国では珍しい話ではない。古くから王家の男子は、いずれかの時期に必ず一度は軍の指揮を執るのが慣わしで、誰もそれを訝しまない。
だが、その任に就く前に、ひとり下積みを積んだ者となると話は別になる。十九から二十一にかけての二年間、アルベルトは父王マクシミリアンの意向で軍属として身を置き、新兵から下級士官までを一通り経験して、教官たちに徹底して鍛え上げられた。
——王の器を磨くには、机上の学だけでは足りぬ。剣の重さと、兵の朝の冷えと、号令を受ける側の身軽さを、まずは骨身に覚えさせよ。
それが、父王の言葉だった。
二年の修練を終えて王太子の務めに戻ったあとも、下積みは体の隅々に残った。
そして此度、東部国境で傭兵団の影が騒がしくなったのを機に、対処に当たる部隊の指揮官をアルベルトが拝命し、こうして国境近くの宿営地に身を置いている。
国境守備の軍そのものは日頃からタウロ将軍の預かりで、アルベルトの部隊はこの一件のために編まれた臨時の組だった。軍学の図譜から夜駆けの段取り、崖下りの作法まで、実地の知識はあの二年で体に刻まれている。日々の采配も、その下積みの上に立っていた。
——もっとも。
その当人が、自分の率いる軍を抜け出して敵地に近付く癖だけは抜けぬのだから、せっかくの修練も、使いどころを少々誤っているのだった。
「総大将だからこそ、軍のことも敵のこともよく知っておく必要があるだろう。だからこの目で確かめてきたのだ」
「そういうことは我々がやりますゆえ、殿下が動く必要はないのです!」
「では将軍は、総大将が軍も敵も知らんでいいと言われるのか」
「そんなことは申しておりません! 殿下は我々の報告をお聞きになるだけでよろしいと申し上げておるのです!」
「報告を聞くだけの総大将に、兵がついてくると思うか」
「ついてきますッ! 兵がついてくるかどうかは日頃の行いで決まるものです! そして殿下の日頃の行いは、勝手に軍を抜け出すことです! ついてこなくなるとすれば、原因はそちらですぞ!」
「むっ……今日のは、ぐうの音も出ない正論だな」
「むっ、ではありません! だいたい殿下は、今回が初めてではないでしょう! 先々月は補給の荷駄に紛れて検問所の視察に行かれた! 先月は新兵に化けて訓練に交ざっておられた! しかも教官が気付かぬまま、殿下が教練で一番の成績を取ってしまわれた! 教官の立つ瀬がないでしょうが!」
「あれは、変装が完璧だった俺を褒めるべきところだろう」
「褒めませんッ!」
将軍の拳が、固く握られて震えていた。
「そのたびに儂は申し上げた! 『次はありませんぞ』と! 殿下はそのたびに何とおっしゃった! 『善処する』と! あの言葉はどこへ行ったのです!」
「善処はした。今回は前回より、行き先を慎重に選んだ」
「敵地に近付いておいて何が慎重ですか! 悪化しておりますぞ!」
言い争いは、続けば続くほど周囲の目を集めていった。
夕餉の支度をしていた兵たちは手を止め、遠巻きに成り行きを見守っている。何しろ相手は総大将と将軍である。割って入れる者など、この宿営地には数えるほどしかいない。
「あー……お二人とも、いいですか」
その数えるほどの一人が、ここにいた。
二人の応酬を静観していたグレイである。例によって話がまるで噛み合っていないことに呆れ、仲裁に乗り出した。
「こんな場所で声を張り上げては、兵たちが困惑します。話は場所を移してやりましょう」
「グレイ、俺は声を張り上げてなどいないぞ。張り上げているのは将軍だけだ。こんな大声を出さずとも聞こえるものを、相変わらず声がでかい」
「殿下。余計なことはおっしゃらなくていいんです。そういうことを言うから、将軍が余計に怒るんです」
森で軽口を叩き合っていた時とは打って変わった、丁寧な物言いだった。人目のある場では臣下の礼を守る——それがこの男の流儀である。もっとも、言っている中身の方は、相変わらず遠慮の欠片もないのだが。
だが、グレイの仲裁は火消しどころか延焼を招いた。将軍の眼光が、ぎろりとグレイへ向いたのである。
「グレイ殿もグレイ殿だ! なぜ殿下をお止めしなかった!」
「お言葉ですが将軍、止めて止まる殿下なら、私も苦労しません。むしろ私は殿下の被害者ですよ」
「被害者とは聞き捨てならんな。偵察の話をしたら、面白がってついてきたではないか」
「それは殿下の思い違いです。お一人で行かせるのは危なすぎるゆえ、護衛としてお供したまでです」
「護衛と言う割には、目立たぬ外套を前の晩から支度していたな。ずいぶんと手回しのいい護衛だ」
「……昔の話ですな」
「ほう、昔の話で片付けるか。ならば俺も、お前が厩番に酒を握らせた件は昔の話として——」
「殿下ッ! グレイ殿ッ!」
掛け合いに業を煮やした将軍が、三たび雷を落とした。
今度は特大の、二人分である。
二人は思わず首をすくめた。遠巻きの兵たちも揃って首をすくめ、馬がまたいなないた。
「お二人とも、ご自分たちが何をなさったか、お分かりかッ!」
将軍は一歩踏み出し、二人の前に仁王立ちになった。間近に立つと、その体の厚みがよく分かる。六十を超えてなお、若い兵が束になっても敵うまいという迫力だった。
「総大将と、その右腕が、揃って軍を抜け出した! 誰にも行き先を告げず、護衛も付けず、たった二人で! もし敵地で何かあれば、この軍はどうなります! 頭を失った軍がどうなるか、お二人が知らぬはずはありますまい!」
「……それは」
「しかも、だ!」
将軍の目が、二人の身なりを上から下まで睨め回した。外套の下の、薄い革の防具一枚きりの軽装を。
「その格好は何ですか、その格好は! 籠手もなし、脛当てもなし、胸はそんな薄皮一枚! 仮にも敵地に近付こうという者の装いですか! 矢の一本でも飛んできたら、どうなさるおつもりだったか!」
「いや将軍、これは隠密のためにあえて軽装を——」
「あえて、ではありませんッ!」
雷が、言い訳を粉砕した。
「隠密に動くなら、そもそも鍛え上げた斥候を出せばよいのです! 斥候は身を隠す訓練を積み、軽装でも生き延びる術を知っております! お二人は剣の腕こそ立つが、隠密の訓練など受けておられんでしょうが! 訓練も受けず、防具も捨てて敵地に近付くなど、無謀と勇気を履き違えるにもほどがありますぞ!」
「…………」
「現にッ! 敵に見つかって追い回されたのでしょう! 外套のその有様を見れば分かります! その泥と枝葉は、どうせ森を逃げ回った跡でしょうが!」
ぐうの音も出ないとは、このことだった。二人は揃って視線を泳がせた。その反応こそが、何よりの自白だった。
将軍は額に手を当て、天を仰いだ。
「……ああ、まったく。儂はもう歳ですぞ。今朝、お二人の天幕が空だと聞かされた時の、儂の心持ちがお分かりか。捜索の兵を出すべきか。出せば騒ぎになる。騒ぎになればお二人の御立場に障る。かといって万一のことがあれば取り返しがつかん。……この老いぼれの胃に、これ以上穴を開けんでいただきたい」
怒声から一転、絞り出すようなその声には、本物の疲労が滲んでいた。
これには、さすがの二人も応えた。雷は受け流せても、この言い方は胸にこたえる。アルベルトは姿勢を正し、神妙に頭を下げた。
「将軍、心配をかけた。すまなかった」
「……謝罪は受け取り申した。が、次はありませんぞ」
「善処する」
「その『善処する』が信用ならんのですッ!」
雷が、本日三度目を数えた。隣でグレイが「だろうな」という顔で頷いていた。
「将軍、グレイの言う通り、ここでは目立ちすぎる。話は天幕でしよう」
さすがにこの雷の続きはまずいと悟ったか、アルベルトが少し顔を引きつらせて言った。
実際、周囲の注目は、もはや見過ごせないところまで来ていた。兵たちは仕事に戻るふりをしながら、誰ひとりこの場を離れようとしない。明日の朝には、今日の雷の顛末が宿営地の隅々まで知れ渡っていることだろう。
「殿下。お話の前に、お召し替えになった方がよろしいでしょう。さすがに砂埃がひどすぎます」
グレイが横から進言した。
「それもそうだな。……将軍、すまんが話は着替えてからだ。軍議の天幕で待っていてくれ」
「……分かり申した。他の者にも声をかけておきましょう」
タウロ将軍は大きくひとつ息を吐いて怒りを収めると、踵を返し、来た道を戻っていった。
その大きな背中が遠ざかるのを見送ってから、二人はどちらからともなく、長い息を吐いた。
「……今日のは、いつもより大きな雷だったな」
「お前が将軍をからかうからだろう。おかげで俺まで巻き添えだ」
「将軍の雷は覚悟しておけと言っただろう」
「あれはどう見ても、お前が誘導して俺に雷を向けさせたな。いい迷惑だ」
「二人で抜け出したのに俺だけ落とされるのは、不公平だろう」
「本音が出てるじゃないか。……無駄玉を撃たされた将軍に同情するね。それより、さっさと着替えて行くぞ」
「そうだな。遅れて特大のやつをもう一発、というのは敵わん」
傍から見れば大きな犬が二匹じゃれ合っているようなやり取りを切り上げ、二人は砂埃を落とすべく、それぞれの天幕へ歩き出した。
歩きながら、アルベルトは改めて宿営地を見渡した。
兵たちの動きに無駄がなく、誰もが己の役割を心得ている。物資の管理は行き届き、見張りの交代は刻限通り。天幕の列は風向きを読んで張られ、厠は水場から離され、火の始末には専任の係が置かれている。素人目には分からぬ細部にこそ、陣営の質は出る。よく統率された、いい陣だった。あの雷親父の仕事ぶりなのだから、文句のつけようもない。
そして今朝、その完璧な陣から、総大将が一人——正確には二人——抜け出したのである。陣の落ち度ではない。抜け出した側が悪知恵を働かせすぎたのだ。あの几帳面な老将の受けた衝撃を思えば、先ほどの特大の雷も、まあ、相場通りの値というところだろう。
すれ違う兵たちが、二人に気付いて慌てて道を空け、敬礼をしていく。アルベルトはそのたびに軽く手を上げて応えた。
「……おい、アルベルト」
人目が途切れたところで、グレイが小声で言った。口調が素に戻っている。
「なんだ」
「兵たちの目が、なんというか……同情的じゃないか」
言われてみれば、確かにそうだった。敬礼する兵たちの顔には敬意のほかに、何やら憐れみめいた色が浮かんでいる。目が合うと、そっと視線を逸らす者までいた。
「気のせいだろう」
「気のせいならいいがな。あれはどう見ても『ああ、あの雷を間近で受けたのか』という目だぞ。生き延びた者を見る目だ」
「……総大将の威厳とは、何なのだろうな」
「少なくとも、今日のお前にはないものだな」
「お前にもないだろう。被害者面で隣に並んでいたんだからな」
言い合いながら、二人はそれぞれの天幕の前で別れた。
夕暮れの宿営地に、炊き出しの煙が立ち上り始めていた。あの森で見てきたものを卓に載せる軍議が、この後に控えている。雷の余韻に肩をすくめながらも、アルベルトの頭は既に、その軍議の段取りへと切り替わり始めていた。
すみません、今度は一転、長くなりすぎました。
読みやすい長さに整えるのは難しいですね。。。




