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フォルティニア戦記  作者: 引田コウ
第二章 王太子と山の民

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第42話 崖下の刃④

 戦の終盤、賊の中にもなお幾人か、見せ場を作ろうとする者がいた。

 その中の一人――頭目に次ぐ立場だったのだろう、革鎧をまとった、がっしりした体つきの男がジョスランの正面に立ち塞がった。

 その男の剣も賊にしては腕が立った。ジョスランとの一合、二合のやり取りで、ジョスランの剣がわずかに押し込まれた。


 危ない――と、アルベルトは咄嗟に駆け寄ろうとした。

 だがその必要はなかった。


 革鎧の男の脚に、上から飛んできたカーラの矢が深々と突き立ったのだ。男が呻いて膝を落とした、その一瞬の隙をジョスランの剣は逃さなかった。男は肩から斬り下ろされて、地に伏した。


 アルベルトは岩棚の上のカーラを見上げた。月明かりのシルエットの中で、彼女は次の矢をすでに番え、戦場の別の場所を見据えていた。

 その横顔はいつもの仏頂面ではなかった。戦場のすべてを呑み込んで、その上で次に何をすべきかを的確に判じている、戦人の顔だった。


 あの娘は本物だ。


 アルベルトは心の底からそう思った。年若い娘の身でありながら、戦場のあれだけの広さを、矢の射程と判断とで一人で覆っている。村に戻ったらシリルとジョスランに、改めて礼を言わねばならない。妹を貸してくれたことに対して、ではない。一人の戦人をこちらの戦に参じさせてくれたことに対して。


 戦はほどなく、決着がついた。

 頭目を失い、革鎧の男も倒れ、賊どもの中にはついに武器を捨てて両手を挙げる者が現れた。何人かは小屋の裏手の岩陰へと逃げ込もうとしたが、それはすでにジョスランが事前に塞いでおいた退路だった。彼らはそこで本隊のもう一組に取り押さえられた。


 幾人かはなお抵抗を続け、結局は斬られた。それは彼らの自業自得というしかなかった。罪のない村人を斬ってきた手で、いま自分も斬られる。それはある種の必然だった。


 戦の音が徐々に止んでいった。

 残されたのは深い夜の静寂と、地面に倒れた賊たちの体と、それから肩で息をする山の民たちの姿だった。風が松の枝を撫でて通り、その先で梟が一度だけ低く鳴いた。戦の音に押し殺されていた夜の生き物たちが、ようやく息を吹き返したような瞬間だった。山の夜が戦の終わりを受け取って、自分の本来の静けさをゆっくりと取り戻していく。その静けさの中で、人の息遣いだけがまだ少し荒く残っていた。


   *


 アルベルトは本隊の方へ歩み寄りながら、味方の様子を素早く確認した。

 最も気がかりだったのは、味方の損害だった。

 幸いと言うべきだろう、誰一人として、地に伏したまま動かぬ者はいなかった。山の民の戦い方の確かさが、ここでも証明されていた。


 ただし、無傷というわけではなかった。

 本隊の男の一人は腕に深い斬り傷を負い、別の一人に肩を借りて立っていた。もう一人は頬から顎にかけて、賊の刃で切られた跡があり、口の中が血で滲んでいた。さらに別の一人は、太腿の脇に刺し傷らしき出血があった。腕を斬られた男の傷が一番深く、止血の布越しに、なお滲んでくる血の色が黒く見えた。

 仲間に肩を借りているその男の顔には脂汗が浮かんでいたが、それでも歯を食いしばってこちらを見返し、無言で頷いてみせた。生きている、という合図だった。


 四、五人が何らかの傷を負っていた。

 だが、誰もが立っていた。死者はいなかった。

 山の民たちはそれぞれ自分の傷の手当てを始めたり、仲間の傷を確かめ合ったりしていた。「無事か」「ああ、これくらいなら大丈夫だ」――そういう短いやり取りが、あちこちで交わされていた。


 それは戦の後の、戦人たちの慣れたやり取りだった。今夜が初陣ではないのだ、と一目でわかった。彼らはこうして山賊や悪徳商人と、何度も命のやり取りをしてきたのだろう。だからこそ戦の後の傷の確かめ方にも、無駄がない。腰の革袋から塗り薬の壺を取り出す手の慣れ方、布を裂いて止血に巻きつける手際――どれもが、何度も繰り返してきた者の動きだった。


 塗り薬は山の薬草を煮詰めて練ったものらしく、独特の青臭い匂いが夜気の中にうっすらと広がった。村の老婆が冬の終わりに山に分け入って摘んでくる草を、こうして男たちの命綱に変えてきた長い積み重ねが、その匂いの中には籠もっていた。


「エルマー」


 ジョスランが戦場の中央から、こちらに歩いてきた。

 ジョスランの頬にも薄く血が滲んでいた。賊の刃が掠ったのだろう。だが彼の動きには傷を気にする様子はまったくなかった。


「お前も、無事か」

「ああ。脇腹を一寸ばかり、頭目に掠められた程度だ」

「見せろ」


 ジョスランは慣れた手つきでアルベルトの脇腹の傷を確かめると、ふっと笑った。


「ああ、これは綺麗な掠り傷だ。塗り薬を塗っておけば、明日には乾く」

「それより本隊の方は?」

「四、五人、傷を負った。だが誰一人として、死んだ者はいない。賊を皆殺しにする必要もなかったし、こちらは目論見通りの戦だった」


 ジョスランの声にはわずかな安堵が滲んでいた。

 戦の指揮を執る者にとって、味方の損害は何よりも重い。死者が一人も出なかったというのは、ジョスランにとっておそらく最大の戦果だっただろう。

 村の男たちは戦人であると同時に、誰かの夫であり、父であり、息子だ。一人欠ければ、村の灯が一つ消える。それを誰よりも知っているのが、副首領という立場の重さなのだ。一人を失った報せを村の家の戸口で告げる役は、いつも副首領の仕事になる。ジョスランの目元に時折よぎる影は、そうした夜を何度も潜ってきた者の影だった。


「カーラは?」


 アルベルトの問いに、ジョスランは岩棚の上を指さした。


「上だ。あいつは誰よりも安全な場所にいたよ」


 見上げると、確かにカーラが矢を番えたまま、岩棚の上から戦の終わった場面を見下ろしていた。

 目が合うと、カーラは小さく頷いた。それからゆっくりと弓を下ろし、岩棚を巧みに伝って降りてきた。


 岩を伝う時の足の置き方の確かさは、戦の最中の判断と同じく、迷いがなかった。彼女にとってあの岩棚は、自分の家の梁を渡るのと変わらぬ場所なのだろう。

 地面に降り立った彼女は相変わらずの仏頂面だったが、その目元にはこれまで見たことのないような、戦の後の独特の張り詰めた色があった。誰かを射た者の顔だった。


「カーラ」


 アルベルトが声をかけた。


「いい仕事だった。お前の矢がなかったら、本隊の何人かはもっと深い傷を負っていただろう」


 カーラは無言でわずかに目を伏せた。

 褒められて照れたわけではない、と直感した。彼女はいま、自分が射た者たちのことをまだ思っているのだ。


 戦の後に自分の射た者を思い返す――それは戦に慣れた者でさえ、避けては通れぬ感情だった。それを覚えているうちは、まだ人として真っ当な側にいる証だ、と軍時代の老兵が言っていたのを思い出した。

 慣れすぎて何も感じなくなった者から、戦は人を壊していくのだ、と。あの老兵の皺だらけの顔と、煙草の匂いとを、いま久しぶりに思い出した。

 彼ならきっと、今夜のカーラの横顔を見て、無言で頷いただろう。

 アルベルトはそれ以上は何も言わなかった。ただ彼女の隣で無言で立っていることだけが、いま自分にできる慰めだった。


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