第40話 崖下の刃②
その瞬間はすぐに訪れた。
遠くの闇の中から唐突に複数の足音と岩を打つ叫び声が、ふもとの夜気を引き裂いた。
ジョスランの本隊が正面の入り口に押し寄せたのだ。
小屋の中から、ばたばたと混乱した足音と怒声が立ちのぼった。寝床にいた賊どもが、いきなりの襲撃に飛び起き、武器を掴んで外に出ようとしている――その音だった。誰かが「火だ」と叫び、別の誰かが「人だ」と返している。指揮の声ではなかった。それぞれが己の見たものを叫んでいるだけだった。
次の瞬間。
ヒュッ、という風を切る音が一度、夜気を貫いた。
岩棚の上から放たれたカーラの矢だった。
闇の中、隠れ見張りの灌木の方から、押し殺したような呻き声と、地に物が崩れ落ちる音がわずかに聞こえた。それきりその方角からは何の音もしなかった。
完璧だ。
アルベルトは内心で唸った。
あの距離、あの暗闇、あの一矢で隠れ見張りを正確に仕留めたのだ。村で一番夜目が利く、というジョスランの言葉は決して誇張ではなかった。むしろ控えめな言い方だったのかもしれない。あれだけの腕を村の自慢として喧伝しないあたりに、この山の民の流儀のようなものを感じた。腕の立つ者の腕を村の外には知らせず、内輪の宝としてそっと抱えておく――そういう慎みが彼らの戦の強さの一翼を担っているのだろう。
小屋の入り口の方では、本隊と賊どもがぶつかる音が本格的に響き始めた。剣と剣のぶつかる金属音、男たちの怒号、そして誰かの悲鳴。戦はもう始まっている。
「行くぞ」
ヴェルナーが低く言った。
アルベルトは無言で頷き、屋根の縁から小屋の入り口とは反対側――頭目がいるはずの奥の部屋の窓の方へ、岩棚を伝って移動した。ヴェルナーともう一人の山の民が左右を固めるように、共に動いた。
窓の隙間から内部を覗き込む。
部屋の中央に囲炉裏のような火床があり、その向こうに痩せた男が一人、立ち上がっているところだった。鎧こそ着けていないが、その手にはすでに剣があり、目はぎらりと光っていた。左目の上に走る古い刀傷――間違いない、頭目だった。
頭目の周りにはすでに二、三人の手下が集まっていた。寝起きの中、頭を守るために寄り集まったのだろう。窓の外への警戒はまだしていない。彼らの注意は入り口の方の戦闘音にすべて向いていた。彼らの頭の中では、敵は戸口から来るものと決まっていた。背後の崖から人が舞い降りてくるという可能性を、彼らはまだ思いついていない。
好機だった。
アルベルトは窓の側に手をかけ、低く言った。
「行く」
ヴェルナーが頷いた。
次の瞬間、アルベルトは窓の桟を蹴破り、身を踊らせるようにして内部に飛び込んでいた。
*
頭目の手下たちが突然の闖入者に一瞬、棒立ちになった。
その一瞬を、アルベルトは見逃さなかった。
最も手前にいた手下の一人――斧を握って立っていた毛むくじゃらの男――の喉元を、抜き放った剣の切っ先で一気に貫いた。男はがぼり、と血を吐いて崩れ落ちた。それが今夜、アルベルトが初めて声を立てさせた死体だった。倒れた男の斧が床を打ち、鈍い金属音が部屋の壁に短く跳ね返った。その音で残る手下たちが我に返り、ようやくこちらの存在を頭の中で位置づけ始めた――そんな顔つきだった。
残る手下二人がようやく動きを取り戻した。一人は手前の卓を蹴って、剣で斬りかかってくる。もう一人は頭目の方に身を寄せ、その盾になろうと構えた。
アルベルトは斬りかかってきた男の剣を、自らの剣の腹で受け流し、相手の体勢が崩れたところを肩から脇腹へと深く斬り下ろした。男は短く呻いて倒れた。その血飛沫が火床の上を横切り、燃えていた薪に当たって、ジュッと小さな音を立てた。その音が、なぜか妙に耳に残った。命が燃えに触れて消える――そんな短い隠喩のように、火床の中で血の粒が一瞬だけ赤い光を返した。
その間に、ヴェルナーともう一人の山の民が窓から飛び込んできた。
部屋の中はたちまち修羅場と化した。火床の上の鍋がひっくり返り、火の粉が散った。卓の上に置かれていたいくつかの皿が床に落ちて割れた。狭い小屋の中で、四人の戦人と頭目とその盾になっている手下とが、剣戟の音を立て始めた。湿った夜気と、こぼれた汁物の匂いと、血の匂いが部屋いっぱいに混ざり合って、いっそ目眩がしそうなほどだった。
床に転がった鍋からは、まだ湯気が立ちのぼっている。賊たちが寝る前に温めていた汁物なのだろう。誰も二度と口にすることのない夜食が、こうして床の上で冷めていく。
ヴェルナーは頭目の盾になっている手下に、迷いなく斬りかかった。短いやり取りの後、その男もヴェルナーの確かな一閃で、肩から大きく斬られて倒れた。
頭目だけが残った。
刀傷の左目をぎらつかせながら、頭目は剣を構え直し、退路を探るように後ろへ二、三歩下がった。だがその背中はもう小屋の奥の壁に近い。逃げ場はない。
「お前ら……何者だ」
頭目が低い、しわがれた声で言った。
「お前らの巣を潰しに来た者だ」
アルベルトは短く答えた。
「正規軍じゃねえな。ふもとの騎士団でもそんな腕は持っていない」
頭目の口ぶりには、自分が斃される側に回ったという焦りよりも、相手の素性を品定めしているような、奇妙な落ち着きがあった。アルベルトの背筋を、初めて冷たいものが走った。
この男はただの賊の頭ではない。剣の構えにも、目の動きにも、追い詰められた獣の必死さがない。むしろ、自分がこういう場面に置かれることを、どこかで予期していたかのような――そんな含みすら感じられた。
「お前の身を案じて聞くべきは、こちらの素性ではない。お前自身の最期の用意だろう」
頭目は唇を歪めた。それは怒りの表情だったのか、観念のそれだったのか、よくはわからなかった。
「……上等だ」
頭目はぐっと剣を握り直し、自ら踏み込んできた。




