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フォルティニア戦記  作者: 引田コウ
第二章 王太子と山の民

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第39話 崖下の刃①

かなり間が空いてしまいすみません。

下記溜めたものを投稿していきます。

 アルベルトの足が岩棚の縁を踏んだ瞬間、世界は冷たい風と縄の感触に満ちた。

 左手で岩肌に手をかけ、右手で縄を握り、体を縁の外へと滑り出す。一瞬、足元の地面が消えた感覚があり、次の瞬間には、自分の体重がすべて縄一本に預けられていた。


 指先で握る縄の繊維の手触りが妙に細かく感じられ、頬を撫でていく夜気の冷たさが、軍にいたころに何度か身を晒した冬の演習場の朝の空気をふいに思い出させた。あのときも縄の手触りはこんなふうに乾いていて、夜気はこんなふうに頬を引き締めていた。

 違うのはただ一つ、あのときの縄の先には演習用の藁人形が立ち、今夜の縄の先には本物の見張りと頭目が立っているという、その一点だった。


 頭の中で、軍で叩き込まれた崖下りの順序が勝手に動き出した。両膝を軽く開いて岩壁を蹴り、体を浮かせる。重力に任せながらも、決して落ちる速さに身を委ねぬよう、足の裏で岩を撫でるように制御する。それを息を吐く間隔と合わせる。

 岩壁を蹴る一回ごとに小さく息を吐き、宙に浮く一瞬で吸い直す。その繰り返しが、体に染みついた古い拍子のように、自然と戻ってきていた。


 軍の教官はこう教えていた。「崖下りで死ぬ者の九割は急ぎすぎて足を滑らせる」と。

 残りの一割は逆に怖がりすぎて縄の上で動けなくなり、いつまでも宙に晒されて狙撃の的になる――そうも教わった。

 要するに、急いでも止まっても死ぬのだ。生き延びる道は、その間にしかない。教官は何度もそう言って、若い兵士たちの背中を叩いていた。あの叩き方の固さまで、いま掌の感触として蘇ってくる。


 アルベルトはその教えに忠実だった。急がず、しかし停まらず、岩肌を二度、三度と蹴って下りていく。

 蹴るたびに小石が爪先から零れ落ち、闇の中へ吸い込まれて消えた。落ちた音は遠すぎて耳には届かない。それくらいの高さを、いま自分は降りているということだった。

 下を見すぎてもいけない、と教官の声が頭の奥で響いた。視線は岩肌の手前、ちょうど自分の踏みつける先の一点に置く。それが正しいのだ。


 すぐ上から、ヴェルナーが続いた。さらにその後ろから、もう一人の山の民が無言で同じ縄を伝って降りてくる。三人の重みがかかる縄が、岩棚の松の根元でぴしりと小さく鳴っていた。

 岩棚の上ではジョスランの叔父にあたる老兵が縄の根元を押さえている。あの男の年季の入った両腕なら、三人ぶんの命を預けても揺るがぬはずだった。


 老兵が縄の押さえ役を申し出たとき、ジョスランは一度だけ無言で頷いた。村の中の役割は、言葉に出さずとも誰の腕がそれに最も向くかが互いに分かっている――そういう信頼が、あの一瞬の頷きの中にはあった。


 眼下で、賊の小屋の灯りが急激に大きくなった。屋根の苔の細部が、闇の中に浮かび上がる。煙突から立ちのぼる煙の細い筋。そして屋根の縁に立つ二人の見張りの影。

 二人とも、まだこちらに気付いていない。


 無理もない。背後の断崖が自分たちの寝床を最も安全に守る壁だと、彼らは信じきっている。その壁の上から人間が三人、無音で降りてくるなど想像の外にあるのだ。

 賊にとっての城壁は、攻め手にとっての落とし穴になる。それが今夜、この崖の意味だった。安全だと思い込んでいる場所こそが、最も無防備な場所になる――軍議の卓の上で何度も口にされてきたその理屈を、いまアルベルトは自分の体で証明しに行こうとしていた。


 アルベルトの足が、屋根の上の岩棚に静かに着地した。革靴の底が岩を擦る音すら、立たなかった。崖下りの最後の一蹴りで体を岩棚の中央に寄せ、そのまま膝のばねで衝撃を吸う。

 その所作も、軍の昔とった杵柄だった。膝の角度、踵の置き方、上体の傾き――どれもが体の方が先に覚えていて、頭はその後を追いかけているだけだった。

 すぐ後ろにヴェルナーが、そのまた後ろにもう一人の山の民が降り立った。三人とも、息ひとつ乱していない。


 一人目の見張りまで、五歩。

 アルベルトは剣を抜くこともなく、軽く膝を屈めた。腰の短剣を左手に抜く。鞘から抜ける際の僅かな金属の擦れすら、革で抑えた鞘の作りが消してくれた。村の鍛冶屋が今夜のために手直ししてくれたのだという――その律儀さに、いまさらながら感謝した。

 鍛冶屋の老人は、出立の前に黙って鞘の口に新しい革を貼り直してくれていた。礼を言うと、ただ「無事に帰ってきてくれや」とだけ言って、目を逸らした。あの口数の少なさが、いま掌の中の静けさになっている。

 ヴェルナーが無言で右へ回り込んだ。もう一人の山の民が岩陰に身を伏せて、隠れ見張りの方角を窺った。

 三人の役割はすでに合流地点で詰めてあった。説明の必要はなかった。


 アルベルトは最初の見張りに、影のように近づいた。

 屋根の縁に腰を下ろしていた見張りは、欠伸を一つ漏らし、夜空を見上げていた。雲の合間に覗いた半月を眺めていたのかもしれない。最期に見た景色がそれだったとすれば、せめてもの慈悲だった。

 男の背中には粗く編まれた毛織りの上衣がかかり、その肩のあたりが眠気でわずかに上下している。深夜のいちばん長い退屈の時間に、たまたま当たってしまった見張り――そう思うと、ふと哀れにも見えた。

 だが、その同じ手が罪のない村人を斬ってきたのだ。哀れみは、いま心の奥のごく狭い場所にだけ置いておく。


 左手の短剣が、その男の首筋に無音で滑り込んだ。

 一瞬、見張りの体がびくりと跳ねた。だが声は一つも漏れなかった。短剣は喉の動脈を正確に断ち、声を出すための器官をも同時に断った。

 アルベルトが背後から男の口を右手で塞ぐと、男はそのまま音もなく、こちらにもたれかかってきた。

 その重みをアルベルトは丁寧に支え、岩棚の上にゆっくりと横たえた。流れ出した血が岩の窪みに溜まり、それ以上は広がらなかった。

 窪みの底のかすかな苔の匂いと、血の鉄錆びた匂いとが混じり合って、束の間、鼻腔に張りついた。横たえた男の手のひらは、まだ温かかった。生きていた者が、ほんの十呼吸の間に物に変わる――その境目を、自分の掌は今夜も一つ刻んだのだった。


 戦の音はまだ立てない。

 目を上げると、向こう側の岩陰では、ヴェルナーがもう一人の見張りを同じく無音で斬り伏せていた。

 彼の動きは、まるで一連の踊りの所作のように滑らかで、無駄がなかった。山の獣を狩ってきた者の手際だった。獣の喉を一突きで仕留め、声を上げる暇すら与えない――その流儀を、彼はそのまま人にも適用しているのだ。獣も人も、命の終わらせ方の作法は一つだ、と言わんばかりの落ち着きが、彼の所作にはあった。


 二人の見張りが無音で消えた。

 アルベルトは、もう一人の山の民の方を見た。彼は岩陰から二本の指を立てて、「隠れ見張りは未だ動かず」の合図を送ってきた。あれはカーラの担当だ。

 本隊の襲撃と同時に、彼女の矢が放たれることになる。


 三人は互いに無言の頷きを交わし、屋根の縁に身を伏せた。

 あとは、本隊が正面から攻めかかる瞬間を待つだけ。

 待つ時間というのは、戦のどの場面より重い。剣を交えている時の鼓動はむしろ澄んでいて、頭の中はかえって静かだった。だが待っている時の鼓動は耳の奥に響き、自分の呼吸の音までもが大きすぎるように感じられる。アルベルトは目を細めて、月明かりの届かぬふもとの闇を見下ろした。

 ジョスランの本隊は、もう松林の縁まで詰めているはずだった。


 松林の縁から賊の小屋までは、走って二十数えるほどの距離だろうか。本隊の足音が小屋の戸口に届くまで、その短い秒数の中に、賊たちは寝床から飛び起き、武器を掴み、戸口へと殺到する。

 その混乱の出鼻に、こちらは奥の部屋から頭目に襲いかかる。すべての段取りはこの数十秒の中で噛み合わなければならない。一つ歯車がずれれば、頭目に窓から逃げる暇を与えてしまう。

 屋根の苔の下に伏せたまま、アルベルトは指先で短剣の柄を握り直した。掌に滲んだ汗を、革の表面が静かに吸っていく。

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