第38話 山の狩人④
すみません、間が空いてしまいました。
そして今回は少し長めになってしまいました。
アルベルトの組はベルントの組から離れて、断崖の上へと回り込む道に分け入った。
別れ際、カーラがふいに足を止めてアルベルトの方を振り返った。
「エルマー」
「ん?」
「ちゃんと戻ってこい」
仏頂面のままだったが、その声には別れ際の挨拶以上の重みがあった。
「お前が戻ってこなかったら、兄貴がしばらく辛気くさい顔になる。それは見たくない」
「覚えておこう」
アルベルトは思わず小さく笑った。あの気の強い少女が自分なりの不器用な仕方で、こちらを送り出してくれている。それを受け取り損ねるほどには自分は鈍くなかった。
「カーラ、お前こそ気をつけろよ。上で危ない目に遭いそうになったら迷わず引け」
「私の心配はいらない。引くべきときは引く。射るべきときは射る。それだけだ」
短い返事には揺るぎない自負が込められていた。アルベルトはそれ以上は言わずに、ただ軽く頷いて、再びヴェルナーたちの後を追って岩陰に分け入った。
すれ違いざま、カーラの肩が、ほんの一瞬だけ自分の腕に触れた。それは偶然なのか、あるいは彼女なりのささやかな送り出しなのかわからなかった。だが、不思議と心強さが胸の内に灯った。
道は険しかった。
岩を縫う細い踏み跡、というだけでも生易しい表現で、半分は猟師の獣道、もう半分は岩壁を爪先と指の力で這うようなところだった。月光がほとんど届かぬ岩陰では、自分の手のひらすら見えぬ闇の中、ただ岩肌の凹凸を指先で確かめながら進むしかなかった。
ある場所では片足を置く岩の出っ張りが、せいぜい握り拳の半分ほどの大きさしかなかった。そこに体重を預け、もう片方の足を次の岩へ移すまでの一瞬、人ひとりの命がその僅かな突起の上に乗っていた。少しでも体の重心を読み損ねれば、そのまま暗闇の崖下まで真っ逆さまだった。
別の場所では、頭上に張り出した岩を身を屈めて潜り抜けねばならなかった。背中の革袋と剣の柄が岩に擦れぬよう、肩を斜めにし、息を細くする。岩の表面はじっとりと湿っており、その下を通るときには滴り落ちる水滴の冷たさが首筋を伝った。
軍で鍛えた斥候の体捌きが、こうした険路でこそ本領を発揮した。が、それでもなお、山の民の動きには及ばなかった。彼らは目で見るのではなく、肌で岩肌を読んでいる――そう思える動きだった。手のひらが岩に触れる前から、次の岩がどこにあるかをすでに知っているような、滑らかさだった。
案内役の二人の山の民はいずれも無言で、しかし確かな足取りで進んだ。一人は中肉中背の目元の鋭い男だった。ヴェルナーと名乗っていた。もう一人は背の低い、しかし筋肉の引き締まった男で、こちらは名を聞き損ねた。
二人とも口を開かなかった。だが要所要所で振り返って、アルベルトに無言で手の合図を送った。「ここで足を置く岩はこれだ」「ここでは上の枝を握れ」と、まるで言葉のいらぬ会話だった。
アルベルトはその合図を一つ一つ正確に拾い、彼らの後に続いた。軍で身につけた斥候の動きが、ここでようやく本領を発揮した。並の歩兵ならば十歩進むうちに何度も足を滑らせ、転落していただろう。
時おり視界の下に、山賊の根城の灯りらしきものが、ぼんやりと見えた。
まだ遠い。だが確かにそこにある。あの小さな灯りの中で、賊どもが今夜の獲物の話か、奪った糧の数え算か何かをしているのだろう。
その灯りを目にするたびに、アルベルトの胸にあの酒場で見た母子の姿が浮かんだ。家を焼かれ、夫を斬られ、煤と涙にまみれた頬で店主から椀を受け取ったあの若い母親。そして、ホルンガルド村の集会場でアルベルトを見上げて「悪い山賊さん、やっつけてくれる?」と言った、あの小さな女の子。
あの灯りの中の連中がその涙のすべての元凶だ。
怒りが、火傷のような熱さでアルベルトの胸の奥を炙った。だがそれを表に出すことはしなかった。怒りは戦の前には毒になる。冷静な研ぎ澄ました氷のような心でなければ、闇夜の山の上では一瞬の判断を誤る。アルベルトはその熱を胸の奥の深いところに静かに沈め、ふたをした。
戦が終わった後にもう一度、その熱を蘇らせればいい。いまはただ手の運びと、足の置き方と、呼吸の整え方だけに心を集中させる。
彼らはまだ知らない。
自分たちの背後の崖の上を、こちらが回り込みつつあることを。これから数刻のうちに自分たちの巣がどうなるかを。
無情なようでもあったが、あの賊どもがふもとの村で焼いた家、奪った糧、斬った人の数を思えば、いまさら情けは無用だった。
不意にヴェルナーが手を挙げた。
立ち止まれ、の合図だった。
アルベルトとは反対側の岩陰に、ヴェルナーは身を伏せた。アルベルトもまた無音でそれに倣った。
しばし闇の中で耳を澄ます。
風の音以外、何の音もない。
数十、間を置いてからヴェルナーが小さく息を吐いて、起き上がった。気のせいだったか、それとも本当に何かの気配があったのか――確かめる術はないが、彼の感覚を信じるしかなかった。
再び三人は無言で進み始めた。
歩きながらアルベルトはふと、自分の置かれた状況の奇妙さを思った。
ほんの一日前まで、自分は東部の館で書類と格闘していた。それが今は山の民の二人を信じて、人の手の届かぬような断崖の上を無言で這い回っている。これから夜の闇に乗じて賊の小屋に降り、剣を振るう。
人の生涯というものは一見、その人の意思で進んでいるように見える。だが本当に大きな転機は、いつもこちらの予想を裏切る形で訪れる。傭兵団の偵察の夜もそうだった。皇女シャーロットとの再会の謁見もそうだった。そして今夜、この崖の上もまた、その例外ではない。
もしかすると人とは自分で歩いているつもりで、実は何か大きな流れの中を、ただ運ばれているだけなのかもしれない。だが、運ばれている先で何を選び、何を捨てるか――そこにこそ生き方の差が出る。少なくともアルベルトはそう信じてきた。
今夜の自分は運ばれてきた先で、戦うことを選んだ。それだけは確かなことだった。
王城の人々がいまの自分の姿を見たら、何と言うだろうか。
タウロ将軍は間違いなく雷を落とすだろう。ヴィクターは底冷えのする声で皮肉を言うだろう。クリスティーナは涙ぐみ、リウヤはおろおろし、義母のアヴェリンは「アルベルト様、どうかご無事で」と心配の言葉を寄越すだろう。
しかし――そのいずれの顔もここからははるかに遠い。
いま隣にいるのは、ヴェルナーともう一人の名も知らぬ山の民だ。これから命を預け合う相手だが、彼らもまた、自分の本当の名や立場を知らない。彼らから見れば自分はただ「エルマー」という名の、剣の腕の立つ騎士にすぎない。
その身分の軽さが、不思議と心地よかった。
王太子という殻を脱いだ、ただ一人の戦人としていまこの夜の山にいる。それが今夜のアルベルトだった。
崖の上り下りがようやくほぼ平坦な岩棚に出るところで、ヴェルナーは再び立ち止まった。
彼が無言で指さした先に、僅かに窪んだ岩の影があった。そこから先はほぼ垂直に切り立った断崖だ。崖の下に賊の小屋がある、ということだった。
ヴェルナーは肩から下ろした麻の縄を、岩陰の太い松の根元にしっかりと結びつけた。もう一人の山の民は、岩の縁から頭だけそっと突き出して下を窺った。
しばらくしてその男はゆっくりと頭を引っ込め、二本の指を立ててアルベルトに示した。
二人。賊の見張りが、二人。
縄を結び終えたヴェルナーはアルベルトに頷いた。本隊の合図を待て、ということだろう。ジョスランたちが正面から攻めかかる、その瞬間に合わせてこちらは縄で滑り降りる。下りた瞬間に、二人の見張りを無音で始末する。
そういう段取りだった。
アルベルトもまた、自分で岩の縁から下を窺ってみた。
崖の下方、ほんの十丈ほど離れた岩棚の上に、賊の小屋の屋根がぼんやりと見えた。屋根の苔の生え具合からして、確かに長らく放置されていた炭焼き小屋を賊どもが補強して使っているのだろう。煙突から細い煙が一筋、夜空に立ちのぼっていた。中で火を焚いているということだ。
屋根の周りに二つの人影。賊の見張りだった。一人は屋根の角の岩棚の縁に腰を下ろし、もう一人は反対側の岩陰に立っていた。距離は思ったよりも近かった。縄で素早く降りれば一拍で背後を取れる位置だ。
アルベルトはヴェルナーの方を見て、無言で頷いた。配置は把握した、という合図だった。ヴェルナーも同じく無言で頷き返した。
あとは本隊の合図を待つだけ。
アルベルトは剣の柄に手を添え、岩陰に身を伏せた。両脇にはヴェルナーと、もう一人の山の民が同じく身を伏せている。三人の呼吸だけが夜の闇の中で、静かに重なっていた。
月が薄い雲の隙間から、わずかに顔を覗かせた。
その仄かな光が岩棚の縁を青白く縁取った。
遥か下方、賊の小屋の灯りがぽつんと夜の闇の中に灯っている。
その灯りの周りに、二人の見張りの輪郭が静かに浮かんでいた。一人は欠伸でもしているのか、肩を一度大きく上下させた。もう一人は退屈そうに片足で小石を蹴っている。いずれもこれから自分たちの寝床に襲い掛かる者がいることなど、夢にも思っていない様子だった。
無防備な背中。
戦の場でこれほど無防備な背中を見せる連中も珍しい。それは山賊どもが長らくこの山で誰にも追われてこなかった、ということの証でもあった。ふもとから討伐軍が来ぬという慢心が、彼らの背中をここまで緩ませている。
その慢心こそが今夜、彼らの命取りになる。
今夜の自分は王太子ではない。だが王太子としての務めの根のところで、いま自分が果たそうとしていることは、確かに繋がっている。民を守るとはこうして自ら泥にまみれ、岩を這い、命を懸けるところから始まるのだ。
城の謁見の間で父である国王に「使者を立てるべきです」と説いたあの自分も、確かに自分だ。だがいまここで岩棚に身を伏せている自分もまた、同じ自分だった。両方を兼ねてこそ、これからの自分があるのだろう。
遠くで何かの音がした。
ごく小さな、しかし確かな人の声のようなものだった。
賊の見張りの一人が何か独り言を呟いたのかもしれない。あるいは、ふと欠伸を漏らしたのかもしれない。それは戦が始まる直前の、最後の日常の音だった。
その音が消えると、夜は再び深い静寂に戻った。
アルベルトはゆっくりと、しかし静かに息を整えた。
タウロ将軍がよく口にしていた言葉が、ふと脳裏をよぎった。
――戦の直前は生まれてから一度も死を見たことのないように、静かに息をしろ。死を意識すればその瞬間に体が固くなる。固まれば勝てる戦も勝てぬ。
あの雷親父の低く嗄れた声が、いまここに届いた気がした。
将軍。あなたが教えてくれたことは、こんな山の中の崖の上でも、ちゃんと役に立っていますよ――胸の内でそう独りごちる。
アルベルトは目を半ば閉じ、何も考えぬまま、ただ静かに次の瞬間を待った。
遠くの闇の奥で、もう何刻も前からその瞬間に向けて、こちらも向こうも、それぞれの夜を生きてきた。
その夜がもうじき交わる。
風がふっと止んだ。
その静寂の向こうから――。
ふいに本隊の方角の闇がわずかに動いた気がした。
ジョスランの本隊が動き出したのだ。
刻が来た。
ヴェルナーがアルベルトの方に小さく頷いた。アルベルトも無言で頷き返した。もう一人の山の民が岩陰の縄を、すでに崖の縁から下ろし始めていた。
月の光の中でその縄が静かに、夜の闇の中へと下りていく。
その縄の先にはまだ無防備な賊の見張りがいる。さらにその奥には、これから討たれるとは夢にも思わぬ頭目と賊どもの巣がある。
アルベルトは最後にもう一度、剣の柄を握り直した。革の柄がいつもの感触で、手のひらに静かに馴染んだ。傭兵団の偵察のときも、ノルバークの花畑を逃げ回ったときも、この同じ柄を握ってきた。今夜もまたその柄が自分の命を支える。
刃が鞘の中で、ぴしりと小さく鳴った。
遠くの闇の方で夜鳥が一度だけ鳴いた。
そしてほとんど間を置かずに、もう一度――同じ鳴き声が夜気を低く震わせた。
二度。合図だった。
ジョスランの本隊が動いた。
行く。
アルベルトの足が最初の一歩を、岩棚の縁へと踏み出した。
夜空に薄い雲が再びかかり、月の光が陰った。地に伸びていた淡い影がふっと消えた。
戦が始まる――暗闇がそれを告げていた。




