第33話 山の民④
下書きのまま投稿できてませんでした・・・
今日は連続で2話投稿します
ふと、集会場の隅に置かれた古い石臼が目に入った。長年の使用で表面がつるつるに磨かれている。雑穀を挽くためのものだろう。そういう一つ一つの道具が、村の暮らしを支えているのだと改めて思う。
また村の家々の屋根の作りを見ると、雪を落としやすいように傾斜がきつくつけられているのがわかった。山中の冬の厳しさがその傾斜の角度に染み込んでいる。これはただ眺めるだけでは見えてこない、暮らしの中で磨かれた知恵だった。
アルベルトは内心で、為政者としての帳面にいくつもの覚え書きを記していた。山の民の暮らしを正しく知らねば、彼らに関わる政も誤る。そういう意味でも、今日のこの一夜は自分にとってかけがえのない学びの場になっていた。
ジョスランが戻ってきたのは、それから半刻ほどしてからのことだった。
彼の表情はどこか緊張を帯びていたが、悪い知らせを携えてきた者の顔ではなかった。集会場のアルベルトの前まで来ると、ジョスランは見張りの二人に「下がっていろ」と短く告げた。見張りたちはいくらか名残惜しそうな顔でアルベルトを一瞥してから、剣を収めて広場の隅へと退いていった。
「話はついた」
ジョスランはアルベルトの隣の腰掛けに、どっかりと腰を下ろした。
「首領が、お前と組むことを認めた。それと――こちらが思っていたよりずっと急ぎの話になった。今夜のうちに、山賊の根城へ向かう」
「今夜のうちに、か」
アルベルトは、わずかに眉を上げた。
「ああ。本来なら夜が明けてから討伐隊を組むつもりだったらしい。だが山賊どもの動きが、ここ数日で活発になっている。次の襲撃の機会を奴らに与えるわけにはいかん。だからすぐに動く――首領はそう判断した」
筋の通った話だった。賊が動けばふもとの村が焼かれる。それを少しでも防ぐためには、こちらの動きも早ければ早いほどよい。
「だがジョスラン。お前は首領にどう話したんだ。よそ者の俺をいきなり信用しろと言われて、それで首領が首を縦に振るとは思えんが」
ジョスランは、ふっと笑った。
「いい質問だな。だが首領は、簡単に首を縦に振った」
「簡単に?」
「ああ。俺がお前の剣の腕のことを話したら、迷いもなく『その者を仲間に加えろ』と言った」
アルベルトはわずかに首をかしげた。
話が思っていたよりもずっとあっさり進んだ気がする。山の民の首領というのは、もっと慎重な判断をする者ではないのだろうか。よそ者をそれも怪しげな身分を名乗る者を、そう簡単に仲間に加えるとは。
その引っ掛かりは、アルベルトの胸の奥に小さなとげのように刺さった。だがそれを口に出すことはしなかった。話が転がるなら転がるに任せるのも一つの手だ。引っ掛かりは引っ掛かりとして、頭の隅にとどめておけばいい。
「首領というのは、なんという方なんだ」
「シリルという」
「シリル」
アルベルトはその名を一度、口の中で繰り返した。
「シリルの言うことは絶対だ。村の者は皆、シリルの言葉に従う。だからお前と組むことに表立って反対する者はもう出ない。安心していい」
「会って礼を言うべきかと思ったが」
アルベルトが言うと、ジョスランは首を横に振った。
「シリルはよそ者には簡単に顔を見せん。それは首領の昔からのやり方だ。今度の討伐にもシリル自身は同行しない。指揮は俺ともう一人、別の偵察隊を率いる村の男が執る。お前は俺たちと組んでくれればいい」
「……わかった」
アルベルトは頷いた。
会えばわかる、と言われた。そしていまその「会う機会」は、ひとまずないと告げられた。だがジョスランの口ぶりから、いつかその時がくれば自然と分かる、という含みは消えていなかった。
多くを語らぬその態度。短い返答の奥には、シリルという男に対するジョスランの深い敬意のようなものが確かに感じられた。
ただ者ではない――と、アルベルトは直感した。わずかな言葉の交わしの中から、シリルという男の輪郭がぼんやりと立ち上がってくる気がした。少なくとも村人たちが言葉なく従うほどの何かを、その男は持っているのだろう。
その人物が姿を見せぬまま、こちらに「組め」と命じた。その判断の早さと迷いのなさは、不気味でもあったが頼もしくもあった。
ともあれいまは目の前のことだ。
「で、エルマー。お前、覚悟はいいか」
ジョスランが改めて問うた。
「俺たちはこれから、夜の山の中を賊の根城まで進む。途中で休む暇はあるかもしれんが、腹を満たすために腰を据える時間はない。山に入ってからお前は何も食ってないんじゃないか?」
言われてみればそうだった。空腹を意識した途端、腹がぐうと鳴った。なかなかよくできた腹だった。緊張の場面では空腹を訴えず、話が一段落した途端に存在を主張してくる。
ジョスランは、ふっと笑った。
「待ってろ」
ジョスランは立ち上がると、村の隅の小屋へと一度向かい、ほどなくして革袋を一つ提げて戻ってきた。袋の中身をアルベルトの目の前で出してみせる。
黒く堅そうな干し肉が数切れ。手のひら大の薄く乾かした堅パン。塩漬けにしたらしい木の実。それと皮の水筒が一つ。
「うちの保存食だ。村で討伐に出るときに皆が背負っていく分。これを道中で食ってくれ。火を焚いて煮炊きする余裕はないが、これで一日や二日は身が保つ」
「ありがたい。代金は」
「いらん」
ジョスランは即座に首を振った。
「組むことになったんだ。糧の世話くらいは貸しでも借りでもないだろう」
その潔さに、アルベルトは内心で深く感謝しながら革袋を受け取った。
ふと顔を上げると、母親が家の戸口から心配そうにこちらを見ているのが見えた。アルベルトと息子と、娘とが、これから危険な仕事に向かうことをすでに察しているのだろう。
ジョスランが振り返ってひとことだけ告げた。
「行ってくる」
「気をつけて行きなさい」
母親はそれだけ言うと戸を閉めた。多くを言わずただ送り出す。それが山の民の女の流儀なのだろう。短い言葉の奥にある祈りの深さをアルベルトは肌で感じた。
戸口に立つカーラの顔をちらりと見たが、彼女はもういつもの仏頂面に戻っていた。だがその肩には自分の弓と矢筒が、しっかりと背負われている。準備はとうにできている、という顔だった。
「エルマー」
ジョスランが低く声をかけた。
「行くぞ」
「ああ」
アルベルトは革袋を肩にかけ、剣の柄に手を添えた。
集会場の灯りの輪の外へ三人は揃って踏み出した。




