第30話 山の民①
今回の話は少し長くなりました。
森のしじまの中で、三人の奇妙な対峙が続いていた。
地に伏した剣の柄を見下ろしたまま、黒髪の男――まだ名も知らぬその男は身じろぎひとつしない。アルベルトもまた、首元に切っ先を突きつけたまま動かなかった。そして頭上の枝の上では毛皮の外套をまとった少女が、ぴくりとも揺るがぬ矢じりをこちらへ向け続けている。
月光だけがその三人を、青白く照らしていた。
動けば矢が放たれる。動かねば男を解放する機会も得られぬ。アルベルトの額に、わずかに汗が滲んだ。だがその汗は焦りのものではなく、むしろ思考に集中するあまりに滲んだものだった。
――どうする。
頭の中でめまぐるしく算段が走る。
頭上の少女の矢の腕は、すでに身をもって思い知らされている。指先一本動かす素振りを見せれば、その瞬間に矢は放たれる。それは間違いない。だが――矢じりを向けるその瞳には、怒りと、そして恐れとが入り混じった光があった。賊の目ではない。むしろ何かを必死に守ろうとする者の目だ。
「兄貴から離れろ」と、少女は叫んだ。
兄貴。つまり目の前の黒髪の男は、彼女の兄なのだ。妹が兄を守ろうとして、必死で弓を引いている。そう思えば、この少女から発せられる殺気の、その奥にある熱の正体がはじめて腑に落ちた。
これはおそらく賊との戦いではない。何か別の――もっと別の事情を抱えた者たちと、こちらは思いがけず鉢合わせをしてしまったのだ。
――まいったな。
アルベルトは内心で苦笑した。森を駆け抜けた花畑のときも、傭兵団の偵察のときも、状況はいつもこちらの予想を裏切る。だがこうして肌に予想外の風が当たるたびに、頭は冴え、心は澄んでいくのだから、これも我が性分の妙というものなのだろう。
ふっと、肩から力を抜いた。
そしてゆっくりと――。
首元に突きつけていた剣の切っ先をわずかに下げる。地面に向かってほんの数寸。
黒髪の男の目がわずかに見開かれた。剣を引かれるとは思っていなかったのだろう。
頭上の少女の矢の弦も、ぴくり、と微かに揺れた。だが矢は放たれなかった。
「……話を、聞いてくれないか」
アルベルトは静かに、しかし、できるだけ穏やかな声で言った。山中の夜気を震わせぬよう抑えた声で。
「俺は山賊じゃない。それはお前たちのほうも同じだと思う。違うか」
黒髪の男は答えなかった。だがその目に浮かんでいた敵意の色が、ほんのわずかだけ薄れたように見えた。
「お前たちが何者かは知らん。だが、山賊なら明かりを灯しているはずだ。明かりもなしに、この暗闇の中をこれだけ正確に動ける――そんな技を、辺鄙な村を襲って糧を奪うような連中が持っているはずもない。お前たちは別の何かのためにこの山に入っている。違うか?」
黒髪の男の喉仏がごくりと動いた。
答える代わりに男はゆっくりと、頭上の少女のほうを見上げた。短い視線のやり取り。それだけで何かの合意が交わされたようだった。
「……カーラ。弓を下ろせ」
低い、しかしよく通る声で男が言った。
「兄貴、でも――」
「いいから下ろせ。この男は、俺たちの敵じゃない」
頭上の少女――カーラと呼ばれた少女はしばし躊躇った。だが、やがてゆっくりと弓の弦を緩め、矢じりを下へと向ける。それでも、その目は油断なくアルベルトを睨み続けていた。妹の弓は下りたが、警戒はまだ解いていない。それはごく当然のことだった。
アルベルトもまた剣をすっと収めた。鞘に納める、その金属の擦れる音が夜の森に小さく響いた。
黒髪の男は、地に落ちた自分の剣を拾い上げ腰の鞘に戻すと、改めてアルベルトに向き直った。月明かりに浮かぶその顔は警戒を残しながらも、先刻のような殺気はもう感じられなかった。
「俺はジョスラン。エーヴィンベルクの山に住む、山の民だ」
男は短くそう名乗った。
「上にいるのは妹のカーラだ。お前は、何者だ?」
来たか――と、アルベルトは内心で身構えた。
ここで本当のことを明かすわけにはいかない。フォルティニア王太子、などと名乗れば状況はかえって複雑になる。山の民にとって王家の人間は遠い存在だ。下手をすれば敵意を向けられるか、あるいは取り入ろうとする者が現れるか、いずれにせよ厄介な話になる。
だがまったくの嘘では、おそらくこの男には見抜かれる。ジョスランの目には戦人独特の鋭さがあった。腰の落とし方、剣の握り方、視線の配り方――あれは人を見るときの目だ。下手な嘘はすぐに見破られるだろう。
だから半分は本当のことを話す。半分は必要な嘘で覆う。
それがアルベルトの即座に立てた方針だった。
「俺はエルマー。フォルティニア王国東部、ベルン男爵に仕える騎士だ」
アルベルトは淀みなくそう名乗った。
ベルン男爵。実在しない名である。男爵といえば爵位の中でも下の格にあたる小領主。さほど広くない領地を治める、ありふれた地方貴族の体である。だが東部にはそうした小領主の家がいくつもあり、その一つひとつの名など、山に暮らす者がいちいち把握しているはずもない。それらしい名を一つこしらえておけばまず疑われることはない。
「主君の命を受けて山賊の動向を探りに、たった一人でこの山に入った。先ほどお前たちに襲われたのは、こちらを山賊と勘違いされたゆえか。お互い人違いだったということになるな」
ジョスランは、しばし無言でアルベルトを見つめた。その鋭い視線が、こちらの言葉のどこかに引っ掛かりがないか探っているのがわかる。
「ベルン男爵、か」
ジョスランはその名を口の中で繰り返した。
「聞かん名だな。だがそれも当然か。俺たちは山に暮らす者だ。ふもとの貴族なら、近場で関わりのある領主の名を二つ三つ知っているくらいでな。少し離れた土地の貴族となればそもそも耳に入ってこん」
なるほど、と内心で思う。山の民の世界は土地の縦の繋がりではなく、近隣の山の村との横の繋がりで成り立っている。遠い領地のさらに細かな貴族の名など、彼らの暮らしには関わりがないのだ。
その「知らない」がアルベルトには好都合だった。下手に「聞いたことがある」と言われて、適当な相槌を打たれるよりもよほど安全に済む。
「だが――」
ジョスランの目が、すっと細まった。
「知らん貴族様が山賊調査に騎士を一人で寄越すというのは、普通に考えれば妙な話だ。騎士を遣わすほどの事案なら騎士団を組んで動くものだろう」
来たか、とアルベルトは内心舌打ちした。
この男、勘がいい。
「事情があってな。騎士団を動かせば相手に気取られる。気取られれば賊は山を移って消える。それでは元も子もない。ゆえにまず一人で偵察に入り、賊の規模と巣の位置を見定める。話はそれからだ。――そういう段取りでここにいる」
苦しい言い訳ではあったが筋は通っている。
ジョスランはしばし黙考した後、ふっと、その口角をわずかに上げた。
「なるほど。お前さんがその『偵察』とやらにずいぶんと適した腕を持っているのは、さっきので嫌というほどわかった」
「お互い様だろう。お前の剣の冴えも、妹君の弓も、辺鄙な山暮らしの腕ではない」
「ふん」
ジョスランは鼻を鳴らした。だがその横顔には、わずかな笑みのようなものが浮かんでいた。お互いの腕を認め合った者同士の、無言の挨拶のようなものだった。
頭上から、ことり、と音がした。
カーラが枝の上からするりと地面へ降り立った。猫のように音を立てない着地。それを見ただけで彼女が普段からこの森の木々を、自分の家のように動き回っているのだとわかる。
近くで見るカーラは思ったよりも若かった。十五、六というところか。日に焼けた肌。気の強そうな切れ長の瞳。その瞳がまっすぐにアルベルトを睨みつけてきた。
「兄貴。そいつのこと、信用していいの」
カーラの声にはまだ警戒が滲んでいた。
「兄貴に剣を突きつけたんだよ。こんな奴…」
「カーラ。お前が先に矢を射た。その上で俺が剣で襲いかかった。エルマー、と言ったか。この男はそれを受けて勝った。それだけのことだ。逆ならばどうだ? 俺たちがその男の首に剣を突きつけていたのではないか」
ジョスランの言葉は淡々としていたが、確かな道理が通っていた。
カーラは唇を噛んだ。反論したいのが見て取れたが、結局、何も言わずに視線を逸らした。納得していないが兄の言葉には逆らわない――そういう少女らしかった。
「で、エルマー。お前さんの目的は山賊の調査だと言ったな」
ジョスランは話を本題に戻した。
「ああ。お前たちは」
「同じだ」
ジョスランはあっさりと言った。
「俺たちも山賊を退治するために、ここに偵察に来ていた」
ほう、とアルベルトは内心で目を見張った。
話が思いがけぬ方向に転がり始めた。山の民が自分たちと同じ目的で山に入っている。これは想像していなかった展開だ。
「お前たち山の民が、なぜ山賊を退治しようとする。連中はふもとの村を襲っているのだろう。お前たちの暮らしには直接の害はないはずだ」
アルベルトの問いに、ジョスランは苦々しげな表情を浮かべた。
「直接の害なら、ある」
「ある?どういうことだ?」
「あの山賊どもがふもとを荒らし続ければ、いずれ討伐軍が山に入ってくる。山の中を騎士団がうろうろと歩き回る。そうなれば俺たち山の民の暮らしはたまったものじゃない。家畜は怯えて乳が出なくなり、畑は踏み荒らされ、罠は折られる。それが一度二度ならまだしも、討伐が長引けば暮らしそのものが立ち行かなくなる」
ジョスランの語り口は淡々としていたが、その奥には抑えた憤りがあった。山の民が辿ってきた歴史の中で、こうした「巻き添え」が、おそらく一度や二度ではなかったのだろう。
ああ、なるほど――と、アルベルトは即座に理解した。
山の民にとってこの山は家であり、田畑であり、すべての糧の源だ。それが討伐軍の足で踏み荒らされ、生活の場が脅かされる。それは彼らにとって山賊の害よりもむしろ深刻な、生死に関わる脅威かもしれない。
しかも、もしも討伐の際に山の民が「不審な者」として誤認されれば。あるいは、賊と通じている疑いをかけられれば。その先に待つのは捕縛か、あるいはそれ以上の処断か。
「だから騎士団が来る前に、自分たちで賊を退治してしまう、ということか」
「そういうことだ」
ジョスランは頷いた。
「あの山賊どもは、はっきり言って俺たち山の民の面汚しでもある。同じ山に住む者として、ああいう連中とひとくくりにされるのは勘弁してほしい」
ジョスランは焚き火の燃えさしを思い起こすような目で続けた。
「俺たち山の民は、確かに平地の人間から見れば異質な暮らしをしている。家畜を飼い、畑を耕し、足りないものは交易で補う。そして時には――ここから先は、お前さんが騎士なら、聞き流してもらいたい話だが――悪徳商人や、欲をかいた貴族の私兵を街道で待ち伏せて懲らしめることもある。商売の理を破った連中から奪われたものを取り返す。それを俺たちは『山の掟』と呼んで長年やってきた」
アルベルトは内心で、おやと思った。
山に住む者たちが街道で商人や貴族の私兵を襲うことがあるとは、町の酒場でも耳にした話だった。ただし酒場の男たちはそれを「山賊」と「山の民」に区別してはおらず、山にいる者はみな「山のもん」だと一括りにしていた。だがその「山のもん」の中に、自分たち山の民と、ふもとを荒らす山賊とは別物だと考えている連中がいる。しかもその流儀には、彼らなりの明確な掟がある。それをこうも淡々と打ち明けてくるとは。
「だがなエルマー。俺たちのそれと、いまふもとで暴れている山賊どもとは根本から違う。俺たちは女子どもには手を出さん。村を焼くようなこともしない。狙うのは悪徳の商人や、貴族の私兵だけだ。それも奪うのは奪われた分まで。余計には決して取らん」
ジョスランの目には、確かな矜持があった。
「だが、ふもとの連中にはそれが理解できん。同じ山から来た者は皆、山賊だと一括りにされる。だからあの山賊どもが暴れれば暴れるほど、俺たち山の民への風当たりも強くなる。それも俺たちが連中を許せん理由の一つだ」
なるほど――と、アルベルトは深く納得した。
山の民には山の民の流儀があり、矜持がある。それをふもとに巣食う卑劣な賊どもと一括りにされるのは、確かに耐え難いことだろう。彼らには彼らの「理」がある。それを尊重するのが、まずは話の入り口というものだった。
アルベルトは、ふむ、と顎に手を当てた。
話の筋は通っていた。山の民にも山の民なりの事情がある。そしてその事情は、こちらの目的と奇妙なほど一致している。
頭の中で、もう一つの算段がすばやく組み上がっていく。
たった一人で山賊の巣を見つけ出すのは、いかにアルベルトとて容易ではない。だが地形に通じた山の民の力を借りられれば、話は大きく変わる。
逆に、山の民にとっても一介の山の暮らししか知らぬ彼らだけで、組織された山賊を相手取るのは骨が折れることだろう。少なくともこちらに一人、確かな剣の腕を持つ者がいれば、彼らの助けになるはずだ。
利害は一致している。
ならば組むのが筋というものだろう。
「……提案がある、ジョスラン」
アルベルトはゆっくりと口を開いた。
「お前たちと俺と目的は同じだ。組まないか? 山賊の調査を共にしよう」
ジョスランはすぐには答えなかった。じっとアルベルトを見つめ、しばしその目の奥を覗き込むようにしてから、ようやく口を開いた。
「悪い話じゃない、と俺は思う。だが俺一人で決められることじゃない。村の者たちと話し合う必要がある」
「村というと、お前たちの住むところか」
「ホルンガルド村。エーヴィンベルクの山中にある、俺たちの暮らす村だ。村には首領がいる。共に動くと決めるのなら、首領の許しが要る」
なるほど――と、アルベルトは頷いた。
山の民の村にも、それなりの秩序があるということだ。ならばその秩序に従うのが筋だろう。
「わかった。お前たちの村まで、案内してくれるか」
「ああ。だがな、エルマー」
ジョスランは、念を押すように言った。
「お前はよそ者だ。村の連中がすぐにお前を信用するとは限らない。場合によってはしばらく見張りをつけることになる。それでもいいか」
「構わん。それがお前たちの流儀なら従おう」
迷わず即答すると、ジョスランは「腹の据わった奴だ」とでも言いたげに、軽く目を細めた。
カーラだけがなおも納得のいかぬ顔で、二人のやり取りを見つめていた。
「兄貴。私はまだそいつのことを信用してない」
カーラがぼそりと言った。
「ああ。お前はそれでいい。だが、いまは利が一致している。それだけの話だ」
ジョスランは妹の頭を、ぽんと一度、軽く叩いた。
「警戒はお前に任せた。よろしく頼む」
カーラは渋々という顔で頷いた。彼女の中での「警戒」とは、おそらくアルベルトから絶えず目を離さない、ということなのだろう。それはそれで構わなかった。
こうして闇夜の森の中での奇妙な対峙は、奇妙な共闘の約束へと姿を変えていった。




