第29話 闇夜の刃⑤
逃げたわけではない。
周囲にはまだ気配がある。息をひそめ、こちらの隙を窺っているのだ。弓と剣の連携で次の機会を狙っている。
アルベルトはすばやく樹の幹に背を預けた。背後を取られぬためだ。これで矢の射線は限られる。剣を半身に構え、それから目で追うことをやめた。代わりに耳を、頬を、肌を目一杯に研ぎ澄ます。風が頬を撫でる方向。遠くの夜鳥の声が止んだ方角。森の空気のわずかな揺らぎ。そのすべてが気配のある場所を語りかけてくる。
左の後方に弓。右の前方の低い位置に剣。
目で見えずともわかった。タウロ将軍の教えは確かに骨身に染みていた。
風が止み森がしんと静まり返った。そのしじまの向こうで、空気がぴくりと揺れる。
――来る。
闇を裂いて刃が奔った。今度こそ見えた。暗闇から迫る銀色の一閃を、アルベルトは正面から受け止めた。二度目の金属音が森に響く。衝撃は一度目より重かった。最初の一合でこちらの技量を量ったのだろう。本気の一撃が来たのだ。
だが今度は受け止めるだけではなかった。
アルベルトは刃と刃が噛み合った衝撃を巧みに利用した。相手の力の流れを読み、そちらへすっと自らの剣を滑らせる。押し止める壁を失った相手の剣は流され、体が前のめりに泳ぐ。その瞬間を逃さずアルベルトは剣をぐんと撥ね上げた。
確かな手応えがあった。暗闇の中で何かが地面に転がる乾いた音がする。黒髪の男の剣がその手を離れて地に落ちたのだ。
間髪を容れずに踏み込み、アルベルトは剣の切っ先を男の首元へ突きつけた。冷たい刃が喉に触れるすれすれの距離でぴたりと止める。
月明かりが二人の姿をぼんやりと照らした。
黒髪の男は漆黒の瞳に、悔しさをありありと湛えていた。だがその目は決してこちらから逸らされない。負けてなお相手を見据える戦人の目だった。
男がゆっくりと後ろへ下がり、その背中が太い木の幹に当たった。これ以上は下がれない。アルベルトは剣を突きつけたまま、その様子を見つめた。森のしじまにふたりの荒い呼吸の音だけが響いている。
間近に見る男の顔は、思っていた以上に若かった。歳のころは自分と変わらないか、せいぜい一つ二つ上か。日に焼けた肌に引き締まった頬。剣士の目をしている。だがその瞳には不思議と賊のような卑しさがなかった。むしろまっすぐな、芯の通った目だ。皮を被ったような目つきではない。よく生きてきた者の目だった。
――こいつ、本当に山賊なのか。
ふと、そんな疑念がよぎった時だった。男の右手がすっと腰のあたりへ動いた。腰に何か隠している。ナイフか。
「――おっと」
アルベルトは低い声で警告した。
「妙な真似はするなよ。俺の剣とお前の腰のナイフとでは長さが違う。相手になるわけがない。だが襲ってくれば、俺はお前を斬り捨てるしかなくなる」
その言葉に男の右手がぴたりと止まった。
説得に応じたか。よかった、とアルベルトが内心で息を吐きかけたその時である。
「兄貴から離れろッ!」
頭上から鋭い少女の声が降ってきた。
アルベルトは剣を突きつけたまま、視線だけを上へ向けた。
頭上の枝に、月明かりにシルエットを浮かび上がらせて、一人の少女が立っていた。毛皮の外套をまとい、肩には矢筒。両手にはきりりと引き絞られた一張りの弓。その矢じりがぴたりとこちらへ向けられている。
――まさか、こいつが。
矢を放っていたのはこの少女だったのか。
アルベルトは内心で唸った。あの暗闇の中で寸分違わず自分を狙ってきた矢が、この少女の放ったものだとは。なんという夜目か。なんという腕前か。毛皮の外套の下に覗く顔は、まだ若い。十五、六といったところだろう。それほどの年頃の少女がこの闇夜に、二度までも自分を討たんと矢を放ったのだ。
舌を巻く。いや、舌を巻いている場合ではなかった。いまもなお矢じりはこちらを狙ったまま、ぴたりとも揺らがない。指先一本動かす素振りを見せれば、その瞬間に矢は放たれる。それは間違いなかった。月光に照らされた少女の目が、獲物を見据える狼のように、爛々とこちらを睨んでいる。
アルベルトは剣を男の首元に突きつけたまま、頭上の少女をじっと見上げた。
森のしじまの中で、三人の奇妙な対峙が始まっていた。動けば矢が放たれる。動かねば男を解放する機会も得られぬ。まさに進退窮まった形だった。アルベルトの額にわずかに汗が滲む。
――まいったな。
まさかこんな山中で、こんな若い男女に出くわすとは。ただの山賊と思って踏み込んだ山だった。だが彼らは明らかにただの山賊ではない。これだけの技を持ち、これほどの覚悟で闇夜を駆ける者たちが、もし賊でないのな、いったい何者なのか。答えは闇の奥にあった。
息詰まる静寂の中、夜風がさらりと葉叢を揺らした。月光だけが冷ややかに三人の対峙を照らし、その静けさがいまだ明けやらぬ長い夜の始まりを告げているかのようだった。
アルベルトはゆっくりと息を吐いた。
ここは一旦剣を引くべきか、それとも攻めて出るべきか。判断のしどころだった。見上げた少女の目の奥には、怒りと恐れの入り混じった光が揺れている。それは賊の目ではなかった。むしろ、何かを必死に守ろうとする者の目。
――やはり、この二人。
ただの賊ではない。
その確信がいま深まった。




