第28話 闇夜の刃④
暗闇の中の移動は思った以上に神経を削った。
一歩踏み出すたびに足元の感触を確かめる。木の根につまずけばそれで終わり。石を蹴ればその音が何里先まで響くかわからない。
慎重に、慎重に。
息を殺し、足音を忍ばせ、岩陰から岩陰へと移っていく。
不思議なことに夜の山では聴覚が研ぎ澄まされた。
昼間の何倍も、音が大きく聞こえる。
自分の衣擦れの音。自分の呼吸の音。それらがやけに耳につく。手の届くところの木の葉にわずかに触れただけで、カサカサ、と音が響き渡るような気がする。
アルベルトはそのたびに、ぴたりと足を止めた。
全身の神経を研ぎ澄ます。賊の灯りを見落とすまい、と。
ふもとへ降りるなら、賊どもは松明を灯すはずだ。山中で灯りなしに移動するのは賊といえど難しい。獣に襲われる。崖から落ちる。ふもとの村人に見つからぬよう明かりは最小限にするだろうが、それでも灯りそのものを灯さぬわけにはいかない。
そのわずかな光を。
見逃すまい、と。
アルベルトは岩棚の、見晴らしのよい場所まで辿り着いた。ここからならいくつかのけものみちが合流する地点を一望できる。
息をひそめ、暗闇に目を凝らす。
風が頬を撫でて過ぎた。
遠くで夜鳥の声が響く。
森のしじまが深く深く押し寄せてくる。
じっと待った。
四半刻、いや、それ以上か。
時の感覚が薄れていく。闇の中での待機とはこういうものだ。心を無にして、ただ五感だけを研ぎ澄ます。雑念はいらぬ。ひたすらに研ぎ澄ます。
そのときだった。
――ヒュッ。
風を切り裂く鋭い音。
頭で考える前に体が動いていた。
全身の筋肉がばね仕掛けのように跳ねた。アルベルトは自分でも信じられないような速さで、身を翻した。岩陰の太い樹の幹の後ろへ転がり込む。
刹那。
ドスッ。
と。
たったいままで自分が立っていた、その場所のすぐ脇の木の幹に一本の矢が深々と突き立っていた。
アルベルトは息を呑んだ。
樹の幹に背をぴたりと預けながら、矢の突き立つ、その震える矢羽を見やる。月明かりにぼんやりと浮かび上がる矢。
――何者だ。
ぞわり、と背筋に汗が流れた。
山賊か。
いや――違う。
山賊なら明かりを灯しているはず。だが、矢が飛んできた方向には灯りなどどこにもない。ただ深い、深い闇が広がっているばかり。
その闇の中から放たれた一本の矢。
しかも――。
矢の突き立った位置を改めて確かめる。
ぞっとした。
たったいまの自分が立っていた位置。それは矢の軌道線上に寸分のずれもなかった。
もし避けていなければ、いま頃あの矢は自分の胸を貫いていただろう。
――殺されるところだった。
冷たい汗が首筋を伝った。
だがそれと同時に、アルベルトの胸の内には奇妙な感嘆が湧いていた。
この暗闇の中。月の光も星の光もまともには届かぬ深い森の奥。その中で寸分の狂いもなく、自分を狙ってきた。
――凄まじい腕だ。
誰だ。何者だ。
頭の中で思考が目まぐるしく巡った。
山賊の見張りか。だが、灯りを灯していないのはおかしい。明かりがなければ賊どもとてこちらの姿は見えぬはず。それを夜目で補える技術と目を持つ者となれば――。
ただの山賊ではない。
もっと別の誰か。
考えを巡らせる暇はなかった。
再び気配が揺れた。
今度は――。
風を切る音、ではない。風を薙ぐ音だった。
斬撃。
アルベルトは反射的に腰の剣を抜いた。
半ばまで抜いたその瞬間、暗闇から銀色の刃が襲いかかった。
月明かりに一瞬煌めく白刃。それがまっすぐに自分の首を狙ってくるのが見えた。
間に合うか、と思った瞬間。
ガキィン――!
甲高い金属音が山中に響き渡る。
アルベルトの剣がその斬撃を正面から受け止めていた。
間一髪。
もうほんの一瞬抜くのが遅ければ、アルベルトの首は宙を舞っていただろう。
手の骨にしびれが走るほどの重い一撃。
ただの剣士ではない。
受け止めたその刹那でアルベルトは悟った。これは相当な使い手だ。長年剣に生きてきた者の振り。素人や半人前のそれではない。
月明かりの下。
鍔迫り合った刃と刃の間で、ふたつの視線がぶつかった。
漆黒の瞳。
戦人の目。
その瞳がわずかに見開かれる。
驚いている、とわかった。自分の一撃が受け止められたことに。それも、こうも確かに受け止められたことに。
お互い初撃で相手の力量を量った。そして――拮抗していると悟った。
その瞬間に戦は別の段階へと移ったのだ。
暗闇から現れたのは一人の男だった。
月明かりにぼんやりと、その輪郭が浮かび上がる。
歳は――自分と変わらないか、少し上か。
漆黒の髪。瞳もまた髪と同じ闇のような漆黒。布の衣の上に毛皮をまとい、腰には剣を収めていたであろう鞘がぶら下がっている。背中には一張りの弓が背負われていた。
――この弓で。
矢を放ったのはこいつか。
そう思った瞬間、はっとした。
弓を背負ったまま剣を抜く。それは可能だ。だが、矢を放ったそのわずかな間でここまで距離を詰めるのは、いくらなんでも早すぎる。
ということは――。
脳裏に警告が鳴った。
――こいつは、一人じゃない!
考えと行動は同時だった。
目の前の男との鍔迫り合い。アルベルトはぐっと力を込め、相手の剣をはじき上げた。同時に後ろへ跳ぶ。
跳びながら頭の片隅では別の思考が走った。
――もう一人。どこから矢を放ってくる。
角度を計算する。先ほど矢が飛んできた方向。あの方角にいまも射手はいるはず。であれば跳ぶ方向はこちらだ。射線上を外せる位置。
その計算が、まさにぎりぎりで間に合った。
刹那。
ドスッ。
と。
いままで自分が立っていたその場所に、二本目の矢が突き立った。
やはり二人組。
しかも片方がここまでの弓の腕。もう片方がこの剣の冴え。
――参った。
アルベルトは内心で舌打ちした。
よくぞ巡り合わせたものだ。今日が自分の命日になるかもしれない。
黒髪の男は剣をはじかれ、わずかに体勢を崩した。だがすぐに立て直し、後ろへ跳ぶ。再び暗闇の中へと姿を消した。
その身のこなしもまた見事だった。
体重の移動、足の運び、刹那の判断。どれを取っても、素人のものではない。長く戦いに身を置いてきた者の技だ。
いったい何者なのか。
山賊なら灯りを持っているはず。明かりもなしにこれほどの腕で自分を襲う二人組。
考えれば考えるほどわからなくなる。
だが――いまは思案している暇はない。次の襲撃が来る。それまでにこちらも対策を立てねば。




