第27話 闇夜の刃③
ふもとから山道を辿る。
はじめのうちはよく整備された道だった。木こりや猟師たちが行き来する、踏み固められた一筋の道。歩きやすく迷う心配もない。
道の脇には伐採の跡があった。新しいもの、古いもの。世代を超えて木こりたちがこつこつとこの山と共に暮らしてきた、その痕跡だった。
時おりすれ違う人影もあった。背中に薪を束ねて担いだ老婆。罠を見回りに行くのだろう、猟師らしき男。アルベルトはにこやかに会釈を返しながらすれ違っていった。彼らに不審に思われてはまずい。あくまで自然に、ふもとから迷い込んだ旅人を装って。
もっとも――道の途中で見かけた人影は、それだけだった。
日が傾くにつれて、すれ違う者はぴたりと絶えた。
誰もが知っているのだ。日が落ちる前にこの山から引き上げねばならぬことを。それが山と共に生きる者の、最低限の知恵だった。
だが、半刻ほど登ったあたりから、山の様相は一変した。
道は急に細くなり、頭上は鬱蒼と生い茂る針葉樹の枝に覆われ始めた。昼間だというのに森の中は薄暗い。風が吹くたびに、木々がざわざわと不気味な音を立てる。鳥の声も心なしか遠くなった。
ここから先は――もはや整備された道ではない。
獣道だった。
細く頼りなく、ときに岩に阻まれ、ときに谷に絶たれ、複雑に入り組んでいる。慣れない者であればものの数歩で迷い込み、二度と出てこられなくなるそういう道。
アルベルトはその獣道を慎重に辿っていった。
頭の中に地図を描きながら進む。どこで道が枝分かれするか。どこに目印になる岩があるか。どこから見晴らしが利くか。それらを一つ一つ頭に刻みつけていく。
幼いころから軍略を学んだ、その経験がここでも生きていた。地形を読む目。それは戦場でも山中でも変わらぬ、為政者の武器である。
歩きながらアルベルトは、頭の中で地図を組み立てていった。
ふもとに降りるけものみち。いくつあるか。それぞれがどの村に繋がっているか。賊が村を襲ったあと、どの道を使ってねぐらへ戻ったか。地面の足跡の向きと深さからそれを読み取っていく。
深い足跡。それは何かを重く持って歩いた者の足跡だ。略奪した戦利品を抱えていたのだろう。
浅い足跡。それは軽快に走った者の足跡。獲物を探しに降りていった足取りだ。
すべてが語っていた。
ここを賊どもが繰り返し使っている、と。
獣道はいくつか枝分かれしていて、それぞれが北へ、南へ、東へと延びている。その先にはふもとの村があるのだろう。アルベルトは頭の中の地図に、それらの分岐を一つ一つ刻みつけていった。
と、ふいに足を止める。遠くで何かが動いたような気がして息をひそめ、その方向を窺った。風に揺れる葉の影か、それとも獣の気配か――そう思って身構えたが、しばし間を置くと、ふたたび森の静寂が戻ってきた。
気のせいだろうか。あるいは本当に誰かがそこにいたのだろうか。
アルベルトは警戒を強めた。この山には自分以外にも人がいる。それが賊なのか、はたまた別の何者かはまだわからない。だがいずれにせよ、ここからは慎重に運ばねばならなかった。
はじめは賊どもだけを相手にすればいいと思っていた。だが、その見立てが甘かったかもしれない。
この山は深い。深い山には深い事情が隠されているもの。よそ者の自分が踏み込めば、それを知らずに踏み抜くことになるやもしれぬ。
慎重に。慎重に。
アルベルトは自らに言い聞かせた。
*
時おり地面に目を凝らすと、そこには確かに人の足跡が残されていた。それも一人や二人のものではない。何人もが繰り返し踏みしめた、はっきりとした痕跡である。獣の足跡などではなく、明らかに人間のそれだった。
――いる。
アルベルトの勘が鋭くそう告げた。ここを賊どもが使っているのは間違いない。
アルベルトは足跡を辿り、その先を目で追った。けものみちは岩陰に消え、さらに奥の闇へと続いている。あの先に賊のねぐらがあるのだろう。
いますぐ踏み込みたい衝動を、アルベルトはぐっと堪えた。
今日の目的は偵察である。賊の規模を見定め、根城の位置を突き止める。それで十分。下手に踏み込んで見つかればすべてが水の泡だ。
あくまで慎重に。あくまで静かに。
アルベルトは足跡を避けるように岩陰を伝い、別のけものみちへと迂回した。山の中を円を描くように回り込む。賊のねぐらを別の角度から確かめるためだった。
いくつかのけものみちが合流する地点があった。広い岩棚になっている。アルベルトはその岩陰に身を潜め、しばし息を整えた。
ここを見張れば、夜に動き出した賊どもがどの道を通ってふもとへ降りていくか。それが見えるはずだ。
あとは――日が落ちるのを待つだけ。
*
待つ間にも時は流れた。
頭上の葉叢を通り抜ける陽の光が、少しずつ傾いていく。森の中の影が長く伸び、空気がひんやりと湿り気を帯び始めた。
アルベルトは岩陰に座り、目を半ば閉じた。
夜の闇に目を馴らすためだ。
灯りは使えない。松明など灯せば一里先から賊に見つかる。月の光、星の光、そして自らの研ぎ澄まされた感覚だけが頼りだった。
ゆえに、いまから目を暗さに慣らしておく必要があった。完全に夜が落ちてから慌てても遅い。昼の明るさに慣れた目は、闇の中ではしばらく何も見えぬのだから。
目を半ば閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
心を静める。雑念を振り払う。山の気配だけに五感を開いていく。
遠くで鳥が鳴く声。
風が木々を揺らすざわめき。
獣が下草を踏みしめる、かすかな音。
すべてがはっきりと聞こえてくる。
軍で鍛えた夜戦の訓練がここでも生きていた。総大将であろうと王太子であろうと、戦場ではただ一人の戦人。アルベルトはそう信じていた。だから人並み以上に自らを鍛えた。剣も、弓も、馬術も、夜戦も。タウロ将軍にしごかれたあの日々が、いまの自分を支えている。
――よく覚えておくのです、殿下。夜の戦場では、目より耳が頼りでござる。目で見ようとすればするほど見えなくなり申す。むしろ目を半ば閉じて、耳を澄ますがよろしい。
あの雷親父のしわがれた声が、いまはっきりと耳に蘇る。
あのときは、その教えの意味がよくわからなかった。だが、いまこうして闇夜の山中でたった一人、敵を待ち受けるこの身となってみれば。あの教えの深さが、骨身に染みる。
「将軍。あなたにしごかれて、よかったよ」
誰もいない闇の中で、アルベルトはぽつりと呟いた。
……どれほどの時が過ぎただろうか。
目を開けたとき。
森の中はすでに、夜の帳に包まれていた。
頭上の葉叢の隙間から見上げれば、満天の星々が瞬いている。月は半月。冴え冴えと青白い光を、地に落としている。
そのわずかな光だけが頼りだった。
だが――。
目はすでに暗闇に馴染んでいた。岩肌の凹凸も、木々の輪郭も、ぼんやりと、しかし確かに見える。
アルベルトはゆっくりと立ち上がった。
刻は来た。
そうしてアルベルトは動き出した。




