第26話 闇夜の刃②
夜遅いですが本日の2話目です。
あれから数日が経った。
その日の昼を少しまわったころ。
誰もが午睡を貪るような、気だるい時刻を見計らって。
アルベルトはするりと館を抜け出した。
先日のお小言などどこへやら。当の本人にはまるで染みていない。罪悪感がないわけではない。ベルク団長たちの心労を思えば胸が痛む。だが――それと引き換えにできるほどに、あの母子の涙は軽くはなかった。
いまや館の警備は二倍に増やされていた。だが、長年の城抜けで磨いた悪戯の腕は伊達ではない。
アルベルトはまず書斎に籠もり、扉に鍵をかけた。中から見れば午睡を貪る王太子の部屋。誰も声をかけにくい空気を作る。
そして窓を開ける。
書斎の窓は館の裏手に面していた。植え込みが生い茂り、警備の視線が抜けにくい死角。あらかじめ目星をつけておいた抜け道だった。
アルベルトは見回りの間隙をすり抜け、植え込みを伝い、塀を乗り越え――気づけば館の外の街道に降り立っていた。
ふう、とひとつ息を吐く。
あとは足早に立ち去るのみ。誰かに見つかる前に。
念のため市民の格好に加えて、今日は漁師の使うような防水の外套も羽織っている。荷物は小さな革袋一つ。中には火打ち石、保存食、そして薬草。山に入る準備である。
無論、剣はいつものありふれた一振りを腰に下げていた。ただし――その鞘の中身はいつものありふれた一振りではない。これだけは譲れぬ。普段使いの愛剣を忍ばせていた。
アルベルトは振り返らず、東へ足を向けた。
遠く霞んで見える青黒い山並み。
エーヴィンベルク山脈。
そのふもとを目指して。
*
昼過ぎから歩き始めて半刻ほど。
アルベルトはようやくエーヴィンベルク山脈のふもとへとたどり着いた。
近くで見ると、その威容はより一層際立つ。空を裂くように聳え立つ青黒い稜線。中腹より上は針のような針葉樹の森に深く覆われている。さらにその上は岩肌が剝き出しになり、頂は夏が近いというのに、わずかに雪を被っているのが見て取れた。
そしてなにより大きい。
南北に果てしなく連なるその山並みは、まるで大地そのものが隆起したかのようだ。眺めるだけで人をちっぽけな存在に思わせる、圧倒的な自然の偉容。
このエーヴィンベルクはただの山脈ではない。フォルティニアとその北に位置するヴァルグランとを分かつ、天然の要塞である。
反対側まで抜けようと思えば、一週間近い時を要する。それもしっかりと準備を整え、大人数の隊伍を組まねば命を落とすことになる。途中のけものみちは複雑に入り組み、山中の獣は人を恐れない。何より、夜の底冷えは春とはいえ容赦がない。
ゆえに好き好んでこの山を越えようとする人間はいない。仕事で入る木こりや猟師たちもせいぜいふもとに近い、なだらかな一帯まで。それより深く山に踏み込もうとする者は、まずいなかった。
そういう人を寄せ付けぬ山。
そこに――山賊どもは巣を構えている。
「……たしかに絶好の隠れ家だな」
アルベルトは独りつぶやいた。
追手を振り切るのも容易い。地の利はすべて向こうにある。下手に軍勢で攻め入っても、山の懐に逃げ込まれればそれで終わり。これでは騎士団も討伐に二の足を踏むのが当然というものだった。
いや――。
追手も容易い。逃走も容易い。それだけではない。
このエーヴィンベルクは、ふもとにいくつもの村や町を抱えている。賊にとって獲物は無尽蔵にあるということ。さらに北の街道、南の街道、ふもとを走る幹線がいくつも走っている。商人の隊商を襲うにも絶好の立地だ。
巧みに立ち回れば賊はねぐらを潰されることなく、いつまでもこの山で暮らしを続けられる。
――そういう賊の見立てができる頭がここの賊にはいる。
アルベルトはそう確信した。
であれば行き当たりばったりに踏み込むのは危険だ。ここの賊どもは頭の切れる連中。下手な視察では一瞬で見抜かれる。慎重の上にも慎重に進まねばならない。
まずは――敵を知ること。
それが戦の基本だ。
いったい賊がどれほどの数で、どこに巣を構え、どの道を使ってふもとへ降りてくるのか。それをしっかりと見定めねば討伐隊を組むこともできない。
ゆえにアルベルトは、たった一人で山に入る道を選んだ。大勢で入れば目立つ。気取られれば賊は巣を引き払い、姿を消す。それではいたちごっこだ。
一人で山に入ることの危険はもちろん承知している。獣にも襲われるかもしれぬ。崖から落ちるかもしれぬ。あるいは賊とはち合わせれば、それで終わりだ。
だが――。
たった一人だからこそできることがある。一人だからこそ見つかりにくく、一人だからこそ機敏に動ける。何より自分の命だけを賭ければよい。誰かを危険に晒さずに済む。
軍を率いる立場の者として。アルベルトにはその信念があった。誰かを戦地に送る者は、まず自らの足でその地を見ねばならぬ。それができぬ者は軍を率いる資格がない。
今日の偵察も同じことだった。
昼過ぎを選んだのにも理由がある。
山賊が活動するのは夜だ。日の暮れた闇夜こそ彼らの戦場である。ゆえにいまの時刻、賊はねぐらで惰眠を貪っているはず。アルベルトが山に踏み込んでも、出くわす心配は少ない。
昼の明るいうちに山の中の道を頭に入れる。山賊が移動するであろうけものみちの見当をつける。そして日が落ちた頃合いに――動き出した賊を見つける。
それがアルベルトの立てた見立てだった。




