第25話 闇夜の刃①
酒場から屋敷へ。
市民の装いのまま、夕日に染まる街道をゆっくりとアルベルトは戻っていった。
胸の内には、ひそかな決意が岩のように固く据わっている。エーヴィンベルクの山賊。彼らをこの手で討つ。あの酒場で見た母子の震える背中が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
拠点である王領の館。その正門をくぐった瞬間。
「殿下ァァァッ!」
大地を揺るがすような怒声が響き渡った。
アルベルトは肩をぴくりとすくめた。
その声の主は、無骨な顔を紅潮させたベルク団長だった。タングレー騎士団を預かる寡黙な堅物のこの男が、これほどの大声を出すところを見るのは初めてだった。それだけ今日のアルベルトの勝手な行動が、彼の堪忍袋を決壊させたということらしい。
「またッ、勝手にッ、お一人でッ、どちらへ行かれておいでだったのですかッ!」
一語一語が雷のように降り注いでくる。
あまりの剣幕に、館の警備兵たちがぎょっとした顔でこちらを振り返った。普段は無口で無骨で、感情を表に出さぬベルク団長のこの豹変ぶり。彼がこれほど激することを、配下の者たちは見たことがなかったのである。
「我ら騎士団は、何のためにここにおるとお思いか! 殿下のお身をお守りするためにおるのです! それを当の殿下が、お一人でふらりとお出かけになっては、騎士団の存在意義そのものが揺らぐではありませんか!」
至極まっとうな理屈である。
なのに団長の必死さがありありと伝わってきて、アルベルトは申し訳ないと思いつつも、なぜか口元に笑みがこぼれそうになった。
慌てて神妙な顔を繕う。ここで笑えば火に油である。
ベルク団長の隣には、ブリュッケ卿とゼンベルク卿が揃って立っていた。ブリュッケ卿は半ば呆れた顔。ゼンベルク卿は神経質そうな細い目をより一層細めて、こちらを見据えている。
「いやあ、すまんすまん。ちょっと近くの町までな。なに、無事に帰ってきたではないか」
「無事に帰ってきたではないか、ではございませんッ!」
ベルク団長の声で館の窓硝子がびりびりと震えた。
なるほど、これはタウロ将軍の雷の系譜だな――と、アルベルトは場違いなことを思った。誠実で忠義に篤い騎士というものは、おしなべてその怒りもまた、大地を割らんばかりに大きくなるものらしい。
「殿下」
今度はブリュッケ卿が口を開いた。豪快なこの男にしては珍しく、深刻な声音だった。
「我ら、殿下のお身を預かる身でございます。万一、御身に何かあれば。それは我ら一同の首が飛ぶどころの話ではありません。どうか、どうか、お一人でのお出かけはお控えくださいませ」
「殿下が御身を厭わぬお方であることは、よく存じております」
続いてゼンベルク卿が慇懃な口調で、しかしはっきりと続けた。
「なれど御身は、御身おひとりのものではございません。フォルティニア王家の未来そのもの。どうかその重みをお忘れなきよう。我ら、もし殿下に万一のことがあれば、王都に何と報告してよいかわかりません」
ブリュッケ卿が半ば泣きそうな顔で付け加えた。
「タウロ将軍からはすでにお達しがございました。『殿下を、くれぐれも目を離すな』と。あの将軍を敵に回すのは、儂とて御免こうむりたいのでございますよ、殿下」
タウロ将軍の名前まで出てきた。
そこまで根回しが行き届いていたか。アルベルトは内心で苦笑した。あの雷親父もなかなか油断のならぬ人物である。離れた宿営地からこうして保護者たちに釘を刺してくる、その手回しの良さ。
三人の揃ってのお小言である。
間違っていることは何一つない。ぐうの音も出ない正論だった。アルベルトは神妙な顔をこしらえて、深く頭を下げた。
「すまん。心配をかけた。以後は慎む」
「本当に、よろしゅうございますな?」
「ああ」
「本当に、本当に、よろしゅうございますな?」
ベルク団長が念を押す。よほど信用がないらしい。
「ああ。だからもう許してくれ」
アルベルトは苦笑して両手を上げた。
もっともその内心には別の思惑が渦巻いていた。
ここで酒場で耳にした山賊の話を持ち出せばどうなるか。間違いなくベルク団長はこう言うだろう。「それは騎士団の務めにございます。殿下がお動きになるお話ではございません」と。そしてブリュッケ卿もゼンベルク卿もそれに同調するに違いない。
いや、それどころか。「殿下は断じて山へなどお入りなされませんよう」と警備の数をさらに増やされ、外出さえもままならなくなるだろう。
それは困る。
山賊どものねぐらを突き止めるには、まずはこちらが動かねばならぬ。だが、その動きを止められては元も子もない。
ゆえに――黙っているのが最善だった。
話すのは賊どもの規模と位置を見定めてから。確かな情報を手にしてから。そのうえで騎士団と組んで、一気に討つ。それがいまのアルベルトの描く絵だった。
申し訳ないとは思った。三人の保護者たちには。だが、いまここで話してしまえば、あの酒場で見た母子のような者がまた一人、また一人と増えていく。それだけはなんとしても避けねばならぬ。
ゆえに――。
ゆえに黙して頭を下げる。
ただその一手のみ。
その夜、晩餐の席はいつにも増して静かだった。ブリュッケ卿の豪快な笑い声も影をひそめ、ゼンベルク卿の穏やかな世間話もなかった。三人の保護者はいまだに釈然としない顔で、アルベルトを横目で見るばかり。
むろんアルベルトは神妙な顔で料理を口に運んでいた。
神妙な顔で。
その胸の内で。
――明日も抜け出すぞ。
と、固く決意しながら。
悪い男だったと、後年語られても仕方のないことだった。
寝室に退いた後も、アルベルトの頭の中では計画が目まぐるしく組み立てられていた。
明日はどう館を抜け出すか。どのけものみちから山に入るか。日が落ちる前にどこまで見て回るか。
考えれば考えるほど、興奮で目が冴える。
寝台に横になりながら天井を見上げる。
ふと、思った。
俺は何のために、こんなことをしているのだろう、と。
守るべき立場の身だ。守られておとなしくしているのが本筋。それはわかっている。
だがそれではあの母子は救われない。あの酒場で温かいスープを震える手で受け取った、母子は。
立場の上でおとなしくしているのが王太子のつとめだと言うなら。アルベルトはそのつとめを選ばなかった。
たとえ誰かに咎められようと。たとえ雷を落とされようと。
救えるものを見過ごすこと。
それだけはできなかった。
それが、アルベルトの流儀だった。




