第23話 市井の声④
登校が遅れました。すみません。
町の一角にあるその酒場は、昼間だというのにそこそこの賑わいを見せていた。
仕事の合間の職人たち。一杯ひっかけに来た商人。旅の途中の行商人。様々な人間が卓を囲み、酒を酌み交わし、思い思いに語り合っている。
アルベルトは自然な足取りで店の中へと入ると、隅の卓に腰を下ろした。
「ご主人、エールを一杯」
「あいよ」
運ばれてきた泡の立つエールを、ちびちびと口に運ぶ。
別に酒が目当てではない。目当ては――この酒場に満ちる人々の声だった。
これも宿営地で、兵たちの本音を探るためによく使った手だった。指揮官の前では兵はけっして本音を語らぬ。だが酒の入った車座の中でなら、ぽろりと不満も不安もこぼれ出す。それと同じことだ。
民の生の声を聞くには。お偉方の前では決して語られぬ本当のところを知るには。こうして市井に紛れ込むのが一番だった。
酒が入れば人の口は軽くなる。普段は口にせぬような本音や噂話が、ぽろぽろとこぼれ落ちてくる。それは町の生きた情報の宝庫だった。お偉方への報告には決して上らぬような市井の生の声。
アルベルトはエールを舐めながら、それとなく周囲の会話に耳を澄ませた。
卓を囲む職人たちは今日の仕事の愚痴をこぼし、商人たちは相場の話に熱を上げている。隅では老人たちが、昔話に花を咲かせていた。どの声にも生活の匂いが染みついている。
アルベルトは二杯目のエールを頼んだ。むろん酔うためではない。長居をするには杯を重ねるのが自然だからだ。一人黙って座っているだけではかえって人目を引いてしまう。
今年の作物の出来の話。誰それの娘が嫁いだ話。新しくできる堤への期待の声。――他愛のない、平和な話ばかりだ。
「いやあ、今年の麦はずいぶんと出来がいいらしいぞ」
「堤ができりゃ来年はもっと安心だ。水の心配をせずに済む」
「殿下様々だな。王都からわざわざお偉い王子様が来てくださったって話じゃねえか」
「ほう、その王子様ってのはどんなお方なんだ」
「さあな。お顔を拝んだ者はおらんがね。なんでも気さくで立派なお方だって、もっぱらの評判さ」
その話に、アルベルトは思わずエールを噴き出しそうになった。当の本人がすぐ隣で市民のふりをして聞いているとは、彼らは夢にも思うまい。
くつくつと込み上げる笑いを、アルベルトは必死に噛み殺した。
それを聞いているだけでもアルベルトの胸は温かくなった。このささやかな日常を守ること。それこそが自分の務めなのだと改めて思う。
と――。
そのときだった。
すぐ近くの卓から。
ひときわ深刻な調子の声が聞こえてきた。
「……それでよ。聞いた話じゃ、またやられたらしいぜ。隣の谷沿いの村が」
「ほんとうか。そりゃ何度目だ」
「もう三度目だとよ。家を焼かれて蓄えも根こそぎ持っていかれたって話だ」
アルベルトのエールを口に運ぶ手が止まった。
穏やかではない話だった。アルベルトは気取られぬよう、さりげなくその卓のほうへと意識を集中させた。
「いったいどこのどいつの仕業なんだ」
「山賊だよ、山賊。エーヴィンベルクの山に巣食ってる連中さ」
「エーヴィンベルク……あの山脈の」
「ああ。あそこを根城にしてやがる。普段は山にこもってるんだが、近頃ふもとまで降りてきやがってな。村を襲っちゃまた山へ逃げ帰る。質が悪いったらありゃしねえ」
「お役人は何をしてるんだ。騎士団は」
「それがあの山は険しくてなあ。下手に追っても地の利は向こうにある。それに、村が辺鄙なところにあるもんだから後回しにされちまってるのさ。お偉方にしてみりゃ辺境の小さな村の一つや二つ……ってな」
「むごい話だぜ、まったく」
「しかしよ、おかしな話だと思わねえか」
「何がだ」
「いや、山の連中が街道で悪さするって話は、昔からちょいちょい聞いてただろう。商人だの貴族の隊列だのが襲われたって」
「ああ、そりゃ聞いた」
「だがよ、いままで襲われたのって、たいてい欲の皮の突っ張った商人だったり、領民から搾り取って苦しめてた貴族の私兵だったりだろう。だから俺たち下々は心の底じゃ『ざまあみろ』くらいに思って気にも留めなかった」
「ああ、あの強欲なライリッヒの隊商が襲われたときは、町じゅうで誰も同情しなかったな」
「そういうことよ。だがな、いまの山賊どもは違う。狙ってるのは、なんの罪もねえ辺鄙な村の女子どもだ。家に火までかけてやがる。これはよ、いままでの山のもんとは根っから違う連中じゃねえか」
「言われてみりゃあ、そうだなあ」
「俺たちはよ、山にいる連中なんてみんなひとくくりに『山賊』だと思ってる。だが、その山賊どもの中で何かが変わっちまったのか、それとも、これまでの連中とはまるで別の手合いが入り込んできたのか――どうにも嫌な感じがするんだよ」
「むう、気味の悪い話だな」
男たちは暗い顔でジョッキを傾けた。
アルベルトはその話を耳の奥に留めた。
市井の者にとって山に住む者など、山の民と山賊の区別もない、ひとくくりの「山のもん」にすぎないのだろう。それは書物では決して得られない、生きた庶民の感覚だった。
しかし、その「山のもん」の中で何かが変わっている。それを町の人間が肌で感じ取っている。これまでなら気にも留めなかった襲撃が、いまは家を焼き、女子どもにまで及んでいる。「これまでとは違う」――その感覚を酒場の男たちは、曖昧ながら確かに掴んでいた。
その肌感覚は、何かしら賊の正体を測るうえでの大事な手がかりになるかもしれない。アルベルトは頭の隅にしっかりとそれを留めた。
「しかしよその山賊ども、ただのはぐれ者の集まりじゃねえらしいぜ」
「どういうこった」
「なんでも、頭が相当な切れ者だって話だ。襲う村も襲う時も、ちゃんと見計らってやがる。騎士団の警備が手薄になる隙を狙ってくるんだとよ。おかげでいまだに尻尾の一本も掴ませねえ」
「へえ……。ただの山賊にしちゃやけに知恵が回るじゃねえか」
「数も馬鹿にならねえって話だ。五十か、いや、百はいるんじゃねえかって噂もある。山の中に砦みてえな根城を構えてるらしいぜ」
「百だと? そりゃもう立派な軍隊じゃねえか」
「だから村の連中も手の出しようがねえのさ。男衆が自警団を組んだところで、とても敵いやしねえ。先だっても立ち向かった若いのが一人、斬られて死んじまったって話だ」
「……やりきれねえなあ」
男たちは暗い顔でジョッキを呷った。
その話にアルベルトは内心で眉を寄せた。
頭が切れ、統率が取れ、数も多い。ただのならず者の寄せ集めではない。これは――しっかりと組織された賊だ。先の傭兵団のことが、ふと脳裏をよぎる。まさかこれも帝国の差し金か――いや、それはさすがに考えすぎだろう。だが、その可能性も頭の片隅に留めておくべきかもしれない。
いずれにせよ放ってはおけぬ相手だった。
ふと、店の入り口のほうに目をやると。
みすぼらしい身なりの母子が、所在なげに隅に座り込んでいた。母親は疲れ果てた顔で幼い子を抱きしめている。その子の頬には、煤のような黒い汚れがこびりついていた。
店主が見かねて、椀に温かいスープをよそって運んでいく。
「ほら、食いな。銭はいらねえよ」
「……すみません。本当に、すみません……」
母親は何度も頭を下げ、震える手でそれを受け取った。
その様子に店の客の一人が声を潜めて言った。
「……谷沿いの村の生き残りだとよ。亭主は山賊に斬られて。家も焼かれて。あの子を連れて命からがら逃げてきたんだとさ」
アルベルトの胸が締めつけられた。
噂話の中の「被害」が、いま目の前に生身の姿となって現れていた。家を奪われ、夫を殺され、それでも幼い子を守るために生きようとする、一人の母。
これが山賊のしわざ。これが見過ごされてきた現実だった。
男たちの会話はやがて、別の話題へと移っていった。
だがアルベルトの耳にはもうその後の話は入ってこなかった。
エールの入った木のジョッキを握る手に、知らず力がこもっていた。




