第22話 市井の声③
「殿下が……またいらっしゃいませんぞ!」
その日も工事現場に、ベルク団長の焦った声が響き渡った。
アルベルトの姿がまた忽然と消えていたのである。
これが初めてではなかった。アルベルトは工事の合間を縫っては、ふらりと姿をくらます。そして決まってこう言うのだ。「治水の進み具合を、周辺の村や町で確かめてくる」と。視察と称して。
最初にそれが起きたとき、ベルク団長の慌てようは尋常ではなかった。
警備すべき王太子が、護衛も付けず忽然と姿を消したのだ。万一、御身に何かあれば。その責めは警備を預かる自分が負うことになる。ベルク団長は青い顔で騎士団を総動員し、町じゅうを捜し回った。
そして夕刻。
けろりとした顔でふらりと戻ってきたアルベルトを見て、ベルク団長は安堵と怒りとで、危うく卒倒しかけた。
「で、殿下ッ! いったいどちらへ……! 我ら生きた心地もいたしませなんだ!」
「ああ、すまんすまん。なに、ちょっと町の様子をな。心配いらん、この通りピンピンしている」
「心配いらん、ではございませんッ!」
そのやり取りはまるで、どこかで見た光景だった。そう――国境の宿営地でタウロ将軍がアルベルトに雷を落としていた、あの光景に。
以来、ベルク団長はアルベルトから片時も目を離すまいと固く決意した。だが、その決意もむなしく。アルベルトはその後もするりするりと、騎士団の目を掻い潜っては姿を消すのだった。
「まったく、殿下にも困ったものだ……」
ブリュッケ卿が額の汗を拭いながら、唸った。
「あれほどお一人で出歩かれては危険だとお止め申し上げているのに」
「お聞き入れにはなりませんな」
ゼンベルク卿も苦々しげに首を振る。
「我らがいくら諫めても『心配いらぬ』の一点張り。気づけばもうお姿が見えぬ。……いやはや、あのお方をお止めできる者などおりますのか」
「おりませんな」
ベルク団長が苦虫を噛み潰したような顔で断言した。
「護衛をお付けしようにも『大げさだ』と撒かれてしまう。我らの手には負えません」
「殿下を館に閉じ込めておくわけにもまいりませんしな」
ゼンベルク卿が半ば本気でぼやいた。
「閉じ込めたところで、窓から抜け出されるのが落ちでしょうな」
ベルク団長が真顔で応じる。冗談のつもりが二人とも妙に現実味を帯びていて、かえって笑えなかった。
「……まったく。我らがこうして気を揉んでおる間にも、殿下はどこぞの町でのんびりエールでも傾けておられるのでしょうな」
ブリュッケ卿のその言葉は、奇しくもほぼ的を射ていた。
三人は揃って深いため息をついた。
もしこの場にタウロ将軍がいたなら。あるいは宰相ヴィクターがいたなら。きっとアルベルトを首根っこを掴んででも引き留めたことだろう。だが、あいにくここは東部の辺境。アルベルトの行動を、力ずくでも抑えられる者は誰一人としていなかった。
――そして、当のアルベルトは。
そのころ、近くの町を悠々と歩いていた。
それも――王太子の装いなどどこにもない。粗末な、けれど動きやすい市民の身なりであった。
頭には地味な布の帽子を被り、上等な髪も外套もすべて隠している。腰の剣も目立たぬありふれた一振りに替えてある。どこからどう見てもただの町をぶらつく、若い旅人だった。
「ふう。やはりこの格好は気楽でいい」
アルベルトは誰にも気づかれぬのをいいことに、伸び伸びと町を散策していた。
市民に変装してのお忍びの視察。これはアルベルトの昔からの「悪癖」だった。
宿営地でも新兵に変装して訓練に紛れ込んだことがある。補給部隊の荷駄に隠れて、検問所を見に行ったこともある。そのたびにタウロ将軍の特大の雷が落ちたものだ。
もし、いまこの姿を将軍に見られたなら。間違いなく宿営地が揺れるほどの雷が落ちる。それは火を見るより明らかだった。
「……まあ、バレなければいいのさ」
アルベルトは悪びれもせず、そう独りごちた。
ふと思う。もしここにグレイがいたなら。
あいつのことだ。きっと文句を言いながらも、結局は自分も同じように、市民のふりをして隣を歩いていただろう。そして二人でこっそりと町の様子を楽しんでいたに違いない。
「……あいつがいないと張り合いがないな」
幼馴染の顔を思い浮かべ、アルベルトは少しだけ笑った。
もっともアルベルトの市民への変装は、我ながら堂に入ったものだった。
歩き方一つ、立ち居振る舞い一つ。王族特有の染みついた気品をいかにして消すか。それにはちょっとしたこつがいる。背をわずかに丸め、視線を低くし、足取りを無造作にする。そうするだけで人はまるで別人に見えるものだ。
幼いころからこっそりと城を抜け出しては市井に紛れていた、その経験がここでも生きていた。乳母にはさんざん叱られたものだが――役に立つこともあるのだから、人生わからないものである。
だが、すぐにその表情を引き締める。
遊びで来ているのではない。これは立派な視察なのだ。
アルベルトは町の様子を、注意深く観察し始めた。
市場にはそれなりに品が並んでいる。人々の表情も暗くはない。子どもたちが路地を駆け回り、笑い声を響かせている。治水工事が始まったことで、人々の間にも安堵が広がっているようだった。
アルベルトは市場の、一軒の果物売りの前で足を止めた。
「おやじ、この林檎を一つもらおうか」
「あいよ、毎度! 兄さん、旅の人かい? 見ない顔だね」
「ああ、ちょっとな。商売は繁盛してるかい」
「おかげさんで、近頃はまあまあだね。堤の工事で人足さんたちがたくさん来てるからよ。物がよく売れるんだ」
気のいい果物売りはそう言って、林檎を一つおまけしてくれた。
アルベルトはその林檎を、しゃくりと齧りながら、満足げに頷いた。甘い。民の暮らしの確かな手応えがその甘さの中にあるようだった。
――悪くない。東部の民はまずまず健やかに暮らしている。
アルベルトはそう見て取った。
とはいえ、すべてが順風満帆というわけでもなかった。
町を歩けば見えてくるものがある。市場の隅で売れ残った品を前に、肩を落とす年老いた農夫。路地裏で痩せた身なりのまま、道行く人に手を差し出す子ども。豊かさの陰には必ず、こぼれ落ちた者たちがいる。
アルベルトはそうした姿をしっかりと目に焼き付けた。きらびやかな報告書には決して載らない、影の部分。だがそれこそが為政者が、目を背けてはならぬものだとアルベルトは信じていた。光だけを見て影を見ぬ統治は、いずれ必ずほころびを生む。
――もっとできることがあるはずだ。
この東部をより豊かに、より安らかな地にするために。アルベルトの為政者としての血が、静かに滾った。
そんな思いを胸に町を歩いていると。
ふと、一軒の小さな古道具屋の店先に、目が留まった。
白髪の老主人が所在なげに店番をしている。客の姿はない。アルベルトは何の気なしに、その店を覗いてみた。
「ご老人、商売はどうだい」
「へえ……。ご覧の通りで。さっぱりですわ」
老人は力なく笑った。
「近頃は皆、財布の紐が固うてな。それに……物騒な噂もあって人の出が少ないんでさ」
「物騒な噂?」
アルベルトの耳がぴくりと動いた。
「ああ、いや。旅のお方にゃ関わりのねえ話でさ。どうかお気になさらず」
老人は言葉を濁し、それ以上は語ろうとしなかった。だがそのどこか怯えたような目に、アルベルトは何かただならぬものを感じ取った。
この平和に見える町のその底に。
何か人々を怯えさせる影が潜んでいる。
アルベルトは店先に並んだ古びた短剣を一つ買い求めると、老人に心づけを多めに握らせた。
「……すまねえ、旅のお方。こんなしがない年寄りに」
「なに、よい品が買えたからな。達者で暮らせよご老人」
その言葉に老人は深々と頭を下げた。
その影の正体をアルベルトが知ることになるのは――このすぐ後のことである。
書類の上の数字だけでは決してわからないこと。人々の生きた表情。町に流れる本物の空気。それを自分の目で、肌で確かめられる。これこそがお忍び視察の何よりの利点だった。
そしてもう一つ。
民の本音を聞ける場所がある。
アルベルトの足は自然とその場所へと向かっていた。
――酒場である。




