第21話 市井の声②
本日2話目です。
こうして治水工事は始まったが、工事は順調に進んだ。
王領を起点にブリュッケ卿のグリューン領、ゼンベルク卿のフロスガルド領がそれぞれ人手と資材を出し合い、協力してことにあたる。
はじめのうちこそ三者の足並みは揃わなかった。王領、グリューン領、フロスガルド領。それぞれに思惑があり、利害がある。誰がどれだけの負担を負うのか。完成した堤の恩恵を誰がどれだけ受けるのか。そうした細かな調整でしばしば意見がぶつかった。
その調整役を担ったのがアルベルトだった。
「ブリュッケ卿。グリューン領は川の下流にあたる。堤ができれば、最も水害から守られるのは貴領だ。ゆえに人手の負担を、いま少し多めに持ってもらえぬか。その代わり、資材の費えは王領が多めに出そう」
「フロスガルド領は上流の石切り場を持っている。ゼンベルク卿、そこから石を出してもらえれば、運搬の手間が大きく省ける。その分、人手は少なくてよい。どうだ、悪い話ではあるまい」
アルベルトはそれぞれの領の事情を的確に見抜き、誰もが損をしすぎず、得もしすぎぬ絶妙な落としどころを提示してみせた。
その采配は見事なものだった。
軍議で各隊の役割を割り振るのと同じ要領だ。それぞれの持ち場、それぞれの強み。それを見極め、最も効率のよい形に組み上げていく。
あるときこんなことがあった。
工事の途中で予期せぬ水の湧き出しがあったのだ。掘り進めていた地中からこんこんと水が溢れ出し、現場はたちまちぬかるみと化した。職人たちは手をこまねき、ブリュッケ卿もゼンベルク卿も頭を抱えた。このままでは工事が止まってしまう。
「殿下、いかがいたしましょう。これは地下の水の道に当たってしまったようで……」
困り果てたブリュッケ卿の問いに、アルベルトはしばし湧き出す水をじっと見つめた。そして。
「――塞ぐな。逃がせ」
「は?」
「無理に塞げば水はまた別の場所から噴き出す。いたちごっこだ。それよりもこの水の道を新しい堤の排水路として活かすのだ。ここに石組みの水路を通し、川へと導いてやればいい。厄介者を味方につけるのさ」
その発想の転換に一同は目を見張った。
言われてみればその通りだった。湧き出す水を敵と見なすから行き詰まる。だがそれを味方につけてしまえば、むしろ堤の排水を助ける貴重な水路となるのだ。
「な、なるほど……! さすが殿下!」
ブリュッケ卿が、ぽん、と膝を打った。
こうして危機は転じて好機となった。湧き水を活かしたこの排水路は、後にこの堤の最も優れた工夫として、人々に語り継がれることになる。
ブリュッケ卿もゼンベルク卿もはじめは半信半疑だった。年若い王子に何ができる、と。だが、アルベルトの的確な指示と公平な裁定を見るうちに、その目の色は変わっていった。
「いやはや、恐れ入りました、殿下」
ある日、ブリュッケ卿が感嘆して言った。
「失礼ながら、王都育ちの王子様に現場のことがおわかりになるものかと、思うておりました。ですが、とんでもない。殿下の差配、我ら土地の者よりもよほど的を射ておられる」
「買いかぶりだブリュッケ卿。俺はただ、それぞれの話を聞いてまとめているだけさ。実際に汗を流して働いているのはお前たちとその領民だ。手柄はお前たちのものだよ」
アルベルトがそう謙遜すると、ブリュッケ卿はますます感じ入ったように頷いた。
慎重なゼンベルク卿でさえ、いまやアルベルトに対する警戒を解き、その手腕を認めるようになっていた。
アルベルトは領主や騎士とばかり、過ごしていたわけではなかった。
工事の現場では汗を流す職人や人足たちの中にも、進んで入っていった。共に土を運び、石を積み、汗を拭う。王太子が自ら泥にまみれる姿に、はじめ人足たちは恐縮しきりだった。
「殿下、滅相もない! このような汚れ仕事は我らにお任せを!」
「何を言う。皆がこれだけ働いているのだ。俺だけ見ているわけにはいくまい。それに――」
アルベルトは額の汗を拭い、にっと笑った。
「こうして体を動かすのは嫌いじゃない。なに、軍で鍛えているからな。これくらいどうということはない」
その気取らぬ人柄に、人足たちはすっかり心を許していった。やがて彼らはアルベルトを、堅苦しい「殿下」としてではなく、親しみを込めた目で見るようになった。休憩のときには車座になって、共に粗末な握り飯を頬張り、四方山話に花を咲かせる。
そうした何気ないやり取りの中にこそ民の本当の声があった。誰がどんな暮らしをして、何に困っているのか。アルベルトはそれを肌で学んでいった。
書物では決して学べぬこと。それをこの東部の地はアルベルトに教えてくれた。
ひと月も経つころには、新しい堤は見違えるほど立派な姿になっていた。気がつけば丘陵の麦畑は穂の色を日ごとに深め、川面を渡る風にも夏の気配が濃く混じり始めていた。
かつて毎年のように氾濫を繰り返した暴れ川。それをがっしりと抑え込む頑強な石組みの堤。完成までにはまだしばらくかかるが、その威容はすでに周辺の村々に確かな安心をもたらし始めていた。
ブリュッケ卿とゼンベルク卿の領主としての連携も、いまや見事なものだった。はじめのぎこちなさが嘘のようだ。アルベルトという要を得て、水と油と言われた二つの領は一つの目的のもとに固く手を結んでいた。
――これでよし。
築かれゆく堤を見上げながら、アルベルトは満足げに頷いた。あとはこの調子で工事を進めていけばいい。
工事現場の警備を担っていたのはタングレー騎士団だった。アルセリア帝国との国境を守る精強な騎士団である。その団長――ベルクが警備の総指揮を執っていた。
歴戦の無骨な騎士である。寡黙で職務に忠実。アルベルトの身辺警護にも抜かりはなかった。
工事は日に日に形になっていった。古い堤が取り壊され、新たな頑丈な堤が少しずつ築かれていく。それを見守る周辺の村人たちの顔にも希望の色が差し始めていた。
ある日、一人の老いた村長がアルベルトのもとを訪ねてきた。皺だらけの手にわずかばかりの野菜を抱えて。
「殿下。我ら貧しい村の者ゆえ、大したものはお持ちできませんが……これは我らの畑で採れたささやかな、ほんのお礼の品にございます」
老村長は声を震わせた。
「長年、毎年のように水に泣かされ、半ば諦めておりました。お上は我らのような辺鄙な村のことなど、お忘れなのだと。……なれど、こうして王太子殿下、御自らが堤を築いてくださる。この御恩、村の者一同、生涯忘れません」
深々と頭を垂れる老人に、アルベルトはその手を取り、野菜を押し頂いた。
「ありがたく頂戴する。――だが礼には及ばぬ。民の暮らしを守るのは王家の当然の務め。むしろこれまで長く苦労をかけてきた。すまなかったな」
王太子のその言葉に。
老村長の皺んだ目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
その姿を見てアルベルトは改めて思った。為政者のなすべきこと。それは難しい政の理屈などではない。ただ、こうして目の前の、一人の民の涙を笑顔に変えること。その地道な積み重ねなのだと。
すべては順調だった。
――ただ一つ、アルベルトのある「癖」を除いては。




