第20話 市井の声①
数日後。
アルベルトは東部の国境地域へと足を踏み入れていた。
王都を発って、東へ、東へ。
馬を進めるごとに景色は移ろっていった。整然とした王都の街並みはやがてのどかな田園へと変わり、田園はなだらかな丘陵へと変わる。そしてその丘陵のさらに先。霞んだ地平の彼方に、うっすらと山並みが見えてくる。あの山々のさらに向こうが帝国だ。
この一帯はかつてアルベルトが傭兵団の偵察に訪れたあのノルバークにも、ほど近い。国境の最前線。緊張と隣り合わせの土地である。
だが、いまはその張りつめた気配もいくらか和らいでいた。帝国との間に表向きの和平が保たれているからだ。シャーロットの謝罪の使者としての来訪も、その和平を形の上で確かめ合うものだった。
馬上で東部の風を胸いっぱいに吸い込みながらアルベルトは思った。
――やはり外はいい。
城の執務室で書類と睨めっこをしているよりも、よほど性に合っている。体の奥から力が湧いてくるようだった。
王家が直接治める王領。その一角に治水工事の拠点が設けられていた。
なだらかな丘陵に抱かれた緑豊かな土地だった。麦の穂が風に揺れ、点々と村が散らばっている。その間をクシャス川の支流が、銀色の帯のように蛇行して流れていた。
一見すれば平和なのどかな田園地帯。だが、その川こそが毎年、雨季になると牙を剝く。穏やかな流れは一夜にして濁流と化し、田を、家を、容赦なく呑み込んでいくのだ。
この自然の脅威から、民の暮らしを守る。それが此度の治水工事の目的だった。
現地に着いたアルベルトを二人の領主が出迎えた。
一人はがっしりとした体格の四十がらみの男。日に焼けた肌に人の良さそうな太い眉。グリューン領を治めるブリュッケ卿である。
「これはこれは、王太子殿下。ようこそ東部へお越しくださいました。我がグリューン領一同、心より歓迎いたしますぞ」
ブリュッケ卿は豪快に笑い、深々と頭を下げた。その物腰には土地に根ざした領主らしい実直さがにじみ出ていた。
「出迎え、痛み入る、ブリュッケ卿。此度の治水工事はよろしく頼む」
アルベルトが応えると、もう一人の領主が進み出た。
こちらはブリュッケ卿とは対照的な痩身の初老の男だった。きっちりと整えられた身なりに、神経質そうな細い目。フロスガルド領を治めるゼンベルク卿である。
「ゼンベルクにございます、殿下。――しかし王太子殿下、御自らが治水工事の管理に当たられるとは。恐れながら些か異例のことかと。このような場所、家臣にお任せになってもよろしいかと存じますが」
ゼンベルク卿は慇懃な口調ながら、どこか探るように言った。王族がこんな辺境の土木工事の現場まで来るとはいったい何の魂胆か――そう訝しんでいるのが見て取れた。
無理もない、とアルベルトは思った。
王族がわざわざ辺境の地に長く留まる。そこには何か裏の狙いがあるのではないか。たとえば東部の領主たちの動向を探りに来たのではないか。あるいは領地に、王家の楔を打ち込もうとしているのではないか。――猜疑心の強い者ならそう勘繰ってもおかしくはない。ゼンベルク卿の慎重さは、領主としてむしろ当然の警戒だった。
だからこそアルベルトは、包み隠さず本心を語ることにした。下手に取り繕えばかえって不信を招くだけだ。
「なに、案ずるな、ゼンベルク卿」
アルベルトは笑って応えた。
「俺はただ自分の目で東部の地を見ておきたいのだ。いずれこの国を背負う身。民の暮らしを知らずしては、よき統治もできまい。――それに堤の作り直しは俺が言い出したことだからな。最後まで見届けたいのさ」
その衒いのない言葉に。
ゼンベルク卿の細い目が、わずかに見開かれた。それから何かを考え直すように深く一礼する。
「……出過ぎたことを申しました。御身を厭わぬその御覚悟、このゼンベルク、感服いたしました」
「いや、構わん。慎重なのはよいことだ。――さて、それではさっそく現場を見せてもらおうか」
その夜。
王領の館ではアルベルトを迎えての、ささやかな宴が催された。
豪奢とは言えぬが、土地の幸をふんだんに使った心のこもった料理が卓に並ぶ。川魚の塩焼き、山菜の煮物、香ばしく焼かれた黒パン。アルベルトは王都の洗練された宮廷料理よりも、こうした素朴な味のほうが好きだった。
「殿下はずいぶんと気さくなお方ですなあ」
杯を重ねるうちに、すっかり打ち解けたブリュッケ卿が赤い顔で笑った。
「我らのような田舎の領主とも、こうして膝を突き合わせてくださる。いやはや、王太子殿下と聞いて、もっとお高くとまったお方かと身構えておりましたわい」
「ブリュッケ卿。殿下に失礼ですぞ」
ゼンベルク卿がたしなめるが、その口調も昼間よりはいくらか和らいでいた。
「構わん、構わん。俺は堅苦しいのは苦手でな。こうして酒を酌み交わすほうがよほど性に合っている」
アルベルトが笑って応えると、二人の領主もつられて笑った。
宴が進むにつれ、話は自然と東部の抱える問題へと及んでいった。
「正直に申せば、殿下」
ゼンベルク卿が杯を置いて、真顔になった。
「この東部は王都から遠い。それゆえ何かと後回しにされがちでしてな。今回の治水のように王家が直々に手を入れてくださるのは、まこと稀なこと。我ら東部の領主一同、どれほど心強いことか」
「そうとも。東部は帝国との国境の地。いわば国の盾でございます。なれどその盾の内側の暮らしは、いつも二の次、三の次。……いや、つい愚痴を申しました。お忘れくだされ」
ブリュッケ卿がばつが悪そうに頭をかいた。
だが、アルベルトはその言葉を軽くは聞き流さなかった。
国の盾でありながらその暮らしは後回しにされる。それはまさにアルベルトがかねてより案じていたことだった。国境の民の心が王国から離れてしまえば――それはいつか、国の根を揺るがすことになる。
「……よくわかった。心に刻んでおこう」
アルベルトは静かに、しかし力強く頷いた。
その横顔を見て二人の領主は、この若き王太子に確かな信頼を寄せ始めていた。
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