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フォルティニア戦記  作者: 引田コウ
第二章 王太子と山の民

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第19話 旅立ちの前に③

 政務というものはいざ没頭してみると、思いのほかアルベルトの性に合っていた。

 とりわけ東部の統治に関する案件は、興味が尽きなかった。

 川の流れ。田畑の広がり。村々の暮らし。街道の往来。それらが複雑に絡み合い、一つの「国」というものを形作っている。どこに手を入れれば、人々の暮らしがより豊かになるのか。それを考えるのは、軍議で布陣を練るのとどこか似た、知的な興奮があった。


 徴税の見直し、街道の補修、市場の賦課金の調整。一つひとつは地味で根気のいる作業だった。だが、その一つひとつが確かに、誰かの暮らしに繋がっている。この街道を直せば、あの村の作物がより早く市場に届く。この賦課金を下げれば、あの商人の暮らしがいくらか楽になる。

 数字の向こう側に。書類の文字の奥に。生きた人々の暮らしがある。それが見えてくると、政務はにわかに面白くなった。気づけばアルベルトは寝食を忘れて書類に没頭していた。


 そうして書類と格闘するうちに、シャーロットのことを考える時間は確かに減っていった。ヴィクターの言う通り、忙しさは何よりの薬だったのかもしれない。

 そんなある日のこと。

 アルベルトは一つの案件に目を留めた。


 東部の国境地域。クシャス川の支流が流れるその一帯である。

 毎年、雨季になると川が氾濫し、周辺の村々が水害に見舞われている。古い堤がもはや用をなしていないのだ。修繕を繰り返すばかりで、根本からの作り直しがなされていない。


 ――これは、確か。


 アルベルトは思い出した。先日、書類に目を通していたときに、自分で「作り直しを上申する」と決めた、あの堤の件だ。

 その治水工事がいよいよ本格的に動き出すという。そして、その工事の管理を担う者として――アルベルトの名が挙がっていた。


「治水工事の管理監督、か」


 アルベルトはその書類を手にしばし考え込んだ。

 名目は治水工事の管理。だが、これは絶好の機会でもあった。


 書類の上だけではわからぬことがある。東部の地がいまどうなっているのか。民がどう暮らしているのか。それをこの目で確かめたい。総大将として敵情を自ら確かめに行ったのと同じことだ。守るべき民の暮らしを知らずして何が統治か。


 それに――正直なところ。


 城の執務室に籠もりきりの日々にいささか息が詰まってもいた。外の風に当たりたかった。体を動かしたかった。

 それに、とアルベルトは思う。

 東部はかつて傭兵団の一件で足を運んだ因縁の地。帝国との国境を間近に望む最前線である。あの地がいまどうなっているのか、民は安んじて暮らせているのか。総大将として国境を預かった身として、それはどうしてもこの目で確かめておきたいことだった。


「よし。行くか、東部へ」


 アルベルトはその案件を自ら引き受けることに決めた。


 決めてしまえば行動は早かった。

 アルベルトはさっそくヴィクターを呼び、東部行きの段取りを整えさせた。治水工事の管理監督。表向きはそれが名目である。誰も表立っては反対できぬ、立派な公務だ。

 もっとも――その内心にどれほどの好奇心と、はやる気持ちが渦巻いていたか。それを知ればあの慎重な老宰相は、さぞ頭を抱えたことだろう。

 また、この決断をもしある人物が聞いていたら。


 ――殿下! また勝手に動かれるおつもりか!


 と、特大の雷が落ちていたに違いない。

 国境守備軍を預かる、あのタウロ将軍である。

 だが幸か不幸か、いまのアルベルトの近くにその雷親父はいなかった。そして――もう一人、アルベルトを止められたかもしれない人物も、いまは傍にいなかった。

 幼馴染のグレイである。


 先日、レーヴェンハルト公爵家の当主代理として、領地へと旅立っていったあの幼馴染である。

 半身ともいえる相手がいまは傍にいない。共に軍略を語り、共に剣を交え、共に馬鹿げた悪戯を企んできたあの男が。その不在をアルベルトは改めて噛みしめていた。


「……グレイがいないとどうにも調子が狂うな」


 アルベルトは苦笑した。

 いつもなら隣で「やれやれ」と肩をすくめるあの幼馴染がいない。それは少しばかり心許なかった。だが――裏を返せば。

 自分の行動をいちいち諫める者がいない、ということでもある。


「……まあ、たまにはいいか」


 アルベルトの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。


 出立の朝。

 王城の門前で、アルベルトを見送ったのは宰相ヴィクターだった。


「殿下。くれぐれも申し上げておきますが」


 ヴィクターはいつもの底冷えのする声で釘を刺した。


「此度の御役目はあくまで、治水工事の管理監督。それ以上でもそれ以下でもございません。間違っても現地で、余計な火種に首を突っ込まれませんよう」

「わかっている、わかっている。治水だろう。ちゃんと堤を見届けてくるさ」

「その『わかっている』がいちばん信用なりません」


 ヴィクターはじろりとアルベルトを睨んだ。


「東部には二人の領主がおります。グリューン領のブリュッケ卿。実直で気のいい御仁ですが、いささか猪突猛進なところがある。そしてフロスガルド領のゼンベルク卿。こちらは慎重を絵に描いたような御仁。石橋を叩いてもなお渡らぬようなお方です。この水と油の二人をうまくまとめねば、工事は進みませんぞ」

「ほう。手強そうだな」

「殿下ならご造作もございますまい。――それと、工事の警備はタングレー騎士団が担います。団長のベルク殿は忠義に篤いよき騎士。なれど堅物ゆえ、殿下のいつもの『お忍び』には、さぞ肝を冷やすことになりましょうな」

「……お前、まるで俺が何かやらかすと決めつけているようだな」

「決めつけておりますとも。十年来の付き合いにございますれば」


 しれっとそう言うヴィクターに、アルベルトは苦笑するしかなかった。


「念のため申し上げておきますが――万一、現地で何か面白そうなことを見つけられても。決して首を突っ込まれませんよう。殿下の『面白そう』はたいてい厄介事の入り口にございますれば」

「人を厄介事製造機のように言うな」

「事実を申し上げているまでにございます」


 ぐうの音も出なかった。


「では殿下。御身、大切に。――よき御務めを」


 ヴィクターの深い一礼に見送られ、アルベルトは東へと馬を進めた。

 その背を見送りながらヴィクターは小さく独りごちた。


「……あれだけ釘を刺したのです。今回ばかりは大人しくしておられればよいが」


 その願いが見事に裏切られることを、このときの老宰相はまだ知らない。

書置きしているものをどんどん投稿していきます。

それと合わせて、続きもどんどん書いていきます。


ストックが尽きるのが先か、ストックを作れるのかの競争です。

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