第18話 旅立ちの前に②
書類の山と格闘すること、数日。
さしものアルベルトも根を詰めた甲斐あって、ようやくその大半を片づけ終えた。
最後の一枚に決裁の署名をし、ぐっと背筋を伸ばす。凝り固まった肩から、ぱきり、と音がした。
「……ふう。やっと終わったか」
思えばヴィクターに書類の山を押し付けられてから、幾日が過ぎただろうか。来る日も来る日も、文字と数字に埋もれて過ごした。だが終わってみれば、その日々は決して無駄ではなかった。東部の地理も各領の事情も、いまや頭の中にすっかり入っている。知らず知らずのうちにアルベルトは、為政者としての確かな足腰を養っていたのだ。
窓の外はよく晴れた昼下がりだった。久方ぶりに心にかかっていたもやが晴れたような心地だった。ヴィクターの言う通り、無心に手を動かしているうちに、いつしかあの皇女のことを思う時間も減っていた。
と――そのときだった。
こんこん、と、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「お兄様。……お忙しいところ申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
澄んだ鈴のような声。それを聞いて、アルベルトの表情がふっと和らいだ。
「クリスティーナか。ああ、構わんぞ。入りなさい」
扉が開き、一人の少女がしずしずと入ってきた。
部屋に足を踏み入れたクリスティーナは、卓の上にまだいくらか残った書類の山を見て、形のよい眉を心配そうに寄せた。
「まあ……。やはり、こんなにたくさん。お兄様、本当に働きづめでいらっしゃったのですね」
「なに、もう大半は片づけた。案ずるな」
「ですが……」
クリスティーナはなおも案じ顔だったが、やがて、意を決したように顔を上げた。
年のころは十五。絹のような淡い色の髪を品よく結い上げ、楚々とした、けれど芯の通った佇まいの美しい少女だった。フォルティニアの宮廷で「淑女の鏡」とまで謳われる王女――クリスティーナである。
クリスティーナはアルベルトの異母妹だが、母は違えど、この妹は幼いころから兄であるアルベルトを心から慕い、尊敬していた。
幼いころ、まだ宮廷での立場に不慣れだったクリスティーナを何かと気にかけ、守ってやったのがアルベルトだった。腹違いの兄妹。本来であれば王位を巡って互いに牽制し合ってもおかしくない間柄である。だが、アルベルトにはそうした暗い感情は微塵もなかった。ただ、年の離れた可愛い妹として、クリスティーナを慈しんだ。
その分け隔てのない優しさに、クリスティーナは幼心に深く救われたのだ。以来、彼女はこの兄を、誰よりも慕うようになった。
そんな妹がこうして自分を案じて訪ねてきてくれる。それがアルベルトには素直に嬉しかった。
「お兄様。このところ根を詰めてお仕事をなさっていると伺いました。あまりご無理をなさってはお体に障ります。……あの、これをよろしければ」
クリスティーナは手にしていた小さな包みを、そっと差し出した。開けてみると、中には彼女自ら焼いたという素朴な焼き菓子が行儀よく並んでいた。
「お口に合うかどうか、わかりませんが……ほんの気晴らしにでも、と思いまして」
「わざわざすまんな。お前が焼いてくれたのか」
「は、はい。あの、お口に合わなければ、無理には……」
「いや、嬉しいよ。ありがたくいただこう」
アルベルトが一つつまんで口に運ぶと、素朴で優しい甘さが口の中に広がった。働き詰めだった体に、その甘さがじんわりと染みていく。
「うまい。お前は本当によくできた妹だな」
「そ、そんな……。もったいないお言葉です」
褒められて、クリスティーナは頬をほんのり赤らめた。
「あ、あの……兄上。ぼ、僕も……っ」
と、クリスティーナの後ろから、おずおずともう一人顔を出した。少年だった。クリスティーナと同じ面差しの、けれどもっと線の細い、気の弱そうな少年。アルベルトの異母弟にして、この国の第二王子――リウヤである。クリスティーナとは同じ母を持つ、同腹の弟だった。
「リウヤも来ていたのか。どうした、そんなところでもじもじして」
「は、はい。あの、僕も……兄上のお役に立てればと思って……。で、でも、何をすればいいかわからなくて……」
リウヤはもじもじと俯いた。
この内気な弟は、母である王妃から常々、言い聞かされていた。「いずれ兄上であるアルベルト様を、お助けできる存在におなりなさい」と。その教えを健気にも胸に刻んでいるのだ。だが、生来の引っ込み思案ゆえ、いつも空回りしてしまう。そんな弟がアルベルトには可愛くて仕方がなかった。
「そうか。その気持ちだけで十分だ。ありがとうな、リウヤ」
アルベルトがくしゃりとその頭を撫でると、リウヤはくすぐったそうに、けれど嬉しそうにはにかんだ。
「あ、あの、兄上。僕、いつか、きっと兄上のお役に立ちます。剣も勉強も、もっと頑張りますから……っ」
リウヤがぐっと、小さな拳を握って、健気にそう宣言した。
「ああ、頼りにしているぞ。だがな、リウヤ。あまり気負いすぎるな。お前はお前のままでいい。お前がこうして兄を案じてくれる。その優しさこそ何よりの力なんだ」
「……ぼ、僕のままで……?」
「そうだ。優しさってのは弱さじゃない。立派な強さだ。覚えておけ」
アルベルトの言葉に、リウヤはきょとんとした顔をして――それから何かを噛みしめるように、こくり、と頷いた。その頬にはほんのりと、誇らしげな色が差していた。
兄としてこうして弟妹に、何かを伝えられること。それもまたアルベルトには得難い喜びだった。
「まあ。お二人とも、アルベルト様のお邪魔をしてはなりませんよ」
たおやかな声と共に入ってきたのは、気品ある一人の女性だった。クリスティーナとリウヤの母。すなわちこの国の第二王妃――アヴェリンである。
南の海に浮かぶ島々の国、ゼルギア公国の出。海洋貿易の安寧を願い、両国の友好の証としてフォルティニアへ輿入れした女性だった。
「アルベルト様。ご無沙汰をしております。子どもたちが押しかけてしまい申し訳ございません」
アヴェリンはアルベルトに向かって丁寧に頭を下げた。継子であるアルベルトに対して、どこまでも礼を尽くしたその態度。
「義母上。どうか頭をお上げください。……それに何度も申し上げておりますが、私にはもっと気安く接してくださって構わないのですよ」
アルベルトもまた、義母であるアヴェリンに丁寧な言葉を返した。
アヴェリンはアルベルトをいつも「アルベルト様」と呼び、敬語を崩さない。出身のゼルギア公国は大国フォルティニアから見れば、いささか格下にあたる。その遠慮が彼女に、こうしたよそよそしいまでの礼儀を取らせているのだった。
「いいえ。アルベルト様はいずれこの国を継がれる尊き御方。けじめはつけねばなりません」
「……よそよそしいですよ、義母上」
「ふふ。何度そう仰っても、これだけは変えられませんわ」
アヴェリンはおっとりと微笑んだ。
義理の母子。血は繋がっていない。だがその瞳には、継子であるアルベルトを案じる、確かな温かさが宿っていた。
「アルベルト様。お顔の色がすぐれませんわ。お仕事に励まれるのもよいですが、どうかお体をいたわってくださいませ。……それに、何かお心に屈託がおありなのでは?」
その思いがけず鋭い指摘にアルベルトは一瞬、言葉に詰まった。さすが母親。子の――いや、継子のわずかな翳りも見逃さない。
脳裏にあの銀色の髪がよぎる。だがそれを口にすることはできなかった。
「……いえ。少し根を詰めすぎただけです。ご心配をおかけしました」
「そうですか。ならばよいのですが」
アヴェリンはそれ以上追及はしなかった。ただ静かに、アルベルトを見守っていた。
血の繋がらぬ義理の母。それでもアヴェリンがアルベルトに向ける情の深さは本物だった。
アルベルトは実の母を、幼くして亡くしている。物心つくかつかぬかのころ、戦乱の渦中で母は世を去った。その面影はいまではおぼろげにしか思い出せない。
だからこそなのだろうか。義母であるアヴェリンの、このよそよそしくも温かな心遣いが、アルベルトにはこそばゆくも、ありがたかった。たとえ敬語の壁が二人の間にあろうとも。この人は確かに自分を、一人の息子のように案じてくれている。それがちゃんと伝わってくるのだ。
「……義母上。いつもお気遣い痛み入ります」
「いいえ。当然のことですわ」
アヴェリンはふわりと微笑んだ。
と、そのとき。再び扉が開いた。
「お邪魔するぞアルベルト。――おや。これはずいぶんと賑やかだな」
ずかずかと遠慮なく入ってきたのはグレイだった。室内の顔ぶれを見て軽く目を見張る。
「グレイ! お前、来ていたのか」
「ああ。出立の前に一言、と思ってな。――妃殿下も、クリスティーナ殿下も、リウヤ殿下も、お揃いで」
グレイが優雅に一礼すると。
クリスティーナの肩がぴくり、と跳ねた。
「グ、グレイ様……。ご、ごきげんよう……」
先ほどまでの淑やかな佇まいはどこへやら。クリスティーナは急にしどろもどろになり、頬を林檎のように赤く染めた。その視線はちらちらとグレイのほうへ向いては、慌てて伏せられる。
――ああ、なるほど。
アルベルトは微笑ましい気持ちで、その様子を眺めた。
この奥手な妹が幼馴染であるグレイに淡い想いを寄せていること。それは兄であるアルベルトには、とうにお見通しだった。当のグレイ本人だけがまるで気づいていないのが、なんとももどかしいところだが。
「出立、というと」アルベルトが尋ねた。「いよいよ行くのか。お前の領地へ」
「ああ。親父殿の名代でな。レーヴェンハルト公爵家の当主代理として、しばらく領地のほうを預かることになった。父が所用で動けなくてな」
グレイは肩をすくめた。
「といっても慣れた領地のことだ。なに、長くはかからん。せいぜいひと月かふた月か。すぐに戻ってくるさ」
「そうか。……お前がいないと調子が狂うが。まあ、公爵家の務めとあれば仕方ないな」
「なんだ。寂しいのか?」
「馬鹿を言え。せいせいする、と言ったんだ」
憎まれ口を叩き合う。だが、その実、二人ともしばしの別れを惜しんでいるのは、傍目にも明らかだった。
「……あの、グレイ様」
と、クリスティーナがおずおずと口を開いた。
「ご領地で、その……お体に気をつけて。ご無事のお帰りを……お待ちしております」
消え入りそうな声だった。だが、その一言を絞り出すのに彼女が、どれほどの勇気を振り絞ったか。それは見ていて痛いほど伝わってきた。
「これはご丁寧に。痛み入ります、クリスティーナ殿下」
だが当のグレイはいつもの爽やかな笑顔で、さらりと礼を返すばかり。そのあまりの手応えのなさに、クリスティーナはしゅん、と肩を落とした。
見かねてアルベルトは、そっと助け舟を出すことにした。
「グレイ。クリスティーナはこう見えて菓子作りの名人でな。今日もわざわざ俺のために焼いてきてくれたんだ。せっかくだ、お前も一ついただいたらどうだ。なあ、クリスティーナ?」
「えっ……あ、あの……は、はい! よろしければぜひ……っ」
クリスティーナがぱっと顔を上げ、慌てて菓子の包みをグレイへと差し出した。
「ほう。これはありがたい。では、遠慮なく」
グレイが一つつまんで、口に運ぶ。
「……うむ。うまい。クリスティーナ殿下は菓子作りまでおできになるとは。さすが、淑女の鏡と謳われるだけありますな」
その一言に。
クリスティーナの顔が、今日いちばん、ぱあっと輝いた。まるで満開の花が綻ぶように。
アルベルトとアヴェリンはそっと目を見合わせて微笑んだ。
リウヤが姉を気遣わしげに見上げ、アヴェリンは娘の初心な様子に、口元をそっと手で隠して笑っている。
なんとも賑やかで温かなひとときだった。
やがて日が傾き始めると、一同はそれぞれ辞去していった。
クリスティーナとリウヤは名残惜しそうに、何度も振り返りながら。アヴェリンは「どうかお体を」と最後までアルベルトを気遣いながら。
そして、グレイは。
「じゃあな、アルベルト。留守の間、妙なことに首を突っ込むなよ」
「誰が突っ込むものか」
「……お前のその『誰が』が、いちばん当てにならんのだがな」
グレイは半眼で釘を刺した。それからふと、声の調子を和らげる。
「だが、本当に何かあったらすぐに報せろよ。たとえ領地にいようと飛んで戻る」
「……ふん。お前こそ領主代理の仕事でしくじるなよ。お前の算盤勘定は、城でしか通用せんかもしれんからな」
「言ってくれる。なに、これでも公爵家の嫡男だ。領地の差配くらいお手のものさ」
軽口の応酬。だが、その奥には長年連れ添った、確かな信頼が流れていた。言葉にせずとも通じ合う。それがアルベルトとグレイの間柄だった。
最後にそんなやり取りを残して。
グレイもまた自らの領地へと旅立っていった。
一人になった執務室で、アルベルトはクリスティーナの焼き菓子をもう一つ口に運んだ。
優しい甘さ。家族の温もり。
いつの間にか胸を覆っていたもやはすっかり晴れていた。
血の繋がりは半分。あるいはまったくない者もいる。それでも彼らは確かに、アルベルトの大切な家族だった。
母を早くに亡くし、父である国王は政務に多忙。決して恵まれた家庭環境とは言えなかった。それでもこうして自分を案じ、慕ってくれる者たちがいる。その温もりがアルベルトの、ともすれば孤独になりがちな心を確かに支えていた。
――守らねば、な。
ふと、そんな思いが胸に湧いた。このささやかな温かい日常を。家族の笑顔を。そして、その先に広がる名もなき民の暮らしを。それらを脅かすものから守り抜く。それこそがいずれ王となる自分の使命なのだと、改めて思う。
「……さて、と」
アルベルトは、ぱん、と両の頬を叩いた。
いつまでもシャーロットのことで思い悩んでいても仕方がない。いまは、いまのなすべきことに力を注ごう。
そう心を新たにして、アルベルトは再び政務へと向き直った。
第2(?)のヒロイン登場です。
やっぱり妹キャラは出さないとダメですよね。




