第17話 旅立ちの前に①
この話から第二章の開始です。
帝国の皇女、シャーロットの一行がフォルティニアを発ち、アルセリアへと帰っていった。
その翌日のことである。
王城の執務室では、アルベルトがいつものように政務にあたっていた。卓の上には東部統治に関する書類が、相変わらずうずたかく積まれている。羽根ペンを手に一枚、また一枚と目を通しては、決裁を下していく。
だが――その手はどうにも進まなかった。
同じ一行をもう何度も読み返している。文字を追っているはずなのに、その意味が頭に入ってこない。気づけばペンの先が止まり、視線が窓の外の遠い空へとさまよっていた。
こんなことは珍しかった。
アルベルトはもともと、一つのことに集中すれば寝食を忘れるたちだ。軍略を練るときも、剣の稽古に打ち込むときもそうだった。その集中力こそがアルベルトの強みでもあった。
なのに今日はどうにもいけない。心の一部が常にどこか別の場所に囚われている。書類の文字の上にいつのまにか、あの銀色の髪の少女の面影が重なってしまうのだ。
――しっかりしろ。
アルベルトは軽く頭を振った。だが、その面影は振り払っても振り払っても、また、すぐに忍び寄ってくるのだった。
アルベルトの頭の中を占めていたのは、書類のことではなかった。
あの銀色の髪。あの菫色の瞳。氷のように冷たくこちらを見据えたあの眼差し。
――人違いではございませんか。
突き放すようなあの言葉。
あれは確かにシャーロットだった。十一年前、星空の下で出会ったあの少女。それは間違いない。だが、なぜあんなにも変わってしまったのか。なぜ、覚えていないと嘘をついたのか。
ペンダントの話を出したとき、確かに彼女の瞳は揺れた。あれは見間違いではなかったはずだ。
――誰よりも豊かな心を必死に押し殺している者。
ヴィクターのあの言葉がいつまでも胸の奥でこだましていた。
あの謁見の後、アルベルトは何度も考えを巡らせた。
もしヴィクターの見立てが正しいのだとしたら。あの冷たさが本心ではなく、何かを覆い隠すための仮面なのだとしたら。――では、シャーロットはいったい何のために、そんな仮面を被っているのか。何を隠そうとしているのか。
帝国の皇女。征服した国々を冷酷に統べると噂される、氷の皇女。その評判と、幼き日に出会ったあの心優しい少女の姿とが、どうしても重ならない。同じ人間の中に、その二つが同居しているとはとても思えなかった。
だが、現に彼女は目の前で、あの冷たい仮面を被ってみせた。そして、こちらの差し出した手をにべもなく振り払った。
わからない。考えれば考えるほどわからなくなる。深い霧の中を手探りで進んでいるようだった。
いや、とアルベルトは思い直す。
考えても詮ないことだ。相手は敵国の皇女。立場の上では、いずれ刃を交えることになるやもしれぬ相手。その胸の内を推し量ったところでどうなるものでもあるまい。
それでも――あの揺らいだ瞳が忘れられなかった。まるで助けを求めるかのように、ほんの一瞬覗いた、あの素顔が。放っておけと理性は囁くのに、心のどこかが彼女のことを気にかけてしまう。
我ながらお人好しが過ぎる。アルベルトは胸の内で小さく自嘲した。
シャーロット。君は本当は何を抱えているんだ。あの冷たさの奥に、いったい何を――。
「殿下」
「……っ、なんだ」
ふいにすぐ傍から声をかけられ、アルベルトははっと我に返った。
いつの間にか卓のすぐ脇に宰相のヴィクターが立っていた。その手には、また新たな書類の束がどっさりと抱えられている。
「お手が止まっておられますな」
「あ、ああ……すまん。少し考え事をしていた」
「考え事、でございますか」
ヴィクターはその鋭い目で、アルベルトの顔をじっと見つめた。何もかも見透かしているような、その視線。アルベルトは思わず目をそらした。
「……皇女殿下のことをお考えでしたかな」
「っ……べ、別に、そういうわけでは」
「隠さずともよろしゅうございます。お顔に書いてございますゆえ」
ヴィクターはふっと口の端をわずかに緩めた。だが、その目は笑っていなかった。
「お気持ちはわからぬでもありません。あの皇女殿下、一筋縄ではいかぬお方。気にかかるのも無理はございますまい。――なれど、殿下」
ヴィクターは抱えていた書類の束を、どさり、とアルベルトの卓の上に置いた。すでに山になっていた書類が、さらに高く積み上がる。
「考えても詮なきことを、いつまでも案じておられても答えは出ません。それよりは目の前のなすべきことにお心を向けられませ。――幸い殿下のなすべきことはご覧の通り、山ほどございますゆえ」
「……おい、ヴィクター。これはいくら何でも、多すぎないか」
アルベルトはげんなりとした顔で、目の前にそびえる新たな書類の山を見上げた。
「先ほど片づけた分と合わせれば、もう見るのも嫌になる量だぞ」
「ちょうどようございました。書類に追われていれば、余計なことを考える暇もございますまい。憂いを忘れるには、忙しくするのが一番の薬にございます」
「……お前、わざと積み増しただろう」
「はて。何のことやら」
「だいたいこれは宰相のお前の仕事だろう。それをこうも俺に回して……」
「殿下。これはいずれ、王となられる殿下のための修練にございます。国を治めるとは、こうした地道な事務の果てしなき積み重ね。剣の腕や軍略だけでは国は治まりません」
「わかっている。わかっているが……量を考えろ、量を」
「ご安心を。殿下が根を上げられぬようしっかりと加減しておりますゆえ」
「これで加減した、だと……?」
アルベルトは絶句した。
しれっとそう答えるヴィクターに、アルベルトは深いため息をついた。
まったく食えない老人だ。だが――その言葉には一理あった。
考えても答えの出ぬこと。それをいつまでも抱えていたところで、どうにもならない。ならばいっそ目の前のことに没頭してしまったほうがいい。気分を入れ替えるのだ。
「……わかったよ。やればいいんだろう、やれば」
アルベルトは覚悟を決めると、新たな書類の束を、ぐいと手前に引き寄せた。
「ええ。それがよろしゅうございます」
ヴィクターは満足げに頷くと、恭しく一礼して執務室を後にした。
残されたアルベルトは、気合いを入れ直すように、ぴしゃりと自分の頬を両手で叩いた。
そして羽根ペンを握り直し、書類の山へと本格的に立ち向かい始めた。




