第16話 氷の皇女⑥
城の客間。
フォルティニアが帝国の皇女のために用意した、最上級の一室である。
シャーロットはその部屋に戻ると、ようやくその細い肩から力を抜いた。
扉が閉まり、気心の知れた者だけになった、その瞬間。それまでぴんと張りつめていた背筋が、ふっと緩む。完璧に保たれていた、あの無表情の仮面が、わずかに剥がれ落ちていく。
謁見の間で見せたあの氷のような皇女は、もうそこにはいなかった。残っていたのは長い緊張と長い旅路に、ただ疲れ果てた一人の少女の姿だった。
窓辺に立ち、外を見やる。フォルティニアの王都の街並みが、夕暮れの茜色に染まっている。アルセリアの都とはまた違った趣の穏やかな景色だった。
「シャーロットさま」
背後から柔らかな声がかけられた。
振り返ると一人の女性が、温かい飲み物を載せた盆を手に立っていた。歳のころは四十半ばほどか。ふくよかで、優しげな顔立ちをしたメイドである。
名をアンナといった。
シャーロットがこの世に生を受けたその時からずっと傍に付き添い、世話をしてきた古参のメイド。シャーロットにとっては、もはや母親も同然の存在だった。
幼いころからその成長を誰よりも近くで見守ってきた。シャーロットが初めて言葉を発したときも、初めて自分の足で歩いたときも、傍にいたのはこのアンナだった。どれほど世間から『氷の皇女』と恐れられようと、アンナの前でだけはシャーロットは、ただの一人の少女に戻ることができる。アンナとはシャーロットにとってそういうかけがえのない存在だった。
「長旅に謁見と……お疲れになられたでしょう。温かいものをお持ちしました。さ、どうぞ」
「……ありがとう、アンナ」
シャーロットは椅子に腰かけ、差し出されたカップを両手で受け取った。
立ちのぼる湯気が、ふわりと頬を撫でる。
温かい。その温もりが、冷えきった指先からじんわりと全身へと染み渡っていく。シャーロットはしばし、何も言わずに、ただそのぬくもりを味わっていた。
長い、長い一日だった。
「お顔の色が、すぐれませんわ。やはりご無理をなさっているのです。今日くらいは、早めにお休みになってくださいまし」
アンナは心配そうにシャーロットの顔を覗き込んだ。
「あなたさまはいつも頑張りすぎなのですから。少しはこのアンナにも、甘えてくださってよいのですよ」
アンナはそんな主の傍らに膝をつき、その細い手にそっと自分の手を重ねた。皺の刻まれた温かい手だった。
「……此度の御役目、さぞお辛うございましたでしょう。憎しみを向けられる国へ、頭を下げにいらっしゃるのですから。あなたさまのお心中を思うと、このアンナ、胸が張り裂けそうで」
「……平気よ、アンナ」
シャーロットは静かに言った。
「これがわたくしの務めですもの。何を言われようと、どんな目で見られようと――構わないわ。もう慣れていますから」
その声には歳に似合わぬ深い諦めと、静かな強さとが同時に滲んでいた。
アンナはその言葉に、ただ痛ましげに目を細めるばかりだった。この優しい子が、いつからこんなにも自分の心を押し殺すことを覚えてしまったのか。それを思うと胸の奥が締めつけられる。
その言葉は、皇女に対するメイドの言葉ではなかった。
ただ我が子を案じる、母のような――そんな温もりに満ちた言葉だった。
シャーロットはカップに口をつけ、その温かさをゆっくりと喉の奥へと落とした。
そして――。
その凍りついていた表情が。
ふわり、と。
ほどけた。
「……ええ。そうするわ。心配をかけて、ごめんなさいね、アンナ」
その口元に浮かんだのは微笑みだった。
謁見の間で見せた、あの見る者の背を凍らせるような冷たい微笑みではない。
まるで春の陽だまりのような。固く凍りついた氷が、そっと溶けていくような。
あたたかく、優しい笑顔だった。
アンナはその笑顔を見て、ほっと目元を緩めた。
この笑顔。アンナが心から愛してやまない、本当のシャーロットの笑顔だった。世間が言う『氷の皇女』など、ここにはどこにもいない。いるのはただ心優しく、けれど、たくさんのものをたった一人で背負い込んでしまう、いじらしい一人の少女だけ。
もし世界中の人々が、この笑顔をたった一目でも見ることができたなら。きっと誰も、彼女のことを『冷酷な皇女』などとは呼べなくなるだろうに。――アンナはいつもそう思うのだった。
だが、それは叶わぬ願い。この笑顔は誰の目にも触れぬところで、ひっそりと咲いては消えていく。まるで夜にだけ、こっそりと花開く一輪の花のように。
氷の皇女。
けっして笑わぬ、笑ったとしても凍りつくような笑みを浮かべるだけの、冷酷な女。
そう世に謳われる少女が誰にも見せぬところで、ただ一人――この母のようなメイドの前でだけ見せる笑顔。
それはその二つ名が、どれほど彼女の本当の姿からかけ離れたものであるかを――静かに物語っているようだった。
窓の外で、フォルティニアの空がゆっくりと宵闇に包まれていく。
やがてその空に、ひとつ、ふたつと、星が瞬き始めた。十一年前のあの夜と寸分も変わらぬ星空が。
その同じ空の下。
城のどこかで一人の王子が、十一年前の星空の中庭を想っていることを。
そして――その王子もまた、知らない。
いま自分が焦がれている、あの星空の中庭の少女が。すぐこの同じ城の屋根の下でたった一人、氷の仮面を脱いで静かに息をついていることを。
二人を隔てる十一年という歳月。そして王国と帝国というあまりに深い断絶。
その距離はまだ、あまりにも遠い。
二人の物語が再びゆっくりと動き出したことを――いまの二人はまだ知らない。
これで第一章は終了です。
第に章も楽しんでいただけると嬉しいです。




