第15話 氷の皇女⑤
回廊に一人、立ち尽くすアルベルトの姿があった。
その傍らでグレイが、何も言わずに幼馴染の帰りを待っている。
長い長い回想から、アルベルトはゆっくりと現実へと引き戻されていった。
「……あのときの、あの子が」
アルベルトの声は震えていた。
「あんなにもあたたかく笑っていた、あの子が……どうしてあんなにも、冷たくなってしまったんだ」
あの鈴を転がすような笑い声。あのまぶしい笑顔。「一生、たからものにする」と言って、ペンダントを胸に抱きしめた、あの幼い日の少女。
それが――いまや氷の皇女。
人違いだと言い放った、あの冷たい瞳。
同じ人物とは、とても思えなかった。
「詳しくは知らないが、人は変わるものさ」
グレイが静かに言った。
「子どもは大人になる。国を背負う立場になれば、なおさらだ。……あちらにも、いろいろと事情があるのだろう」
「……ああ。そうかもしれん。そうなんだろうな」
アルベルトは力なく頷いた。
頷きながらも――その胸の奥では、何かが納得しきれずにいた。
人は変わる。それはわかっている。立場が、環境が、時に人を別人のように変えてしまうことも。十一年とは、そういう歳月だ。
だが――それにしてもあの変わりようは、尋常ではなかった。まるで自ら望んで、感情というものをことごとく凍らせてしまったかのよう。
そしてあの一瞬。ペンダントの話を出したとき、確かに彼女の氷はひび割れた。あの揺らいだ瞳。あれが見間違いだったとは、どうしても思えない。
あの夜のあの笑顔が嘘だったとは思えなかった。あのときペンダントを胸に抱きしめた、あの温もりがまやかしだったとは。
――シャーロット。君は本当は何を考えているんだ。
アルベルトはもう一度、彼女の消えた回廊の先を見つめた。
その答えはまだどこにもなかった。
だが、アルベルトは心に決めていた。必ず突き止めてやる、と。あの冷たさの奥にあるものを。シャーロットが本当は何を抱えているのかを。
*
その後、アルベルトとグレイは人払いをした一室に腰を落ち着けていた。
窓の外はすでに夕暮れ。茜色の光が、二人の横顔を淡く照らしている。
アルベルトは、ぽつり、ぽつりとグレイに語った。十一年前のあの夜のことを。初めての外交の席で、疲れ果てて逃げ込んだ中庭。星空の下で出会った一人の少女。たわいもない、けれど忘れられぬ会話。そして、別れ際に贈った青い石のペンダントのことを。
「……そうか」
グレイは腕を組み、静かに聞き入っていた。
「お前が月を見るたびに、どこか遠い目をしていたのは――その少女のことを思い出していたからか」
「……かもしれんな」
アルベルトは自嘲気味に笑った。
「我ながら未練がましいとは思う。ずいぶんと昔の、子どものころの話だ。向こうは覚えてさえいないかもしれん。……いや、現に覚えていないと、はっきり言われたよ」
「それはどうかな」
グレイが思案げに言った。
「気になることがある。――なあアルベルト。お前の話を聞いて、俺はどうにも腑に落ちんのだ」
「腑に落ちん?」
「ああ。考えてもみろ。仮に、あの皇女が本当にお前のことなど、もう覚えていないとする。だったらなぜわざわざ『人違いだ』と、あそこまで強く突っぱねる必要がある? 覚えがないなら、『さて、記憶にございません』と、軽く受け流せばいいだけのこと。なのに、あの皇女はまるで――その話題にだけは触れられたくないかのように、頑なに否定し続けた」
アルベルトは、はっとした。
言われてみれば、その通りだった。シャーロットの拒絶はあまりに強すぎた。まるで何かを必死に隠そうとしているかのように。
「それにペンダントの話を出したとき。お前は皇女の目が揺れた、と言ったな。――忘れた相手の、何でもない贈り物の話で、人の目は揺れたりはせんよ」
「……グレイ」
「もちろん、これは俺のただの当て推量だ。だが、覚えておいて損はない。あの皇女には何か――裏があるのかもしれんぞ」
二人の間にしばしの沈黙が落ちた。
と、そのとき。扉が静かに叩かれた。入ってきたのは宰相ヴィクターだった。
「お話し中、失礼いたします。――殿下、グラヴィス卿。少々お耳に入れておきたきことが」
「ヴィクター。どうした」
「先ほどの謁見での、皇女殿下のご様子。あれを見て、わたくし、一つ引っかかったことがございましてな」
ヴィクターはその鋭い目を、細めて言った。
「あの謝罪。あまりにも完璧すぎたのです。一語の淀みもなく、一礼の乱れもなく。まるで感情というものを徹底して削ぎ落としたかのように。――長年、帝国の手練れの外交官どもと渡り合ってまいりましたが、ああいう手合いは二通りしかおりません」
「二通り、とは」
「一つは、本当に心を持たぬ者。もう一つは――誰よりも豊かな心を、必死に押し殺している者」
その言葉に、アルベルトの胸がどくり、と鳴った。
「いずれであるかは、わたくしにもまだ判じかねます。なれど一つだけ確かなことがございます。あの皇女殿下の此度の来訪、ただの謝罪ではございません。帝国は必ず何かを仕掛けてきております。――くれぐれもご油断なさいませんよう」
ヴィクターはそう言い置くと、恭しく一礼して、部屋を後にした。
残されたアルベルトは、窓の外の暮れなずむ空をじっと見つめた。
誰よりも豊かな心を、必死に押し殺している者。
ヴィクターのその言葉が、胸の奥でいつまでもこだましていた。




