第14話 氷の皇女④
2人の出会いの回想シーンです。
よくある話って言ってるのは誰ですか?
中庭は静かだった。
屋敷の中からはまだ明るく、華やかな声や音楽がかすかに漏れ聞こえてくる。だが、ここまで来ると、その喧騒はまるで遠い世界のもののようだった。
夜空には降るような星々が瞬いていた。煌々と冴えわたる月が、中庭を青白い光で淡く照らし出している。手入れの行き届いた植え込みも白い石畳も、すべてが月光と星明かりに包まれて、どこか幻想的な、この世のものとは思えぬ雰囲気を漂わせていた。
昼間のあの華やかな喧騒が、嘘のようだった。咲き乱れる花々は夜の闇の中でその色を潜め、ただ淡い香りだけを夜気に漂わせている。どこかで小さな噴水の水の落ちる音が、ちろちろと聞こえていた。
まるで世界から切り取られた、もう一つの世界。喧騒も駆け引きも、国と国との憎しみも――ここには何ひとつ届かない。
アルベルトはふう、と大きく息を吐いた。
冷たい夜気が火照った体に心地よい。張りつめていた肩の力がようやく抜けていく。
――終わった。なんとかやりきった。
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
月を見上げる。
フォルティニアで見るのと同じ月のはずなのに。敵国の空に浮かぶそれは、なぜだかひどく遠く、よそよそしく見えた。早く国に帰りたい。母上や、グレイの待つあの城へ。――そんな幼い里心が、ふいに込み上げてくる。
だが、今だけは。この静かなひとときだけは何も考えず、ただこの満天の星空を独り占めしていたかった。
そのときだった。
ふと、視界の隅に人影を捉えた。
星空の下。中庭の中ほどに置かれた、白いベンチ。
そこに――一人の少女がちょこんと座っていた。
まだ幼い少女だった。豪奢なドレスに包まれた、小さな体。月光を浴びた銀色の髪が、夜風にさらさらと揺れている。少女は膝の上でちんまりと手を組み、その小さな顔を空へと向けて、じっと星空を見上げていた。
その横顔に、アルベルトは思わず見惚れた。
星を見上げるその瞳は一見すると、何か悲しみのようなものを湛えているように見えた。けれど、その小さなたたずまいは静謐で神秘的で――まるで、この星空の中庭そのものが、彼女のために用意された一幅の絵画のようだった。
誰だろう。こんな幼い子がなぜ、一人でこんなところに。
アルベルトがそう思ってしばし見つめていると。
少女がふいに、その視線に気づいたようにこちらを向いた。
ぱちり、と、菫色の大きな瞳が、アルベルトを映す。
そして――その瞳に、みるみる怯えの色が広がっていった。
知らない人物がすぐそばに立っていた。それも見知らぬ年上の少年が。幼い少女にとって、それはさぞ恐ろしいことだったろう。少女はびくりと小さな肩を震わせ、今にも逃げ出しそうに身を強張らせた。
「あっ……ま、待って、待ってくれ!」
アルベルトは慌てた。
このまま泣かれでもしたら、大変なことになる。それに――何より、この小さな少女を怖がらせたくなかった。
「怖がらせるつもりはないんだ。あ、あー……そうだ、まずは名乗らないとな。俺はアルベルト。アルベルト・ファン・フォルテス。今日のパーティーに客として来ているんだ。怪しい者じゃないんだぞ」
アルベルトはできるだけ穏やかな声で、ゆっくりとそう告げた。
胸の内では、乳母である女官の言葉を思い出していた。
――よろしいですか、アルベルト様。女性には常に優しくなさいませ。それが淑女に対する、紳士の務めにございます。
日頃から口を酸っぱくして言われていた、その教え。
たとえ相手が――憎き帝国の関係者であろうと。
いや、とアルベルトは思い直す。相手は女性だ。それもこんなにも幼い少女ではないか。国がどうの、敵がどうのと、そんなことは関係ない。怯える少女には優しくする。それが当たり前のことだ。
アルベルトの穏やかな声音に、少女の強張りが少しずつ解けていった。
やがて少女は、おずおずと口を開いた。まだ警戒の色を残しながらも、けれど幼いなりに精一杯、淑女らしく振る舞おうとして。
「……わ、わたくしは……シャーロット。シャーロット・セリアンドル。アルセリア帝国の……第一皇女に、ございます」
「……えっ」
アルベルトは目を丸くした。
「第一皇女って……それじゃあ、君が今日の主役の……? 今日が誕生日の?」
「……はい」
こくり、とシャーロットが頷く。
アルベルトはすっかり驚いてしまった。
今日のパーティーの、主賓中の主賓。誰よりも華やかな席の中心にいるはずの少女が、こんな夜の中庭にぽつんと一人でいるとは。
「どうしてこんなところに一人で……。みんな、君を探しているんじゃないか?」
「……つかれて、しまったのです」
シャーロットは小さな声で、ぽつりと言った。
「次から次へと、知らない大人の方がご挨拶にいらして……。ずっと笑っていなければいけなくて。少しだけ……ほんの少しだけ、ひとりになりたくて。それで、こっそりここに逃げてきたのです」
ぽつり、ぽつりと語るその様子は、年端もいかぬ幼いものだった。けれど、その言葉の端々には、こんなにも小さな子どもが背負うにはあまりに重たいものが滲んでいるように、アルベルトには感じられた。
その言葉を聞いて、アルベルトは思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「あっ……ご、ごめん。笑ったりして。でも、そうか。君もだったのか」
「……?」
「俺も同じなんだ。さっきまで挨拶攻めにあってさ。もう、くたくたなんだ。それで一息つきたくて、ここに逃げてきたんだよ。――まさかこんなところに、同じ仲間がいたとはな」
アルベルトが、いたずらっぽく笑ってそう言うと。
シャーロットはきょとんとした顔でアルベルトを見つめ――それから。
ふわり、と。
その小さな顔に、花が綻ぶような笑みが広がった。
「……ふふっ」
鈴を転がしたような。
澄んだ、可愛らしい笑い声だった。
その笑顔を見た瞬間、アルベルトの胸の奥が、なぜだかぽかぽかと温かくなった。
それから二人はベンチに並んで腰かけ、いろいろな話をした。
星の話。月の話。アルベルトの国、フォルティニアの話。シャーロットの好きな、庭の花の話。たわいもない、けれど心の弾む会話だった。
「フォルティニアには海があるのですか?」
シャーロットが目を輝かせて尋ねた。
「ああ、あるとも。西のほうへ行けば、それはもう大きな海が広がっているんだ。空よりも青くて、見渡す限り水、水、水だ。波が、ざざーん、ざざーんって岸に打ち寄せてな。俺は一度だけ、連れていってもらったことがある」
「まあ……。わたくし、海を見たことがありませんの」
「そうなのか?」
「ええ。アルセリアは山と森ばかりですから。書物の挿絵でしか見たことが……」
シャーロットは少しだけ、寂しそうに目を伏せた。
その横顔を見て、アルベルトは思わずこう口にしていた。
「なら、いつか見にくればいい。フォルティニアの海を」
「……え?」
「俺が案内してやる。海も街もぜんぶ。約束だ」
それがどれほど無邪気で、どれほど無謀な約束か。幼いアルベルトにはわかっていなかった。憎しみ合う二つの国。その王子と皇女が、気軽に行き来できるはずもないことなど。
だが、シャーロットはその言葉を聞いて、ぱっと顔を輝かせた。
「……ほんとうですか? 約束、ですよ? 破ったら、めっ、ですからね」
「ああ、約束だ。男に二言はない」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。その笑い声は、夜空の星々へと溶けていった。
国も立場も何もかも。そんなものは、この夜、この中庭には何の意味も持たなかった。ただ二人の子どもが、星の下で、ありもしない未来を夢見て、無邪気に笑い合っている。それだけのかけがえのない時間だった。
不思議だった。
ほんのさっきまで、あれほど気を張りつめていたのに。憎き敵国の宮殿の只中にいるというのに。シャーロットと話していると、そんなことがまるで嘘のように、するすると言葉が出てくる。相手が皇女だとか、敵国の人間だとか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
ただ、同じ年ごろの――いや、少しだけ年下の可愛らしい女の子と、星空の下で笑い合っている。それだけのことが、たまらなく楽しかった。
シャーロットもまた、心を開いてくれているようだった。最初の怯えはどこへやら、今ではきらきらと瞳を輝かせて、アルベルトの話に相槌を打っている。
「アルベルトさまは……お強いのですね」
ふと、シャーロットがぽつりと言った。
「あんなに大勢の大人の方々に囲まれても、堂々となさって。わたくし、いつも怖くて、逃げ出したくなってしまうのに」
「強くなんかないさ」
アルベルトは首を振った。
「さっきまで緊張で、胃が痛くて仕方なかったんだ。逃げ出したかったのは俺も同じだよ。――でも、逃げちゃいけないって思ったんだ。俺が逃げたら、俺を信じて送り出してくれた父上の顔に泥を塗ることになる。だから踏ん張った。それだけさ」
「……信じて、送り出してくれる」
シャーロットはその言葉を、噛みしめるように繰り返した。その瞳がほんの少し陰る。
「……いいですね。わたくしには、よくわかりませんわ。そういうの」
その横顔が急に大人びて、そしてひどく寂しげに見えた。アルベルトは何と言っていいかわからなかった。ただ、この小さな皇女がその豪奢なドレスの内に、自分には計り知れない何かを抱えているのだということを、幼いなりに感じ取っていた。
「……なあ」
アルベルトは努めて明るく言った。
「だったら、俺が信じてやるよ。シャーロットのこと」
「……え?」
「会ったばかりだけど。でも俺は、君のことがいい奴だってもうわかるからさ。だからもしこの先、誰も君を信じてくれないことがあっても。俺だけは君を信じる。――どうだ、ちょっとは心強いだろ?」
アルベルトがにっと笑ってそう言うと。
シャーロットは目をまんまるに見開いて。
それからその夜いちばんの、明るい笑顔で笑った。
「……ふふっ。はい。とても心強いですわ」
どれほどそうしていただろうか。
ふいに、屋敷のほうから声が聞こえてきた。
「シャーロットさまー! シャーロットさまは、どちらですかー!」
シャーロットを探す声だった。
その声を聞いて、シャーロットの顔がほんの少し曇った。
楽しい時間はもう終わってしまう。その横顔にはありありとそう書いてあった。
アルベルトもまた同じ気持ちだった。もう少しこの子と話していたかった。もう少しだけ、この穏やかな時間が続けばいいのに、と。だが、彼女は今日の主役。いつまでもこんなところに引き留めておくわけにはいかなかった。
「……もう、戻らなければなりませんわ」
名残惜しそうに、シャーロットがベンチからぴょこんと立ち上がる。
「……そうか。そうだよな」
アルベルトも立ち上がろうとした。
楽しい時間は、いつだってあっという間に過ぎてしまう。名残惜しいが、仕方がない。彼女は今日の主役なのだから。
と――そのとき。
アルベルトの頭にふと、ある考えがよぎった。
そういえば。今日はこの子の誕生日なのだ。
なのに自分はまだ何もお祝いの品を渡していない。いや、それどころか、客としてろくに祝いの言葉さえ、かけていなかったのではないか。
――何か。何かこの子に贈れるものはないだろうか。
アルベルトは慌てて、自分の身の回りを探った。礼服のポケットをあちらこちら、ぱたぱたと。
その手にこつん、と何かが当たった。
取り出してみる。それは――一つのペンダントだった。
銀の鎖に、青い石をあしらった、小さなペンダント。母である王妃にせがんで、せがんで、ようやくもらった、アルベルトのお気に入りの品だった。今日のような大事な日には、お守り代わりにと、肌身離さず持っていたものだ。
一瞬、アルベルトの手が止まった。
これは母が、自分のためにくれた大切なお守りだ。手放すのは正直、惜しい。
だが――目の前のこの少女の笑顔を思い出す。鈴を転がすようなあの笑い声を。今日が誕生日だというのに、大勢に囲まれながらも、どこか寂しげで、一人、夜の中庭に逃げてきた、この子のことを。
惜しむ気持ちはすぐに消えた。
大切なものだからこそ贈る意味がある。幼いなりにアルベルトは、そう思ったのだ。
「あの、さ。シャーロット」
アルベルトはそのペンダントを両手で差し出した。
「これ……誕生日のプレゼントだ。受け取ってくれ」
「……えっ」
シャーロットが目を丸くする。
「で、でも……そんな、大切なものを……」
「いいんだ。今日は君の特別な日だろ。何も渡せないんじゃ、客として失格だからな。――それに」
アルベルトは少し照れくさそうに、頬をかいた。
「俺の初めての友達への贈り物だ。受け取ってくれると、嬉しい」
シャーロットはしばらく、その小さなペンダントとアルベルトの顔とを、交互に見比べていた。
そして――。
その瞳に、じわり、と温かいものが滲んだ。
「……ありがとう、ございます」
そっと両手で、ペンダントを受け取る。
まるで、世界で一番壊れやすい宝物を扱うかのように、大切に、大切に。
「うれしい……。わたくし、これ、一生、たからものに、いたしますわ」
そう言ってシャーロットは笑った。
星明かりよりも、月光よりも、ずっとずっと、まぶしい笑顔で。
その笑顔を見て、アルベルトの胸はなぜだかいっぱいになった。
たった一つの小さなペンダント。それだけのことで、この子は、こんなにも嬉しそうに笑ってくれる。それがたまらなく嬉しかった。
いつかまた会えるだろうか。この星空の中庭で。――そんな叶うはずもない願いが、ふと幼い胸をよぎった。
――これが。
アルベルトとシャーロットの。
初めての出会いだった。




