第11話 氷の皇女①
その日、フォルティニアの王城は、朝から張りつめた空気に包まれていた。
アルセリア帝国の第一皇女が謝罪の使者として来訪する――その報せが城内に伝わってから、わずか数日。慌ただしく準備が整えられ、ついにその日を迎えたのだった。
城の正門前には、深紅と黒を基調とした帝国の馬車の列が長い影を落として並んでいた。馬車を引くのは、丁寧に手入れされた見事な馬たち。護衛として付き従う帝国の騎士たちは、磨き上げられた甲冑に身を包み、一糸乱れぬ隊列を組んでいる。謝罪の使者と称しながら、その威容はまるで凱旋の行進のようだった。
城下では帝国の馬車の列を一目見ようと、民が遠巻きに集まっていた。だが、その表情は決して晴れやかなものではなかった。つい先日まで、国境で帝国の騎士団と一触即発の事態にあったのだ。その帝国から皇女が来る。歓迎すべきなのか、警戒すべきなのか。民もまた複雑な思いを抱えて、その物々しい行列を固唾を呑んで見守っていた。
城の内も同じだった。表向きは最上級の礼をもって皇女を迎える。磨き上げられた回廊、生けられた花、隙のない給仕の手配。だが、その裏では衛兵の数は普段の倍に増やされ、城のあちこちに目立たぬよう兵が配されていた。友好の使者を迎えるというよりも、むしろ敵将を城内に招き入れるかのような、張りつめた警戒態勢だった。
それも無理からぬことだった。相手はあの帝国。しかも、送られてくるのはただの使者ではなく、一国の皇女である。この訪問の裏に何が隠されているのか――それを読みきれぬうちは、誰一人気を緩めることなどできなかった。
アルベルトは父マクシミリアンの傍らに控え、謁見の間で皇女の到着を待っていた。
隣には、いつものようにグレイが立っている。さらに後方には、宰相ヴィクターをはじめとする重臣たちが、緊張の面持ちで居並んでいた。
アルベルトの胸には、朝から奇妙な落ち着かなさがわだかまっていた。
第一皇女が来る――その報せを聞いてからずっと、何かが心の隅に引っかかっていた。それが何なのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、漠然とした胸騒ぎだけが、影のようについて回っていた。
帝国の冷酷無比と名高い、氷の皇女。いったいどんな女が現れるのか。何を企んでこの国へやってくるのか。――そう警戒する気持ちのさらにその奥で、もっと別の、もっと個人的な何かがかすかに疼いていた。
まさか、と打ち消しながらも、その正体をアルベルトはまだ掴みかねていた。
「……来たか」
グレイが小さく呟いた。
謁見の間の大扉が、ゆっくりと開かれていく。
そして――彼女が現れた。
一歩、また一歩と、深紅の絨毯の上を進んでくる。
歳のころは十七、八か。豪奢な、しかし華美に過ぎぬドレスに身を包んだ一人の少女だった。
雪のように白い肌。腰まで届く、月光を紡いだような銀色の髪。そして深く澄んだ、菫色の瞳。その美しさは、この場に居並ぶ誰もが思わず息を呑むほどのものだった。
しん、と。あれほど張りつめていた謁見の間が、その姿を前に水を打ったように静まり返った。フォルティニアの誇る目利きの重臣たちでさえ、しばし言葉を失っている。敵国の皇女と頭ではわかっていながら、その目は否応なく彼女の姿に吸い寄せられていた。まるで一幅の名画。あるいは、精緻を極めた一体の人形のように。
だが、それ以上に人々の目を引いたのは、その表情だった。
完璧なまでに整った顔に浮かぶのは、一切の感情を映さぬ凍りついたような無表情。微笑むでもなく、強張るでもなく、ただ静かに冷ややかに前を見据えている。まるで、精巧に作られた氷の彫像が命を得て歩いているかのようだった。
――氷の皇女。
その二つ名はすでにフォルティニアにも伝わっていた。アルセリア帝国の第一皇女はけっして笑わぬ。たとえ笑ったとしても、それは見る者の背を凍らせるような冷たい微笑みだという。征服した国々をその細い手で容赦なく統べる、冷酷な女――。
噂は噂にすぎぬ。アルベルトはそう思っていた。
だが、いま目の前を進んでくる少女を見て、その噂がけっして誇張ではないのだと思い知らされていた。
少女のすぐ後ろには、二人の人物が付き従っていた。
一人は、見上げるほどの長身の偉丈夫。鋼のような肉体に、歴戦を物語る古傷。腰に佩いた大剣は飾りではなく、確かな実戦の道具だと一目でわかる。鋭い眼光は、油断なく謁見の間全体を見渡していた。皇女の護衛騎士――帝国の将軍、ギュスターヴである。
もう一人は、すでにアルベルトも見知った顔だった。柔らかな笑みを絶やさぬ男――先日、使者として訪れた外交官、デブリアだ。今回は皇女に付き従う形で、再びこの地を踏んでいた。
少女――シャーロットは、玉座の前まで進むと、優美な所作で一礼した。
「お初にお目にかかります。アルセリア帝国第一皇女、シャーロット・セリアンドルと申します。フォルティニア国王陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく」
澄んだ、よく通る声だった。だが、その声もまた氷のように冷たく、温度というものを欠いていた。
「うむ。フォルティニア王、マクシミリアンである。皇女殿下、遠路はるばる、よくぞ参られた」
マクシミリアンが鷹揚に応える。
「此度はわざわざ謝罪のために、貴き御身を運んでくださったとか。痛み入る」
「いいえ。当然のことにございます」
シャーロットは表情ひとつ動かさずに続けた。
「此度、フォルティニアとの国境において、帝国の騎士団が無用の騒擾を引き起こし、貴国を煩わせましたこと――まことに遺憾に存じます。皇帝陛下に成り代わり、この場を借りて心よりお詫び申し上げます」
深々と頭が垂れられる。銀色の髪がさらりと流れた。
それは形の上では、非の打ちどころのない謝罪だった。一国の皇女が自ら異国へ赴き、頭を下げる。これ以上の礼はありえないだろう。
だが――その言葉には心がまるで籠っていなかった。
謝罪の言葉を口にしながら、シャーロットの瞳には悔いも恥じらいも、何の感情も浮かんでいない。まるで、あらかじめ決められた台本を淡々と読み上げているかのようだった。詫びているのではない。ただ、詫びるという手続きをこなしているだけ。
この場の誰もがそれを感じ取っていた。
そして、それこそが帝国の狙いなのだ、と。
謝罪のために皇女を送る。形の上で、これ以上ないほど誠意を尽くしてみせる。だが、その実、込められた心はない。――フォルティニアよ、我らはこうして頭を下げてやっている。文句はあるまい。これで貸し借りはなしだ。そういう傲慢な意思が、その冷ややかな所作の奥に透けて見えるようだった。
居並ぶ重臣たちの何人かが、その白々しさにぴくりと眉を動かした。傭兵を裏で雇い、国境に騎士団まで差し向けておきながら、今度は皇女を寄越して、心のない詫びを口にする。なんという人を食った話か。だが――誰一人、それを表に出す者はいなかった。ここで気色ばめば、それこそ相手の思う壺。冷静さを失ったほうが、この見えざる戦の敗者となる。一同は、腹の底の煮えたぎりを鉄の意思で抑えつけていた。
宰相ヴィクターだけがその鋭い目をわずかに細めて、シャーロットを観察していた。長年帝国と渡り合ってきた老獪な宰相の目が、何かを探るように皇女の一挙手一投足を静かに追っている。氷のような無表情。完璧すぎる謝罪。その奥にヴィクターは、何か言い知れぬ違和感を覚えていた。だが、その正体まではまだ掴めない。
「皇女殿下のお心遣い、しかと受け取った」
マクシミリアンもまた海千山千の王である。相手の意図を見抜きながら、おくびにも出さず、穏やかに応じた。
「両国の友誼が、此度のことで揺らぐことはない。皇帝陛下にも、どうかそうお伝えいただきたい」
「時に、皇女殿下」
マクシミリアンが穏やかな声で続けた。
「遠路、長の旅路でお疲れであろう。よろしければしばし我が国に逗留され、フォルティニアの風物をゆるりとご覧になっていかれてはいかがかな。両国の友誼を深める、よい機会とも存じるが」
社交辞令の体を取りながら、その実、探りであった。すぐに帰るのか、留まるのか。留まるなら、その狙いは何か。マクシミリアンは皇女の真意を引き出そうとしていた。
「お心遣い、痛み入ります」
シャーロットはにこりともせず応えた。
「なれど、わたくしは謝罪の使命を帯びて参った身。その役目を終えた今、長居はかえって貴国のご迷惑となりましょう。数日のうちには暇乞いをさせていただく所存にございます」
取り付く島もない、冷ややかな返答だった。
マクシミリアンはそれ以上踏み込まなかった。深追いをすれば、かえって警戒される。老練な王は引き際というものを心得ていた。
「ありがたきお言葉。皇帝陛下もさぞお喜びになりましょう」
形ばかりの言葉が、形ばかりに交わされる。
謁見は滞りなく、そして驚くほど淡々と進んでいった。
アルベルトはその一部始終を、静かに見つめていた。
いや――正確には、シャーロットから目を離せずにいた。
胸の奥がざわついていた。それは帝国の傲慢さに対する怒りとは、また別の感情だった。
懐かしさ。戸惑い。そして――胸を締めつけるかすかな痛み。それらがない交ぜになって、アルベルトの内側を絶え間なく掻き乱していた。
まさか、そんなはずは。何度もそう打ち消そうとした。だが、見間違えるはずもなかった。たとえ十一年の歳月が流れていようと、たとえその面差しが、あどけない幼子から一人の凛とした女性へと変わっていようと――忘れられるものか。あの夜、あの星空の下で出会った、たった一人のあの少女を。
あの銀色の髪。あの菫色の瞳。あの鈴を転がすような――いま凍りついてしまった、あの声。
アルベルトは彼女を知っていた。
ずっと昔。まだ二人が幼かったころに、言葉を交わしたあの少女。
――シャーロット。あれは本当に、あのときの君なのか。




