第99話 苟日新、日日新、又日新《まことにひにあらたに、ひびにあらたに、またひにあらたなり》
【巻ノ二・残頁玖拾玖:『大魏官職考・雑項科』残巻】
「凡そ天下の官、清濁自ずから分かる。清官は文墨を掌り、濁官は殺伐を行う。唯だ雑項の一科のみ、清濁の間に処す。上は天道の讖を承け、下は鬼蜮の私を掩う。乃ち天下の利刃にして、百官の避諱する所なり」
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謝必安は糊の利いた清潔な青緑色の拾遺官服をまとい、懐にずっしりと重い金色の銜蝉を抱え、肩に高慢な風情の阿奴を乗せて、司天監の正門の敷居を堂々と跨ぎ越えた。
前庭に足を踏み入れるや否や、以前とは打って変わった華やかな光景が目に飛び込んできた。 かつての薄暗くカビ臭かった回廊には真新しい水磨きの青煉瓦が敷き詰められ、両側の詰め所の前では、普段は鼻を高くしている通事舎人や霊台郎、保章正といった役人たちが、分厚い書類や符巻を抱えて慌ただしく行き交っていた。彼らは金猫を抱き、腰に烏木の短棒を差した謝必安の姿を認めるや、一斉に足を止め、その顔色を目まぐるしく変化させた。 警戒、畏怖、そして取り繕うような露骨な追従の笑み。
「謝拾遺……お戻りで?」 「謝拾遺、ご無沙汰しております」
普段は雑項科など歯牙にもかけない保章正たちが、競うように柱の脇へ退いて道を空け、ぎこちない笑みを浮かべて拱手した。
謝必安は笑みを浮かべて会釈を返したが、心底では冷笑していた。世間というものは現金なものだ。一昨日の大安門での大立ち回りが都中に知れ渡った今、この目の肥えた神官どもでさえ尻尾を巻いて愛想を振りまくようになったというわけだ。
前庭の詰め所を抜けると、正面に聳え立つ主殿「穹楼」が現れた。尋常の役所の左右対称な造りとは異なり、八卦の配列に則って建てられた外八角・内円形の特異な巨建築である。屋根には青瓦の代わりに特殊な研磨を施した無数の黒曜石が嵌め込まれ、塵一つ寄せつけず、陽光を浴びて深遠な夜空のような幽青の輝きを放っていた。
殿内に入ると、最も圧倒的な存在感を放っているのが中央の巨大な「渾天儀」であった。天頂の特製琉璃ドームへと伸び、下部は地下三層のからくり水路へと沈み込んでいる。幾重にも重なる青銅の円環が水力に駆動され、低く規則正しい「カチリ、カチリ」という音を立てて緩やかに交錯し自転していた。円環の回転に伴い、散りばめられた無数の水晶や宝石が二十八宿と正確に対応し、日光を細やかな光の帯へと屈折させて、殿内全体を白昼の星河の如く照らし出していた。
大殿の四方には通常の壁がなく、その周囲を取り巻くように、天を衝く「宣夜閣」がそびえ立っている。黄銅と紫檀で作られた巨大な書架が、円形の内壁に沿って螺旋状にせり上がり、天井を突き破らんばかりだ。歴代の星図や占術の符巻、天文日誌が隙間なく並べられ、厚い羊皮紙と松煙墨の香りが漂い、歳月の重みを感じさせる威圧感を放っている。
さらに奥へと進むと、「霊台」へと続く空中桟道が幾筋も架けられていた。腕ほどの太さの精鉄の鎖で宙に吊るされ、一歩踏み出すたびに軋むような摩擦音を響かせる。桟道の下は底知れぬ暗室であり、歯車の噛み合う重い唸りと地下水路のせせらぎが微かに響いていた。司天監全体の巨大計器を駆動させる水利の中枢である。
改装前の薄汚れた面影は完全に払拭され、冷徹な青銅の機構、深遠な天文術数、そして皇室の圧倒的な威厳が見事に融合していた。精緻極まりない巨大時計のようでもあり、俗世を超越した神仏の神殿のようでもある。
謝必安は目を丸くし、心の中で舌を巻いた。 『おいおい、司天監のやつら、大荒で金鉱を掘り当てたどころか、秦の始皇帝と漢の武帝の陵墓を丸ごと引っ越してきたんじゃないだろうな!』
懐の銜蝉が何かを感じ取ったのか、まん丸な頭を傾げて小声で念話を送ってきた。『親父ぃ、何でそんな興奮してんだ? こんなのが凄えのか? 俺様に言わせりゃ、水晶の小魚の干物を敷き詰めた方がよっぽどマシだぜ。阿奴、そう思わないか?』
肩に乗る阿奴の精緻な顔には一片の感情も浮かばず、ただ尾の先を鬱陶しそうに二度パタパタと振って返事の代わりとした。
謝必安は苦笑した。「この教養のない奴らめ! これは人類の灯台であり、文明の至宝であり、建築の奇跡であり、世界の驚異だぞ……まあいい、言うだけ無駄だな。お前らの目には、全世界の富を集めても一杯の朝露と干物一本に敵わないんだからな」
彼が壮観な光景を眺めていたその時、内院の月洞門の奥から灰色の袍服をまとった中年の書吏が汗だくで駆け寄ってきた。遠くから謝必安の姿を認めるや、深々と頭を下げて揉み手をし、満面の笑みを浮かべた。「これはこれは! 謝拾遺様! ようこそお戻りになられました! 監正様より早朝からここでお待ちせよと仰せつかっておりまして、ご案内申し上げます。新しくあてがわれました公房をご案内する前に、まずは正気堂にて監正様がお茶をお淹れしてお待ちでございます!」
謝必安は懐で目を細める金猫を撫でながら、薄笑いを浮かべて男を見定めた。「新しい公房だと? 雑項科のあの隙間風だらけのボロ小屋が、もしや修繕されたとでも言うのか?」
「謝拾遺様、ご冗談を!」書吏は急いで前に出て先導し、声を潜めて媚び諂った。「この度の大任、天子の遺詔を太廟へ送り届けられた大功績は、まさに天地を揺るがすものにございます! かつての偏院は先の騒動で全壊いたしましたゆえ、監正様が直々にお口添えなさり、監内で最も格式高い『天枢院』に丸ごと一つの独立した別院を雑項科の公房として賜りました! 門前には天象科の重鎮の手により、三重の辟邪聚霊陣まで敷かれております!」
書吏は歩きながら、得意げに内情を吹聴した。「謝拾遺様はご存じないかもしれませんが、この一月の間、千糸叟の老賊が密かに外敵と内通し天子の遺詔を強奪せんと企てたところを、監正様が雷霆の手腕をもって生け捕りにし、謝拾遺様のご帰還をお守り立てなされたことになっております! 監正様はその功をもって戸部へ上奏し、神器を守護せし司天監の損害甚大なりと痛切に訴え、国庫から莫大な……コホン、修繕費と慰労金をまんまと引き出されたのでございます! この役所が一新できましたのも、偏に謝拾遺様のおかげでございます!」
謝必安は目元を引き攣らせ、心の中で悪態をついた。とんだ老狐め! 一昨日、千糸叟を簀巻きにして袁監正の足元へ放り投げたばかりだというのに、あのジジイは一晩で罪状を「外敵との内通」に仕立て上げ、身内の不始末を忠勇なる討伐劇へと塗り替えた上に、戸部から巨額の予算を毟り取ったのだ。この帳簿の誤魔化しと責任転嫁の手腕、現代の悪徳企業の粉飾決算より遥かに手慣れてやがる! だが……謝必安は眉をひそめた。話の辻褄がどうにも合わない。横から見ても縦から見ても、理由を後から無理やりこじつけたようにしか思えなかった。そもそも、今の朝廷の国庫に、そんな大金をぽんと吐き出す余裕などあるはずがないのだ。 何かがおかしい。裏に別の仕掛けがあるはずだ。
「着きました、謝拾遺様、こちらが正気堂でございます。監正様がお待ちです」書吏は彫刻扉の前で足を止め、重い帳を恭しく押し上げた。
謝必安は袖を払い、足を踏み入れた。
「正気堂」と名付けられた執務室は広大で、四隅には丈余の赤銅の双耳香炉が立ち、濃厚な沈水香が静かに立ち上っていた。床には分厚い羊毛の絨毯が敷かれ、足音一つ立てることはない。
執務卓の後方、広々とした黄花梨の椅子に袁監正が端座していた。新調の紫の暗紋が施された監正官服をまとい、白髪と髭は一分の乱れもなく整えられている。ただ、頬や首筋に浮かぶ深褐色の老人斑だけが、依然として生き物の如く皮膚の下で蠢いていた。
「監正様、謝必安、ただいま復命に参りました」
謝必安の姿を認めるや、袁監正の気難しい老顔に、珍しく温和な笑みが浮かんだ。 「戻ったか。座れ、顧渚紫筍を淹れよ」
袁監正が袖を払って合図すると、侍従の道童が熱い茶を運んできた。老人は冷ややかに命じた。「下がれ。十丈以内に人を近づけるな」
「御意」道童と従者たちが一礼して退出し、楠木の重い扉が固く閉ざされた。
部屋には二人と二匹だけが残された。
謝必安は客席に腰を下ろし、茶器を手に取って茶の泡を払い、気のない口調で言った。「監正様がこれほど丁重にもてなしてくださるとは、下官も恐縮いたします」
袁監正は茶を一口すすり、深淵のような眼差しで彼を見据え、単刀直入に切り出した。「千糸叟の件は、監の方で綺麗に片付けておいた。あの老いぼれは欲に目が眩んで逆賊と通じたゆえ、昨夜、暗牢にて暴死し伏誅した。対外的には……『逆賊を追討し、力尽きて殉職せり』との名目を立て、朝廷から慰労金を出させ、双方の面子を立てておいた」
謝必安は目を上げ、薄笑いを浮かべた。「それだけですか? 俺に一言の確認もなく?」
「そういうことだ」袁監正は表情一つ変えず、波風の立たない声で応えた。
謝必安は合点がいったように頷き、人差し指を老人に向けた。「なるほどな」 言葉が終わらぬうちに、彼は不意に低く問いかけた。「……で、あの村人たちはどうなりました?」
袁監正は謝必安に目を向けることすらしなかった。「何の村人だ?」
「千糸叟のジジイに惨殺された、罪なき村人たちのことです」
「ああ、あの『逆賊』に害された民のことか」袁監正は急ぐ様子もなく茶の蓋を弄び、抑揚のない声で返した。「司天監が慣例に従い速やかに賑恤し、すべて適切に処理し終えた。そうであろう?」
謝必安は目を見開き、袁監正をじっと凝視した。老人は平然と茶を味わい、微塵も動じる様子を見せなかった。
室内に目に見えない緊張が走る中、傍らの銜蝉はこの腹の探り合いを退屈極まりないと感じたのか、部屋中をのそのそと歩き回り、あちこちの匂いを嗅ぎ回っていた。阿奴に至っては、とっくに豪奢な太師椅子を占拠し、丸くなって目を閉じて微動だにしなかった。
空気が強張ったのを察したのか、袁監正は軽く咳払いをし、何事もなかったかのように口を開いた。
「今回の働きは見事であった。司天監の面目を大いに立ててくれたな」袁監正は微笑み、袖から精巧な赤金の令符を取り出すと、静かに謝必安の前へ押し出した。「老夫がすでに吏部へ具名上奏し、大魏の旧例に則り、監内の評議をもって其方を雑項科の『掌印令』に昇進させることとした。従五品の官位である。今後、雑項科の一切の独立採算、物資の調達、さらには任務先で回収した妖丹や秘宝の処分権に至るまで、すべて其方の一存で決裁してよい。他科への伺いや報告は一切不要だ」
これは破格の権限であった。雑項科を丸ごと謝必安の私領地として明け渡したに等しい。
謝必安の頭は冴え渡っていた。彼は軽く息を吐き、金符を袖に収めると、何気なく尋ねた。「雑項科には他にも先輩方が何人かおられたはず。そろそろ戻られる時期かと思いますが、どうして今回は影も形も見当たらないのですか?」
袁監正の目が微かに揺れ、息をついた。「大魏の四方は乱れ、妖患が頻発しておる。数日前に老夫が辺境各地の鎮圧へと派遣した。当面の間は……戻れまい」
謝必安は顔色を変えなかったが、胸中では冷笑を禁じ得なかった。この昇進と特権は、どう見ても口止め料だ。だがこの老狐、わざわざ雑項科の古参どもを全員追い払ってまで、自分にこの場所を丸ごと明け渡して何を企んでいるのだ?
袁監正は上体をわずかに前へ傾け、指先で卓をトントンと叩いた。何気ない口調を装いながらも、その瞳には鋭い試探の光が宿っていた。「必安よ、明日は太廟にて宣詔の大典が執り行われ、文武百官と宗室が一堂に会す。遺詔が布告されれば、朝野は必ずや激震に見舞われよう。先帝崩御の折に御前に侍っておった其方だが……明日の大典の席上、いかに奏上するか腹は決まっておるのか?」
謝必安は老人の視線を受け止め、心の中ではとっくに筋書きを固めていたが、顔には、どこから見ても恐縮しきった下っ端役人そのものの表情を浮かべてみせた。
「監正様、あの時は国師の残党の攻撃を受けて魂を激しく損耗し、意識も朦朧としておりました。先帝崩御の折には神光が天を衝き、下官はただ頭を抱えて泣き崩れるばかり。遺詔を建康へ持ち帰ることが叶いましたのも、偏に先帝の御霊のお導きと、大安門外での武陵王爺様と監正様の天威の賜物にございます! 下官は単なる使い走りの下っ端に過ぎませぬ。大典におきましては、すべて上官の皆様のご英断に従うのみ、下官ごときが朝堂の大計など理解できるはずもございません」
袁監正は謝必安の誠実そのものに見える無垢な顔をしばし凝視したが、この厚顔無恥な面の皮から一片の綻びも見つけ出すことはできなかった。
老人は諦めたように息を吐いて手を振ると、机の上から明黄色の絹で装丁された金箔押しの招待状を差し出した。「明日、辰の刻、遅れることなく太廟へ参上し観礼せよ。決して体面を汚すでないぞ。それから、今回の任務の顛末を考功司へ届け出ねばならん。戻り次第、速やかに詳細な結案報告書を認めて提出せよ」
「謹んで仰せに従います。監正様のご期待を裏切ることはございません」
謝必安は両手で招待状を受け取り、恭しく拝礼した。そして身を屈め、丁寧に言った。「他にお言いつけがございませんでしたら、下官はこれにて失礼いたします」
袁監正は淡々と手を振った。
謝必安が三歩下がり、背を向けようとしたその瞬間、背後から袁監正が不意に一言を付け足した。
「鏡妖司のあの小僧と口裏を合わせておけ、分かっておるな? それから、明日の大典が終わった後は他所へ行かず、真っ直ぐ監へ戻ってこい。其方に……会わせたい者がおる」
謝必安は足を止めることもなく、返事すら返さず、ただ背後へ適当に手を挙げて拱手してみせた。 踵を返した瞬間、謝必安の口元から笑みが消え失せた。そして彼の背後では、袁監正もまたその背中を見つめながら、双眸の奥に底知れぬ陰りを沈ませていた。
敷居を跨いだ途端、謝必安の全身から緊張が抜け落ちた。衣を正し、部屋に残っていた二匹の猫へ顎をしゃくった。「デブ、阿奴、行くぞ。雑項科の新しい縄張りを見に行くぞ」
それを聞くや銜蝉が駆け寄り、軽やかに懐へと飛び込んできた。阿奴も一跳びで宙を舞い、身を滑らかに捻って謝必安の右肩へと降り立った。
一匹を抱き、一匹を肩に乗せ、衛兵に道を尋ねた。一人と二匹は曲がりくねった渡り廊下を抜け、天枢院の片隅にある独立した静閑な別院の前へと辿り着いた。
真新しい門を押し開けると、敷地は確かに広々として清閑だった。だが大広間に足を踏み入れるや否や、謝必安は愕然として立ち尽くした。 広大な部屋の中には四方の壁と剥き出しの床があるばかりで、机も椅子も茶器一つすら置かれていなかったのだ。
謝必安はがらんとした大広間の中央で腰に手を当て、口角を引き攣らせた。「冗談だろ……監のドケチどもめ、あれだけの大金を毟り取っておきながら、俺にボロ椅子一つ宛てがう金すら惜しんだってのか? これでも大功を立てたベテラン新人だぞ、こんな待遇すらピンハネされるのかよ」
銜蝉が懐から飛び降り、だだっ広い床の上を一周して太い尾を振った。『親父ぃ、前のボロ小屋よりずっと広えけどよ、寒々しくて霊堂みたいだな。まずは真ん中にデカくてふかふかの寝台を買って置こうぜ!』
阿奴も優雅に尾の先を揺らし、同調するように告げた。『妾は専用の玉瓷の集露器と、窓際の一番陽当たりの良い場所に置く敷物を所望する』
言い終えるや彼女は軽やかに跳躍し、窓枠の上へと舞い降りた。裏庭の方角へ目を細めると、喉の奥から微かな鳴き声を漏らした。何やら尋常ならざる気配を察知したようだった。
謝必安は脇戸を抜け、裏庭の坪庭へと足を踏み入れた。
そこには、四つの車輪と壊れた底板だけになったあのオープンカーの残骸が、古い槐の木の下にぽつんと置かれていた。
そして、その剥き出しの床板のど真ん中に、半尺ほどの大きさの烏木で彫られた小さな木偶が、堂々と胡座をかいて鎮座していたのだ。木偶は精巧極まりなく、黒光りする木肌が木漏れ日の中で怪しい光を放っている。
謝必安の目元が激しく痙攣した。こめかみを押さえて深いため息をつく。「嘘だろ……司天監はお前の実家の勝手口か? 来たい時に来て去りたい時に去るのかよ。後で袁のジジイと警備体制について小一時間問い詰めなきゃならんな」
言い終わるが早いか、その烏木の木偶がまるで命を宿したかのように突如として動き出した!
『フシャーッ!』
阿奴と銜蝉が一瞬にして全身の毛を逆立て、背を丸めて威嚇の唸り声を上げ、その奇怪な木偶を睨みつけた。
木偶は車板の上でコトコトと立ち上がり、両手を腰に当てると、あり得ない角度で首を謝必安へ向け、木製の口を開いた。そこから漏れ聞こえてきたのは、あの師姉の冷徹で辛辣な美声であった。
「あら、小七、随分と腕を上げたじゃない。都へ戻るなり、私が手ずから誂えた馬車をこんなボロ棺桶の蓋に成り果てさせるとはね。白銀八千両、一文たりとも負けないわよ……分かってるわね?」
謝必安が顔を顰め、値切りの文句を口にしようとしたその時、木偶が猛然と腕を突き出し、彼の手元を指差した。
掌の中に突如として一枚の白い宣紙が虚空から現れた。謝必安が受け取るや否や、紙は自然発火した。燃え尽きる寸前、そこに流麗な女文字で記された一筆が、鮮明に彼の網膜を灼いた。
「あなたの右腕の妖骨……あの時は私が安易に考えすぎていたわ。けれど、少し手がかりが掴めたから心配しないで。いいこと、絶対に誰にもその右手を触らせては駄目よ」
シュゥゥ……。
最後の文字を読み終えた瞬間、紙は一筋の煙となって掻き消えた。
木偶は自らの丸い腹をポンと叩くと、車輪から飛び降り、壁際へと小走りで駆け寄った。その場で何度か回り、地面を踏みしめると、両足を土の中へと力任せに突き刺した。風を受けるや見る見るうちに巨大化し、瞬く間に青々と葉を茂らせた平凡な一本の小木へと姿を変え、その気配を完全に消し去ってしまった。
謝必安はその場に立ち尽くし、小木を見つめて長く重い息を吐き出した。「安易に考えすぎてただと? 心配するなだと? 頼むぜ師姉様よ……そんなこと言われたら、泣きゃいいのか、笑えばいいのか分からねえよ」
入る時は春風満面、出る時は親の仇にでも遭ったような顔。今の謝必安の心境はまさにそれであった。
司天監の正門を出ると、肌寒い風が吹き抜けた。 宿へ戻って二度寝を決め込むか、朱雀街の酒楼へ繰り出して旨いものでも食って気分転換をするかと思案していた矢先、通りの角の物陰からすらりとした人影が姿を現した。
沈無が相変わらず身軽な黒袍姿で、百辟喪門刀を提げて大股で歩み寄ってきた。
「老沈?」謝必安は眉を上げた。「なんでここに?」
沈無は静かな面持ちで歩み寄り、声を潜めて言った。「さっき四海居へ行ったら、給仕がお前は司天監へ向かったと言うので、ここで待っていた。俺の側の後始末はすべて終わった。今回の任務の調書も大枠は書き上げてある。お前の方はどうだ? 済んだのか?」
「まあな」謝必安は応えた。「宿へ戻って報告書を書けば、今回の仕事もおしまいだ」
少しの間を置いて、沈無の顔に気まずそうな色が浮かび、珍しく口籠りながら言った。「その……姚指揮使から言伝を預かっていてな。あの八万両の白銀、いつ引き渡すつもりかと尋ねてくれと」
謝必安は口角を引き攣らせた。「おいおい、天下の鏡妖司が、そんなはした金に困ってるのかよ?」
「困らないわけがあるか」沈無は首を振って苦笑した。「ここ数日、鏡妖司の連中は司天監が成金のように金塊を運び込み、玉石を積み上げて、役所を宮殿のように建て直すのを指をくわえて見ていたんだ。姚指揮使は毎日執務室で怒鳴り散らして、嫉妬で目を血走らせているぞ。それから……」
沈無は袖から同じく明黄色の招待状を取り出し、謝必安に見せた。「明日、辰の刻、太廟での宣詔の大典だ。武陵王と諸公の間で話がついた。一月あまり宙に浮いていた帝位の行方は、明日、太廟にて決着がつく」
謝必安はその招待状を一瞥したが、驚く様子はなかった。「さっき監正からも同じものをもらったよ。根回しは済んでる」
そう言うと、彼は腰の『驚蟄』をポンと叩き、ニヤリと笑った。「よし、老沈、行くぞ! 四海居へ戻ろう。まだ日は高い、お前の書いた調書の内容を最初から全部聞かせてもらおうじゃないか。監正は適当な落としどころをつけてくれたが、後から文句をつけられないよう、今のうちに口裏をきっちり合わせておかなきゃな!」
†
【司天監内部メモ】
司天監雑項科においては、毎日怠けて過ごす者は恐れられない。本当に恐ろしいのは、若くして有能すぎることだ。俺に昔、同期がいなかったとでも思うか? まさか。俺を含めて、かつて身の程知らずの若者十名が揃って配属されたが……今残っているのは、俺一人だけだ。




