第100話 人事有代謝《じんじにたいしゃあり》
【巻ノ二・残頁壹百:『大魏天策・太廟篇』残巻】
「太祖誓約す。天子崩ずれば、詔は金匱に入る。宣詔の日、群臣粛として聴け。凡そ詔の上に名有る者は、皆天命の護る所と為る。刀兵は体を避け、血煞は身を退く。縦い利を朱門に奪うとも、亦た害を加うること難し。若し天命散ずれば、則ち禍福は自ら承けよ」
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朝の光が建康の城壁を越え、晩秋の薄霜を次第に淡い白い湯気へと変えていく。高い城壁の裾や太廟の石段の陰に生えた苔に朝露がわずかに残るほか、帝都全体は遥かに響く暁の鐘の音と共に目を覚ましていた。
太廟は宮城の東南に位置する。 三百年もの風雪を耐え抜いたこの皇室の祖廟は、前朝の廃墟に残された青黒い巨石を礎として築かれ、石の隙間には深褐色の古い苔がびっしりと生い茂っていた。その上には、本朝の太祖が改築した赤金の琉璃瓦の重檐と朱塗りの巨柱がそびえ立っている。古き漢魏の石刻と大魏の豪奢な頽廃がこの場で交錯し、金泥の刻字の一画一画が重苦しい威厳と時代の黄昏を漂わせていた。
今日の太廟の丹墀と周囲の御道は、禁軍の各部隊によって蟻の這い出る隙もないほど厳重に封鎖され、張り詰めた殺気が満ちていた。 武陵王配下の重明衛が重鎧をまとい長戟を手に鉄壁の如く正門を固め、禁裏の金吾衛は刀の柄を押さえて通路の両脇に直立している。廷尉府の黒甲兵と鏡妖司の密偵は外囲の高楼や物陰に散らばり、互いに油断なく睨み合っていた。
白玉の石段の下には、文武百官が官位の順に従って雁の羽のように整然と列を成していた。 群臣は皆、揃いの深紅の広袖長袍を羽織り、白の曲領の中衣を重ねている。燃え盛る火のような赤色の衣が朝風に激しく翻る。 武陵王・司馬衍、謝太保、王司徒、羊太尉、袁監正、そして姚指揮使といった重臣たちが、粛然たる面持ちで文武の筆頭に並び立っていた。
謝必安は二梁の進賢冠を頭に戴いていた。鉄骨に黒紗を張った、前が高く後ろが低い冠である。従五品・雑項科掌印令の錦袍には皺一つなく、腰には青・白・赤の三彩の青綬を結び、赤金の印符を提げ、手には玉の笏を捧げ持って、司天監の隊列の中央に堂々と立っていた。 この格式高い朝服は昨夜、司天監がわざわざ四海居へ届けさせたものだ。旅籠で一騒動起きたが、謝必安が自腹を切ってその場の全員に酒を奢り、事なきを得ていた。 銜蝉と阿奴については、大典の堅苦しい儀礼に連れ回すのも面倒ゆえ、宿で泥のように眠らせておいた。
謝必安が首をわずかに傾げ、整然と並ぶ儀仗の列越しに右手へ目をやると、右手の鏡妖司の列にいる沈無と視線がぶつかった。 沈無は相変わらず黒袍をまとい、刀に手を掛けて直立している。昨夜四海居で綿密に打ち合わせを済ませていた二人は、視線を交わすなり瞬時に逸らした。
ゴォォン――ゴォォン――ゴォォン――。
九つの重々しく澄んだ鐘の音が天蓋を震わせた。 吉時が訪れた。
太常寺卿が朱塗りの盆を捧げ持った。盆の上には古色蒼然とした光を放つ赤金の鍵が据えられている。四爪の袞龍袍を纏った武陵王・司馬衍を先導し、祭壇の最上層へと一歩ずつ歩みを進めた。 石室のからくりが重い地鳴りを立てて作動し、太祖を祀る金匱の扉が音を立てて開かれた!
グォォン――。
金匱の深部から龍の唸り声が響き渡った。先帝の精血に染まった九龍綾錦の血詔が、幾筋もの眩い金光に包まれて石匱から宙へと静かに浮かび上がり、風もないのに自ら開かれた! 交錯する金光の中、先帝の巨大で曖昧な虚影が詔書の上に立ち現れ、浩瀚なる帝威が太廟全体を包み込んだ。
白玉の石段の下で、文官は一斉に頭を垂れて拱手し、武官は揃って片膝をついた。宙に浮かぶ先帝の虚影が、手を軽く掲げる仕草を見せると、百官はようやく身を起こし、息を殺して直立した。
続いて、しゃがれた甲高い宦官の声が虚空を突き抜け、太廟の上空に木霊した。 かつて肉泥と化して果てた大魏中書通事舎人――魏無疾が、生前に詔を認めた折、術法によって吹き込んだ遺詔の残音であった。
「門下。古より帝王天を承けて宇を御するや、必ず忠奸を弁じて以て社稷を正す。朕は菲徳を以て大業を継承せしが、皇太子悖逆して徳を失い、妖道・李泌と陰に通じ、妖邪を引き入れて宮中を穢し、国家を揺るがさんと謀れり。祖宗の加護と天道の照鑑に頼り、逆党は悉く天誅に伏せり……」
「朕、大漸にして崩御近し。天命久しく空しゅうす可からず。皇九子は幼くして聡明、且つ純孝にして、大器を託すに足る。大統を継ぎ、帝位に即かしむべし。新君幼少なるを念じ、特に大将軍・司馬衍に勅命を下し、太保、太尉、司徒と共に顧命を奉じ、力を協せて政を輔け、天下を安んぜしめん!」
石段の前列で、謝太保、王司徒、羊太尉の目元が微かに動き、それぞれ複雑な表情を浮かべた。 祭壇の脇に立つ武陵王・司馬衍も、「大将軍と三公が共に顧命を受く」と読み上げられ、己一人の摂政監国とはならなかったことに眉をわずかに動かしたが、すぐに平静を取り戻した。
後ろ盾となる外戚を持たぬ十歳の幼帝を立て、権力を数名の重臣に分散させる。誰も独裁を許されない。苦い妥協ではあった。だが、どの陣営も呑める落としどころは、結局これしかなかった。
遺詔はなおも続き、しゃがれた声音は一段と鋭さを増し、老皇帝の臨終の冷徹な殺意を帯びて響き渡った。
「大魏の四方の龍脈動揺し、妖気天を衝く。司天監は即日、重臣と共に天下を巡察し、四方の地脈を再調査して国家の守りを固めよ!」
国政の大局を布告し終えると、魏無疾の凄惨な声が一段高く跳ね上がった。
「鏡妖司千戸・沈無、職務を離脱せりと雖も、神器を護りし功績は不世出なり。特に其の罪を赦し、金吾衛郎将の官位を賜り、世襲罔替とす!」
破格の恩賞に百官が息を呑む間もなく、魏無疾の声は天を舞う金光を伴い、群臣の頭上へと容赦なく降り注いだ。
「司天監雑項科拾遺・謝必安――妖邪を誅殺し、護駕の功あり。拾遺の本職はそのままに、特に司天監左少監の兼務を許し、永安県男の爵位を加え賜う。緋色の官服を賜り、御前免跪、専摺密奏、三法司の勘問を受くることなき特権を許す!」
しゃがれた残音がわずかに途切れ、遺詔の金光が一層眩く燃え上がった。
「別に城南永安坊なる元戸部尚書の五進の大屋敷一所を賜う。内帑の庫銀より特に白銀八万両を給付し、其方に全権を委ね、雑項科の役所を再建せしむ!」
謝必安は目を伏せ、頭を上げなかった。 耳の奥で、死に際の老皇帝の息も絶え絶えな声が甦っていた。
――奴らがお前を捨てても、朕がお前を拾う。
ドォォン!
甲高い残響が消えぬうちに、白玉の石段の下から抑えきれないどよめきが沸き起こった。 侍従が一喝する。「静粛に!」
正四品・左少監の実権、従五品・永安県男の爵位、一等地にある五進の豪邸、さらには免跪、密奏、司法免責の特権セット。極めつけは内帑からの白銀八万両の直轄給付。 一瞬にして、百官の視線が謝必安へと突き刺さった。前列の数名の官吏に至っては、手に持った笏を引っ込めることすら忘れて立ち尽くしていた。
最前列に立つ謝太保の、普段は古井戸の如く静まり返っている老顔が、今は青黒く強張っていた。袖の中で拳を固く握り締め、心の中で激怒と驚愕が渦巻いていた。先帝は何を考えておられたのだ? 謝家はこの厄介者を族譜から除名し、完全に縁を切ったはずであった。それなのに先帝の遺詔は太廟において満朝の文武の面前で、この一族の捨て駒に少監を兼務させ、男爵に封じ、豪邸まで賜ったのだ。黄泉の国からの天子の平手打ちが、天下の百官の眼前で、謝氏の顔面へと容赦なく叩き込まれたのである。
謝必安が遺詔を携えて帰京した際、謝府では彼が武陵王に身を売り、権貴の走狗に成り下がったのだと囁かれていた。昨日彼が妹を見舞いに戻った折も、高慢な一族の者たちは露骨な蔑みの目を向けていたのだ。 群衆の中に立つ謝必安は謝太保の視線を感じ取ったが、怯むどころか落ち着き払って一礼した。子孫としての拝礼ではなく、一人の同僚としての完璧な礼を、実の曾祖父へ向けて返してみせた。
この一礼に謝太保の胸は激しく波打ち、荒い息を吐いて百官の前で取り乱しかけた。昨日、屋敷で一族の嘲笑を平然と受け流していたあの態度も、すべて承知の上だったのだ。最初からこの小僧は、冷めた目で謝家全体の滑稽な茶番を見物していた――老人はようやくそう悟った。
一方、武官の筆頭に立つ鏡妖司の姚指揮使の陰険な顔は、怒りのあまり病的な赤みを帯びていた。 八万両! 雑項科再建のための八万両が、遺詔の中に明確に記されていたのだ。内帑から直接支出される以上、他人が横取りすることなど金輪際叶わない。 さらに姚指揮使を激怒させたのは、沈無の職務離脱の罪が先帝によって帳消しにされ、世襲の金吾衛郎将の官位まで下されたことだ。その上で、あの八万両は「雑項科の再建」という用途に完全に縛られている。 いくら欲に目が眩もうとも、先帝ご指定の内帑の専用資金に公然と手を伸ばすことなどできようはずがない。 やりおったな、謝必安。まだ手元にすら入っておらず、流用もできぬ金を餌にして、沈無を鏡妖司からまんまと奪い去りおったのだ!
殺気を孕んだ冷たい視線を受け止めながら、謝必安は振り返り、姚指揮使へ向けて太陽のように眩い笑みを浮かべ、軽く頷いてみせた。 その笑みは、指揮使の頭を棍棒でぶん殴ったかの如き衝撃を与えた。
「よくも……貴様ら二人揃って、謀りおったな……」姚指揮使は歯を食いしばり、震える唇から呪詛を絞り出した。 怒りが頂点に達し、目の前が真っ暗になり、足元がぐらりと揺らいだ。両脇の副将二名が青ざめ、慌てて目立たぬよう左右から腕を支え、辛うじてこの鏡妖司の巨頭が公衆の面前で卒倒するのを防いだ。
列の中にあって、王司徒は高みの見物を決め込んで謝家の失態を冷笑するつもりでいた。しかし「専摺密奏、三法司の勘問を受けず」という特権を聞いた瞬間、目元を激しく痙攣させ、異議を唱えそうになった。だが先帝の遺詔の威光を前に、進み出て異を唱える度胸はなかった。 かつて王家の放った刺客が謝必安を仕留め損ない、現行犯で捕らえられたことを思い出す。あの日、大安門の外で王家の権勢を笠に着て「無闇に人に噛みついて将来を棒に振るな」と言い放った己の言葉が甦る。 城南の荘園の惨劇が脳裏をかすめ、笏を握る指に思わず力がこもった。あの時放った警告は、あまりに早計に過ぎたと、老司徒は初めて思い知らされていた。
袁監正だけは相変わらず白髭を撫でて目を細め、謝必安を値踏みするように眺めながら、一言も発しなかった。 祭壇の上の武陵王・司馬衍は謝必安へ向けてわずかに頷き、続いて沈無へも賞賛の眼差しを送った。
金光が眩く満ちる中、あのしゃがれた声が最後に低く沈み込み、老皇帝が遺した最後の恫喝を響かせた。
「朕、眇躬を以て大業を託す。内外の文武、宗室の勲貴、当に自省し、職を尽くすべし。心を同じうして幼主を輔翼し、朕の意に背くなかれ! 敢えて禍心を抱き、隙を生ぜしむる者あらば、天下これを共に誅せん!」
「天下に布告し、悉く聞き知らしめよ。欽此!」
魏無疾の最後の甲高い声が、尾を引くように途切れた。 光が散りゆく最後の刹那、謝必安は先帝の虚影の瞳が、意味深に己を見つめたのをはっきりと感じ取った。
次の瞬間、先帝の虚影は完全に霧散し、遺詔は一筋の流光となって金匱へと戻り、機関の蓋が重々しく閉ざされた。 紅の衣の波が一斉に地面へ平伏し、百官の声が太廟を揺るがした。
「臣等、謹みて聖諭を奉じ、万死を以て先帝の重託に背きませぬ――!」
地を揺るがす叫びが太廟の上空を長く旋回した。 声が収まると、沈無は刀の柄を押さえて列を出て、片膝をついた。 「臣、沈無、聖恩に感謝申し上げます」
続いて謝必安が玉の笏を捧げ、落ち着き払った足取りで隊列から進み出た。 通路の中央に至り、完璧な礼を執って、澄んだ声で恐縮と謙譲を込めて奏上した。
「微臣、謝必安、天恩を拝謝いたします! 微臣、才浅く学疎くして大難に遭い、偏に先帝の天威と諸官の皆様方のご加護により、辛うじて五体満足で帰京仕りました。微臣、職務を全うし、先帝の広大なる恩寵に背かぬ所存にございます!」
隙のない定型句であったが、聞く者はそれぞれに己の思惑を巡らせていた。
やがて侍従の「大典、これにて畢る!」の声が響き、百官は三々五々に散開していった。
怒りを強引にねじ伏せた謝太保は、謝必安の脇を通り過ぎる際、一瞥もくれることなく、従者の謝忠に支えられながら「身の程を知れ」と冷酷に言い捨てて立ち去った。 王司徒は歩み寄り、吐き捨てるように「若くして有能だな」とだけ言い放つと、門生たちを引き連れて逃げるように馬車へと急いだ。 姚指揮使は深く息を吸って血気を鎮め、貼り付けたような偽りの笑みを浮かべて歩み寄ると、謝必安の肩を力任せに叩いた。「謝少監……見事な手並みだ。大層な出世だな! 二、三日のうちに、必ずや永安坊の屋敷へ祝いの茶を飲みに伺おうぞ!」 「いつでもお待ちしております」謝必安は満面の笑みで拱手した。
鏡妖司の笑い虎を見送るや否や、先ほどまで雑項科を忌み嫌っていた百官たちが群がり、祝いと追従の言葉を浴びせかけてきた。戸部と工部の役人たちは謝必安の腕を掴んで離さず、あの八万両をどのように支出するのかと揉み手をして探りを入れてくる。
人波に揉まれて身動きが取れなくなったその時、司天監の青布の役人服を着た若い小者が、人々の隙間を縫って滑り込んできた。 小者は謝必安の耳元へ口を寄せ、声を潜めて言った。
「謝少監様、監正様からの言伝にございます……直ちに司天監の奥殿へお戻りください。監正様が仰るには、あの貴人様が……すでに裏庭でお待ちかねとのことです」
謝必安の目が微かに動いた。『貴人だと……』
彼は役人たちに引っ張られて皺の寄った袖をそっと引き抜くと、愛想の良い笑顔を浮かべ、周囲へ大げさに手を合わせて頭を下げた。「諸官の温かきお言葉、骨身に沁みます! 永安坊の屋敷の片付けが済み次第、必ずや盛大な宴を催して皆様をもてなしたく存じます! ただ本日は監内に公務がございますゆえ、これにて失礼をば!」
言い捨てるや否や、謝必安は小者の先導に従い、羨望の視線を背に受けながら、幾重もの宮門を駆け抜け、そのまま司天監へと急いだ。
†
【司天監内部メモ】
司天監左少監(正四品):司天監の副長官。各州府の分部を統括し、重大な妖患に際しては地方の兵馬を徴発する権限を持つ。雑項科はこれをもって大出世を果たした。名義上は依然として司天監の配下だが、実質的な地位はかつてと天と地ほどの差がある。
永安県男(従五品):官職は任免されるが、爵位は身分そのものだ。この称号は謝必安が名実ともに勲貴の仲間入りを果たしたことを意味し、永安県の食邑と田租を不労所得として得られる。法理の上では、すでに独立した一門を構えることが可能となった。
保命の特権セット:免跪、密奏、司法免責。
五進の官邸:城南永安坊、元戸部尚書の屋敷。即入居可、住宅ローン不要。
八万両の内帑:天子のへそくり。雑項科再建の指定予算。戸部に監査の権限はなく、手出しもできない。
……
謝必安の本職および実務:雑項科拾遺、掌印令
兼務:司天監左少監事
爵位:永安県男
特殊皇権:免跪、密奏、三法司免責
【作者より】
気づけば、『世説新鬼』も第100話まで来ました。
連載を始めた頃は、ここまで書き続けられるのか、自分でも分かっていませんでした。
それでも一話、また一話と書き続け、こうして百話目を迎えることができました。
そして何より嬉しいのは、ここまで謝必安たちの旅を見守ってくださっている方がいることです。
百話は、物語の終わりではありません。
謝必安の物語も、まだ続きます。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
これからも、彼らと一緒にもう少し先まで歩いていただけたら嬉しいです。
銜蟬と阿奴が、これからも皆さまを守ってくれますように。
仔猫




