第101話 青玉案《せいぎょくあん》
【巻ノ二・残頁壹百零壱:『大魏密檔・鎖妖志』残巻】
「太祖定鼎し、九州を画して界と為し、後に拓きて十三州と為し、凶物を絶地に鎮む。高郵の地、煞気天を蔽い、地脈一たび動けば、則ち江淮震恐す。凡そ天子の節を持する者は、左手に生殺の権を執り、右手に万劫の淵を懸く」
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太廟の門外のざわめきは収まる気配もなく、謝必安は群衆の隙を突いてようやく抜け出し、大急ぎで司天監へと馬首を向けた。だが正門の敷居を跨いだ瞬間、胸の奥がきしりと嫌な音を立てた。案の定、匂いを嗅ぎつけた青袍の官吏や通事書吏どもが、雪崩のように押し寄せてきたのだ。
「謝少監、お慶び申し上げます! 異例の抜擢、天にも昇るご出世ですな!」 「謝少監、雑項科が大幅に増員するとか。手前、暦法科で長年冷や飯を食ってまいりましたが、地脈風水にも心得がございます。少監のお引き立てで、手前めにも一席……」 「若殿! 永安坊のあの大屋敷を差配する者がご入用では? 手前の一族に、大身の家政を取り仕切ることにかけては右に出る者のない者がおりまして……」
祝辞を述べる者、役職をねだる者、差配役を売り込む者、あからさまに擦り寄ってくる者。回廊は身動き一つ取れぬほど埋め尽くされていた。人の波に揉みくちゃにされ、着慣れぬ絳紗の広袖長袍は見るも無残に引っ張られて歪んでいく。
謝必安は引き攣る頬を強引に引き締め、袁監正の名を盾に、人垣を押し分けた。 「皆様方、過分なお心遣い忝い! だが監正様より急を要する公務の命が下り、一刻の猶予もなく復命せねばならぬ身! 公務を遅らせれば、誰が責を負えましょうや! 務めを果たした暁には、永安坊の屋敷にて山海の珍味を揃えた大宴席を張り、皆様と心ゆくまで美酒を酌み交わす所存!」
袁監正の名を出された老獪な役人どもは、舌打ち混じりに渋々道を空けた。 謝必安は汗で首筋に張りつく襟元を引っ張り、迎えに立っていた青布の小者の後を追って大股で歩き出した。
天枢院の正気堂へ向かうものとばかり思っていた。雑項科の新しくあてがわれた別院など四方の白壁があるきりで、着替えの場所すらないのだ。この汗染みた重い礼服をいつまでも引きずっているわけにはいかない。 だが前庭の築山を抜けた途端、小者は身を翻し、人気のない薄暗い黒石の甬道へと足を踏み入れた。役所の喧騒が引き潮のように遠ざかり、周囲は針の落ちる音すら聞こえそうな静寂に呑まれていく。
謝必安は歩みを緩め、左右の気配を怪訝そうに見定めながら声をかけた。「おい、方角がおかしくないか? 正気堂ではないのか? この道はどこへ通じている」
小者は振り返りもせず、腰を折ったまま声を潜めた。「少監様にお答えいたします。監正様と貴人様は正気堂におられず、現在、清涼閣にて少監様をお待ちでございます」
「清涼閣?」謝必安はこめかみを押さえ、記憶を探った。「俺もこの役所にそれなりに長くいるが、そんな場所は聞いたこともないぞ」
「少監様のご存じないのも無理はございません。前朝の昔に打ち棄てられた禁苑でありまして、ここ半月の間に莫大な人手と銀子を注ぎ込み、突貫で修繕を終えたばかりの場所でございます」小者は歩調を速め、急かすように言った。「少監様、これ以上はお尋ねにならず、どうかお急ぎくださいませ。監正様とあのお方が……これ以上お待たせしては、申し開きが立ちませぬ」
黒石の甬道を抜けると、視界が唐突に開けた。 清涼閣は、司天監の最奥に切り立つ断崖の直下に佇んでいた。見上げれば万仞の崖が裂け、その狭間に細く切り取られた空が覗いている。差し込む陽光が中庭へと垂直に落ち、その四方を、高さ五丈もの黒曜石の壁が隙間なく囲んでいた。中庭の入り口には、大人が両腕を回してようやく抱えられるほどの太さの青銅陣柱が八本、深く地に突き刺さり、びっしりと刻まれた太古の文字が鈍い青光を放っている。外からの神識の探知や術法による覗き見を完全に遮断する、避霊古陣であった。
敷居を跨ぐと、空気が一変した。 世家の館にありがちな華美な装飾は微塵もない。崖の上から一条の滝が注ぎ落ち、中庭の墨玉の池へと吸い込まれていく。池の端には冬の竹が凛と伸び、寒梅が蕾を固く結んでいた。青石の小道を一歩踏みしめるたび、敷石からほのかな杉の香りが立ち上った。
謝必安は周囲を見回し、内心で舌を巻いた。 大がかりな普請をやったものだ。袁の爺さんは筋金入りの吝嗇家のはずだが、いきなりこんな風流を極めた隠れ家を拵えて、まさか老いらくの恋で愛人でも囲うつもりじゃあるまいな。
楼閣の扉の前で小者が足を止め、会釈をして謝必安を待たせると、抜き足差し足で戸口へ進み、小声で取り次いだ。 奥から侍女の澄んだ応対が響き、小者は身を引いて囁いた。「少監様、どうぞ。監正様のお言いつけにより、お一人でお入りください」
謝必安は冠の傾きを正し、朱塗りの彫刻扉の前に進み出た。 手を伸ばしかけたその時、奥から袁監正の掠れた声が飛んできた。 「叩くでない。押して入ればよい」
ギィィ……。
扉を押し開け、足を踏み入れる。 室内の設えは簡素を極めていた。壁には前朝の画人が描いた枯木山水の軸が数幅掛けられ、床一面に白獣の敷革が敷き詰められている。冷涼な茶の香りが満ちていた。吸い込めば、喉の奥まで清涼な気配が抜けていくようで、太廟の喧騒で澱んでいた頭の芯をすっきりと洗い流してくれる。
座の序列は一目で知れた。 新調の紫の袍をまとった袁監正が、あろうことか下座の青玉の茶卓の脇に控えていた。赤銅の細口水注ぎを手に、湯加減を計りながら慎重に湯を注いでいる。そして部屋の中央、主座の榻に端座していたのは、ほっそりとした長身の、年の頃なら二十歳の女子であった。
身につけているのは月白の対襟の長裙。一見すれば地味な素白だが、窓から差し込む一筋の光を浴びると、天蚕の氷糸で織り出された九曜星紋が微かに浮かび上がる。肩には雪狐の毛をあしらった淡青色の外套を無造作に羽織り、艶やかな黒髪は一本の青玉の笄で束ねられているだけだ。目鼻立ちは涼しげで、化粧の気配は薄い。
謝必安が目を凝らしたのは、その顔立ちゆえではない。あの老猾な袁監正が、彼女の下座に控えているというその一点であった。 凛とした輪郭に、どこか見覚えがある。だが、どこで会ったのかが判然としない。
「司天監左少監・謝必安、監正様にお目通り仕ります」 謝必安は居住まいを正し、まずは袁監正へ深々と拱手し、次いで主座の女子へ向けて拱手した。「貴人様にお目通りを」 隙のない官僚の礼法である。
榻の上の女子はすぐには応じず、青磁の茶杯をつまみ上げ、伏し目がちに一口すすった。立ち上る湯気の向こうで、深く澄んだ黒目が、値踏みするように謝必安の全身を上から下まで見据えてくる。 やがて、白魚のような指先をわずかに動かした。 「謝少監、礼には及ばぬ。座すがよい」 涼やかな声だった。
「忝く存じます」 謝必安は下座の胡床に腰を下ろした。 折よく袁監正が淹れたての茶を差し出し、顎で促した。「ちょうどよい。味わうがよい。これは公……」
主座の女子の視線が、すっと老人の顔をかすめた。 袁監正は言葉を呑み込み、咳払いを一つして何食わぬ顔で言い直した。「これは貴人様が内廷の蔵より取り寄せてくださった『雪頂雲霧』じゃ。並の諸侯では口にできぬ逸品ぞ」
謝必安はそのぎこちない言い換えを見逃さなかったが、おくびにも出さず頭を下げた。「監正様、かたじけなく存じます」 茶杯を手に取り、一口含んで息を吐く。「口に含めば氷の如く消え、喉奥に清泉の湧くが如し。流石は内廷の極品でございますな」
「太廟から陽光の下を急ぎ歩いて参じたのじゃ、喉も乾いておろう。まずは一息入れよ、話はそれからじゃ」袁監正は茶杯の蓋で浮いた茶葉を払いながら言った。その目は落ち着きなく泳いでいた。
赤銅の水壺の中で湯がしゅんしゅんと鳴る音だけが、静寂を満たしていく。 茶を半分ほど飲み干した頃、袁監正は短く咳払いし、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「必安よ」
謝必安の手が跳ね、茶をこぼしかけた。頬を引き攣らせ、ぎこちない笑みを返した。「監正様……用件がおありなら単刀直入に願います。藪から棒にそのように呼ばれますと、下官、背筋が寒くなって落ち着きませぬ」
袁監正の眉がピクリと跳ね、深いため息を漏らした。「其方が雑項科に入りたての頃、いかに青二才で慎ましい少年であったか、老夫は今でも鮮明に覚えておる……必安よ、胸に手を当てて考えてみるがよい。この数年、老夫は其方をどのように遇してきたかの?」
謝必安は茶杯を抱えたまま、この上なく深刻そうな顔を作って長考した。やがて顔を上げ、苦渋に満ちた表情を貼りつけて言った。「監正様……その問いにお答えするのは、少々骨が折れますな」
袁監正は喉に餅でも詰まらせたような顔になった。この小僧の食えなさに目を細め、言い直す。「ならば問いを変えよう。これまで、この司天監が其方を粗略に扱ったことが、一度でもあったかの?」
謝必安は眉間を固く結び、これ以上ないほど困り果てた顔を作ってみせた。「監正様、そう問われますと……なおのこと返答に窮します」
主座の白衣の女子が、二人の押し問答を見つめながら口元をわずかに緩めた。口元に笑窪が浮かびかけたが、すぐに消えた。何事もなかったように茶をすすり直す。
謝必安は茶杯を卓に置き、嘆息した。「監正様、腹に収めておられる企みがあるなら率直に仰ってください。これ以上遠回りされると、こちらの胃が持ちません」
情に訴える手管が通じぬと悟るや、袁監正は芝居をかなぐり捨てた。顔を険しくし、主座の女子に向かって拱手し、重い声で告げた。 「こちらの貴人のお姓は李氏であられる。本日付を以て、司天監雑項科の『総監察使』へと着任されることとなった。雑項科の大小の公務、庶務全般の監察と補佐を司られる」
謝必安は口を開けたまま固まった。口の中に茶を含んでいなかったのが不幸中の幸いだった。 「は? 監正様、そりゃあ幾ら何でも露骨すぎやしませんか! 遺詔に鍵が掛かったばかりで、俺の椅子だってまだ温まっちゃいないってのに、いきなり天井から監視役を落として実権をもぎ取る気ですか? 少しは俺の顔を立てたらどうなんです!」
「戯け者が!」袁監正が茶卓を叩き、目を怒らせた。「権をもぎ取るとは何事じゃ! 雑項科の古参どもは地脈の鎮撫のために出払っておる。今のお主の役所は空っぽで、何一つ整っておらぬのだ。其方の激務を慮り、孤立無援となるを案じて、老夫が平身低頭して貴人にお出まし願ったのじゃ! 恩を仇で返すとはこのことぞ!」
謝必安は鼻で笑い、身を乗り出した。「監正様、扉を閉めりゃ身内同士だ、腹の探り合いはやめましょう。この李の貴人……いや、李総監察使様は、うちの役所の赤字を幾ら穴埋めしてくれたんです?」
痛いところを突かれた袁監正の視線が、露骨に窓の外へと泳いだ。老人は諦めたように目を閉じ、長く重い息を吐き出した。「……大層な額じゃ」
「大層とは?」 「途方もない額じゃ」 「途方もないとは幾らです? 死ぬ前に納得させてくださいよ」
袁監正の額に青筋が立った。もはや開き直るように吐き捨てた。「老夫がこの歳になるまで生きてきて、断るという考えすら浮かばぬほどの額じゃ!」
「なるほど」謝必安は自分の腿を平手で叩いた。「金に目が眩んだわけだ。それで雑項科を骨の髄まで、一文残らず売り飛ばしたと」
「黙れ! 滅多な口を利くでない!」袁監正は髭を震わせて怒鳴り散らした。「売った買っただの、人聞きの悪い! 朝廷の深謀遠慮じゃ! 雑項科の公印を出せ。これより雑項科の常例の公金支出、物資の調達、大規模な修繕に至るまで、すべて李総監察使の連署と捺印を要するものとする!」
「待ってくださいよ、監正様」 謝必安は眉を吊り上げ、自分を指差した。「俺は先帝の勅命で正四品の左少監を兼ね、永安県男の爵位まで持ってるんですよ。雑項科掌印令の椅子にも座ってる。自分の縄張りで銅銭一枚動かすのにも、この李貴人の顔色を窺えと? 百歩譲って、先帝の遺詔で文武百官の面前で俺の名義に下された、内帑の現銀八万両はどうなるんです? あれは俺の裁量で使えるはずでしょうが!」
「阿呆め! 八万両は雑項科の再建と、天下の地脈を巡察するための専用予算じゃ! いつ其方の遊興費にくれてやると言った!」袁監正は袖を振って嘯いた。「先帝が其方に全権を委ねると仰せられた以上、老夫が嘴を挟む筋合いはない。じゃが、どこに幾ら消えたのか、帳尻を合わせる人間は必要じゃろうが! 雑項科の常例の公金に関しては、李総監察使の連署がなければ一文たりとも出さんぞ」
謝必安は痛むこめかみを親指でぐりぐりと揉み、天を仰いだ。四品の官位も爵位も、形ばかりの肩書きではないか。
呆然とする彼の前で、主座の女子が衣を揺らして静かに茶杯を置いた。長裙の裾を払い、すんなりと立ち上がる。 足取りは静かで、迷いがない。謝必安の卓の前まで進み出ると、貴人の傲慢さを微塵も見せず、大魏の官場の礼に則り、同格として端然と揖礼を返した。澄みきった声が冷ややかに響く。
「司天監雑項科総監察使、李雲瑶。謝少監にご挨拶申し上げます。今後の雑項科の内外の諸事、少監のご指導を仰ぎたく存じます」
その名を聞いた刹那、謝必安の眉がわずかに動いた。この降って湧いた大物は、想像以上に厄介らしい。
「李総監察使、ご丁寧に」謝必安は立ち上がって礼を返し、引き攣った笑みを浮かべた。「指導など滅相もない。今後、銀子を融通する折には、どうかお手柔らかに願いたいものですな」
李雲瑶は取り合う風もなく、鋭く本題を切り出した。 「謝少監、そのように被害者じみた顔をなさるな。先帝が遺詔により、文武百官の面前で強引に貴殿へ下賜された八万両。表向きは役所の再建費用なれど、実のところは、先帝が崩御の直前にこの大魏の天下に打たれた最後の一手。あの銀子が国庫や戸部の帳簿を通れば、手元に留まる間もなく、三日のうちに重臣や門閥世家によって骨の髄まで貪り尽くされていたはず。先帝があの巨額の富を貴殿の名義に縛りつけられたのは、貴殿に建康を出て天下を巡察させ、揺らぐ四方の龍脈を立て直させるためぞ」
李雲瑶は一歩踏み出した。「先帝より賜りし八万両、私とて口出しはできぬ」
謝必安は心の中でほくそ笑み、口を噤んだ。
「ただし――出納の一筆ごとに、私が帳簿へ克明に記す」 「……」 「一文でも使途が不明な金があれば、その帳簿を直ちに大内の御前へと差し出すまで」
室内に静寂が落ち、茶の湯気だけが揺らめいた。 謝必安は額を押さえ、世を儚むような顔をした。「李総監、そんな縛り方をするくらいなら、いっそ使わせないと言ってくれた方が、せいせいするぜ」
李雲瑶は窓辺へと歩み寄り、庭の池を見つめながら沈黙した。やがて低い声で言った。「幼帝の即位は間近。なれど朝廷の内外では、武陵王と門閥世家がとうに勢力を分け合っておる。天子は幼く、宮中にはいかなる閥族にも属さぬ新たな力を要しているのだ。この大魏の天下がいかほど病み衰えているか、誰かがこの金色の鳥籠を出て、己の目で確かめねばならぬ」
袁監正の顔からいつもの軽薄さが消え去っていた。老人は袖から黄ばんだ羊皮紙の古図を取り出し、茶卓の上に静かに広げた。 図の中央、大魏十三州の険しい山河と金色の霊脈が縦横に交錯している。だが東西南北の要所には、それぞれ目を射るような朱色の符文が焼きつけられていた。太古の昔より伝わる封印である。今、その符文が不吉な明滅を繰り返していた。
李雲瑶が指を伸ばし、北方の朱印をトンと突いた。 「まずは、北の高郵へ向かう」
高郵の二文字に、謝必安の目が細まった。
李雲瑶は彼を一瞥し、重い声で告げた。「高郵では妖気が日輪を覆い、国師の乱行の余波が収まらぬ中、前朝の厲王の墓に突如として亀裂が走った。当地の地脈は寸断され、州刺史から県令に至るまで、三名の地方長官が相次いで怪死を遂げておる。すでに謝氏の手が伸びているとの噂もあり、北方の藩鎮や異族も蠢き始めた。宮中の意向は、貴殿を司天監左少監として欽天巡按使に任じ、節を持たせて北上させることにある。表向きは地脈の修復、裏では事の真相を探れ」
謝必安は古図を見つめ、頭の中で素早く盤面を読み直した。 北の高郵……国師……前朝の厲王……。 だが表情には一切出さず、再び胡床にどっかりと腰を下ろし、だらしない態度を作ってみせた。
「北の高郵へ巡察だと? 李監察、簡単に言ってくれるな。あそこは今や妖魔が跋扈する修羅場で、いつ骨まで噛み砕かれるか分からん死地だそうだ。この謝必安に命を張らせたいなら構わんが、帳尻は先に合わせてもらおう」
謝必安は指を三本立て、卓を叩いた。 「一つ、北への巡察は十死一生の大凶の務め。八万両の予算は直ちに全額を引き渡し、まずは道中の旅費と支度金として三万両を前借りさせてもらう。二つ、随行する護衛は俺が選ぶ。金吾衛郎将の沈無を隊長として同行させてもらいたい。そして三つ……」 彼は袁監正を見やり、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。「監正様、司天監の宝物庫に眠っている護身の法具、太古の雷符、それから命を繋ぐ九転還魂丹を、この雑項科掌印令に数十斤ほど分けてくださるんでしょうね?」
袁監正の口元が激しく引き攣り、怒鳴りつけようとした瞬間。 李雲瑶が長裙を揺らして振り返り、茶杯を手に淡々と言葉を挟んだ。
「法具と丹薬は、雑項科の通常の割り当ての三倍を支給する。それ以上は通らぬ。先帝より特別に割り当てられた八万両から、前もって三万両を引き出したいと申すなら……」 李雲瑶は彼を一瞥した。「貴殿は少監であり、遺詔の受託者。私にそれを止める手立てはない」
謝必安の眉が跳ね上がった。話のわかる女ではないか。 だが李雲瑶の瞳の奥は静まり返っていた。「ただし、秘帳にはありのままを記す。『永安県男・謝必安、北への出立前に朝廷の公金三万両を前借りし、私的な支度金に充当せり』とな」 「……」 「申したはずだ。この帳簿は毎月、大内の御前へと直接差し出すと」
「李総監、さっきの言葉は全部なかったことにしてくれ」
李雲瑶は謝必安の視線を受け止め、卓の上を指先でコツリと叩いた。 「先帝より特別に割り当てられた八万両を除き、百両を超える常例の公金支出は、私が直接査定し、一筆ごとに精算する。謝少監、帳付けが定め通りであれば、一文たりとも滞らせはせぬ。だが使途が不明瞭であれば……どれほど口先を弄そうと、私の手から半文すら引き出せぬものと心得よ」
冷ややかに言い放ち、彼女は言葉を継いだ。「それから、二つ目の要求は却下だ」
謝必安の眉が寄った。「何故だ? 沈無とは遺詔を都へ届けるまで死線を共にしてきた、妖魔の扱いにも最も長けている。あいつを指名して何が悪い」
「至極当然の理なれど、大将軍府の軍令には敵わぬ」李雲瑶は窓の外を見やり、その眼差しに一瞬、影が差した。「太廟の大典が終わるや否や、大将軍府の密令が沈無の手元へと届けられた。武陵王は彼に、直ちに手勢を率いて北上せよと命じられたのだ。遅参は許されぬ。沈郎将は鏡妖司へ戻ることすら許されず、今頃は北門へと向かっておろう」
謝必安の息が詰まった。手強い女官と、傍らでほくそ笑む袁のジジイを見比べ、長いため息を吐き出した。「そんなに急ぐのか? 一言の挨拶もなしにか?」
「軍令は山のごとし」李雲瑶が淡々と返した。
「ああもう、分かったよ、分かった!」謝必安は白目を剥き、不貞腐れたように呟いた。「都の古狐どもは気が短すぎる。椅子が温まる暇もありゃしない。どいつもこいつも、人が一日たりとも平穏に暮らすのを許さねえんだからな」
投げやりな手つきで茶杯を掴み、苦味の残る雪頂雲霧を一気に飲み干した。 李雲瑶は彼をしばし見つめ、何も言わず、己の茶に口をつけた。 袁監正は二人が掴み合いにならなかったことに胸を撫で下ろし、茶を啜った。
やれやれ。 正四品の少監にして永安県男の栄達とやら、喜べたのは半日足らず。 早くも次の出張先が決まったというわけだ。
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【司天監内部メモ】
大魏の風潮は前朝に比べ開放的とはいえ、名門の息女や皇室の血を引く女子が実名を口にすることは依然として禁忌である。戸籍に記されていることと、見知らぬ男を前に自ら名を名乗ることは、まったく別の次元の話だ。何の躊躇もなくそれを成す者がいるとすれば、礼法を解さぬ狂人か、あるいは世俗の規範など初めから眼中にない者のいずれかである。




