第102話 仮公済私《かこうさいし》
【巻ノ二・残頁壹百零弐:『司天監律令・出巡簿』残巻】
「官吏の出張には、各々法具・符丹を支給し、皆定数あり。然れども山川険悪にして、妖魅無常、毀傷折損は免れざる所なり。凡そ折損過当なる者は、主事官具摺して陳情すべし。其の辞は『厲煞に遭遇し、力竭きて焚燬す』の八字を出でず。考功司其の弊を知るも、亦た如何ともする無く、遂に官場の通例と成る」
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清涼閣での談判がまとまるや否や、謝必安は先刻の苦杯などあっさりと頭の隅へ放り出した。役所から取れるものは取る――その鉄則なら骨の髄まで染みついている。現金の出納にあの堅物の会計係が目を光らせているというのなら、今日のところは司天監の宝物庫から、絞れるだけ絞り取っておかねば、わざわざ正四品少監の肩書きをもらった意味がない。
「李総監がそこまで定めに則ると仰るのなら、公務の出納もすべて定め通り、実費で精算していただきましょう」謝必安は袖の塵を払い、あけすけな笑みを浮かべた。「ただ、北への巡察は十死一生の難行でございます。先ほどお約束いただいた通常の三倍の法具と霊丹、日を改めるよりは今日のうちに宝物庫へ足を運び、必要な物を引き渡していただきたい。後で帳尻が合わぬとて、李総監が毎日大内へ足を運ぶ羽目になっては申し訳ありませぬからな」
李雲瑶は茶杯を置き、彼を見遣って頷いた。「定めの内であれば、咎める理由はない」
その一言を聞いた袁監正は茶を持つ手を震わせ、老いた顔の皺を苦悶に歪めたが、最後は鼻を鳴らして首を縦に振るしかなかった。
謝必安は大股で先頭を歩きながら、口を休めようとはしなかった。「李総監、蔵へ着く前に釘を刺しておきますがね。天枢庫に入ってから、埃をかぶった古い雷符や虫食いの桃木剣なんぞの二級品を掴ませようとしないでくださいよ。俺の命は高くつくんです。雑項科が北へ向かうのは命懸けの仕事であって、物見遊山じゃありませんから」
背後を追う李雲瑶の足取りに乱れはない。「謝少監、案ずるな。司天監の備蓄には先例がある。定めにある分は、一切削りはせぬ。だが、公務にかこつけて蔵の品を私物化し、新居へ持ち帰る私財に化けさせようなどと企む輩がおるならば――」 言葉を切り、鋭利な刃の如き視線で謝必安の背中を射抜いた。「我が筆先は、武官の佩刀よりも鋭いと心得よ」
謝必安は足を止め、振り返ってぎこちなく口端を吊り上げた。「李総監、人聞きの悪いことを。俺がそんな、雁の背の羽まで毟るような男に見えますか?」
「見える」李雲瑶の返答には一片の迷いもなかった。
「……」 謝必安は小さく息を吸い、胸の内でこの天井から降ってきた女官の危険度を謝太保と同じ棚へと放り込んだ。「結構、定め通りにいこうじゃないですか。李総監が大魏の律令の下、いかに清廉潔白であらせられるか、この目で確かめさせてもらいましょう」
半刻の後、厳重に閉ざされた地下の宝物庫。
出納を司る庫正は分厚い台帳を抱え、棚の脇で小刻みに震えながら、新任の少監が野盗さながらに珍品を掻き集めていく様を眺めていた。泣きそうな顔で上司である袁監正へ助けを求める視線を送るものの、当の袁監正は天井の夜明珠を凝視し、完全に見て見ぬふりを決め込んでいる。
「これだ、赤陽雷符。陰煞を討ち破る業物だ。普段は懐に忍ばせて身を守り、いざとなれば命拾いできる。まずは三箱」 「天心避水珠に百草辟毒丹。江淮の地は湿地と瘴気が多い、それぞれ四ダース揃えてもらおう」 「それからこの玄鉄護心鏡……李総監、この輝きをご覧あれ。妖物の奇襲を防ぐには欠かせぬ代物だ。我が雑項科の出張における消耗品として計上しても、道理に適っておりますでしょう?」
謝必安は立て板に水のごとく捲し立てながら、周囲の死角を油断なく見定めていた。高級薬草の棚を改める際、身をわずかに影の中へと滑り込ませ、広い袖口を素早く動かし、隠し仕切りの奥から中身を掠め取った。
万年温玉の小箱に納められた暖玉膏が二つ。心脈を温め寒煞を払う秘薬が、音もなく袖の奥底へと吸い込まれていく。
市中では手に入らず、闇市へ流せば一箱八百両は下らない代物だが、謝必安にとっての価値は一つしかなかった。妹の謝知微の体内に残る寒毒を和らげるためだ。これさえあれば、冬の寒さに怯えることも少なくなる。
庫正が困り果てて視線を向けると、李雲瑶はわずかに重みを増した謝必安の袖口へ一瞬だけ目を留めたが、その場では咎めなかった。背後の記録係の女史へ淡々と告げる。「記せ。公務支出として符籙および法具一式、銀二千四百両相当。雑項科の負担とする」
女史が筆を走らせる。
「頁を改めよ」
謝必安の眉が跳ねた。油断のならぬ女だ。だが面の皮の厚さでは引けを取らない。すかさず庫正へ手を振った。「突っ立って何をしている。人足を呼んで、この荷をすべて天枢院の雑項科へ運ばせろ。あの空っぽの霊堂のような屋敷も、少しは格好をつけねばならん」
一同が天枢院へ戻った頃には、がらんとしていた正堂は桐の木箱で埋め尽くされ、問屋の倉庫さながらの様相を呈していた。
李雲瑶は腕を組んで広間を見渡した。背後に控える二名の侍女が進み出て、筆と硯を捧げ持つ。
「正堂には執務卓と書架を設えよ。床下の辟邪と防湿の符陣は厚く補強せねばならぬ」 「東の別院を総監察室とする。私の手形なき者の立ち入りは一切禁ずる。西の院は謝少監の差配に任せる。回廊の警戒法陣も強化せよ。そなたたちで手配を」 「それから、奥の新設の倉庫……内廷より玄鉄の連環錠を取り寄せよ。鍵は私が預かる。これらの荷をすべて収めよ」
指示が淀みなく下され、侍女が帳面に筆を滑らせる。下役や小者たちは息を殺し、ただ平伏して命を拝受していた。
謝必安は袖に手を突っ込んで戸口に寄りかかり、口を挟む隙すら見出せない。一方、普段は威張り散らしている袁監正が、揉み手をしながら李雲瑶の後をついて回り、白い髭を撫でて頷いていた。「結構、誠に申し分ない。李総監のご配慮は行き届いておる。雑項科を李総監に見ていただけるなら、老夫も枕を高くして眠れるというもの。何卒よろしくお頼み申す」
老いぼれの擦り寄りように、謝必安は思わず喉を鳴らした。耐えかねて大げさに咳払いし、その場の一同を遮る。
「ゴホン。監正様、李総監。公房の調度などという細かい話は後で帳簿をつければ済みます。実は裏庭に一つ厄介な案件が転がっておりましてな。お二方に検分願いたい」
衣を翻して先導し、月洞門をくぐって裏庭の坪庭へと踏み入った。
古い槐の木の下、四つの車輪と剥き出しの床板だけになったあの無惨な車架が、泥の上にぽつんと放置されていた。
李雲瑶はその残骸を見つめた。「謝少監、これは何の真似だ? これが雑項科の平生の備品とでも? かような粗末な板切れに乗って北へ巡察に向かうつもりか」
傍らの袁監正も目を細め、怪訝そうに眉をひそめた。雑項科の財産目録に、このような奇妙な木枠の記録などあった覚えはない。
謝必安は素知らぬ顔で壁際へと歩み寄った。そこには例の青い小木が、何食わぬ顔でただの庭木を装っていた。
幹を指先で小突き、低く小言を落とす。「おい、いつまでも盆栽の真似をしてるんじゃない。上のお偉方が視察に来られたんだ、少しは空気を読んで元の姿に戻れ」
一同の注視を浴びる中、小木は鬱陶しそうに葉を震わせた。樹皮の表面に細やかな機構の光が明滅する。
カチリ、カチリと地底から重い歯車の噛み合う音が響いた。根元の黒土が盛り上がり、泥の中から重厚な黒鉄の継ぎ手と符印の車体部品が次々と押し出されてくる。澄んだ金属音と共に、すべての部品が草地の上へ寸分の狂いもなく整然と並べられた。
その時、梢の天辺の若葉が一筋の細い青光を放ち、一瞬ののちに虚空の彼方へ消え去った。
視線の端でそれを捉えた謝必安が苦笑する。「へっ、告げ口だけは素早いこって」
袁監正が目を剥き、声を上げた。「この木は一体……」
「監正様、そこまでだ!」 謝必安はすかさず割って入り、老人の視界を塞ぐように腕を掴んだ。「これは機縁というものです。組織の外にある機密なんざ、知らぬ方が長生きできますよ。そんな暇があるなら、役所の結界の心配でもしてください。この裏庭を見てご覧なさい、誰でも出入り自由の青空市場だ。草木までが勝手に武器を隠し持っている始末ですよ。俺一人ならともかく、今は李総監がおられる。刺客でも紛れ込んだら、お茶を啜るどころの騒ぎじゃなくなりますよ」
滅茶苦茶な言いがかりに袁監正は顔を真っ赤にして咽せ返り、気まずそうに視線を逸らすしかなかった。
李雲瑶の視線が、黒鉄の部品と車架の残骸を行き来した。彼女が首をわずかに傾けると、背後に控えていた屈強な護衛の一人が音もなく進み出た。腰を落とし、胼胝の浮いた掌で玄木と金属の継ぎ目を強く押し込み、暗勁を込めて探りを入れる。
護衛が戻り、小声で告げた。「お嬢様、この車架の主材は極めて稀少な陰沈木にございます。中枢には縮地と耐重の高度な密文古陣が刻まれております。底板は強固を極め、並の神兵利器では傷一つつけられませぬ」
李雲瑶が再び謝必安を見据えた。「これほどの業物が官署に長らく放置されながら、目録にもなく、届け出もなされていない。律令に則り、まずは封印の上で調査を行うべき代物。三日以内に預かり証と持ち主の身元を明かせぬ場合は、出所不明の品として没収の上、官有とする。謝少監、相違ないな?」
謝必安は背筋を冷やし、両手を振った。「お待ちを! 勘弁してください。これは雑項科の公物ではなく、うちの師姉が一時的に預けていった私物です。個人の財産を勝手に没収する権限なんざ、うちの科にはありませんよ!」
「預かり物だと?」李雲瑶は冷ややかに顎を上げた。「司天監は国家の要衝、朝廷の命官が執務を執る公の場。江湖の者が勝手気ままに私物を預け置く旅籠ではない――」
言葉が途切れた瞬間、大気が震えた。
中庭の虚空から、布を引き裂くような鈍い音が響き渡る。 謝必安の眉がわずかに跳ねた。もう回収に来たのか。
一尺ほどの黒い裂け目が虚空に口を開けた。次の瞬間、裂け目は一気に押し広がった。 全身を青い鱗で覆った巨獣――蜃驪が、空間の裂け目から上半身をぬっと乗り出したのだ。骨張った大口を開けるや、地面の黒鉄の部品と車架を一纏めに咥え込み、そのまま身を翻して裂け目の奥へと引きずり込んだ。
空間が水面のように波打ち、次の刹那には跡形もなく閉じ、平穏な秋晴れの空だけが残った。
老槐の枯れ葉がパラパラと落ち、庭には、死んだような静寂が落ちた。壁際の小木は葉を固く閉じ、何事もなかったかのように死んだふりを続けている。
李雲瑶の護衛四名が同時に刀の柄に手を掛けたが、異変の収束があまりに早すぎた。刀身が半寸抜かれた時には、舞い散る落ち葉があるばかりだった。四人は顔を見合わせて息を呑み、二人の侍女は顔を蒼白にして立ち尽くしていた。
李雲瑶の冷徹な仮面が、一瞬だけ強張った。彼女は袁監正へと向き直る。「袁監正……これが司天監の鉄壁の防備と申すものか? 帝都のただ中、それも官署の中枢において、素性の知れぬ妖獣が我が物顔で現れ、私の眼前で公然と物資を強奪していったのだが」
それを見た謝必安は、胸を撫で下ろすどころか激しく頷き、義憤に駆られたように声を張り上げた。「全くだ! 緩みきっている、言語道断だ! 朝廷の威信を何と心得るか! 雑項科掌印令として李総監の仰る通りだと痛感いたします。司天監の防御陣は徹底的に見直さねばなりません、ええ、直ちに強化すべきです!」
袁監正が謝必安を睨みつけた。 謝必安の表情はどこまでも無辜で、一点の曇りもなかった。
盗人自ら捕吏の真似事をして騒ぎ立てるこの小僧の厚顔無恥さに、袁監正は血圧が跳ね上がり、呼吸を詰まらせた。冷や汗を拭いながら揉み手をして平伏する。「李総監、どうかご容赦を。老夫が……直ちに人を配して結界を改めさせ、朝廷へしかと申し開きをいたしますゆえ!」
李雲瑶はこれ以上の追及を止め、踵を返して正門前の広場へと引き揚げた。
門前には豪奢な馬車がすでに控えていた。四頭の駿馬が車を牽き、沈香木の車体には鮫綃の薄布が掛けられ、周囲を十数騎の重装騎兵が固めている。並の長官を遥かに凌ぐ格式であった。
李雲瑶が足を止めた。「謝少監、身辺の整理には何日を要する?」
謝必安は新居の引き渡しや知微への薬の手配を逆算し、指を三本立てた。「三日。三日で片付けます」
「よい」李雲瑶は短く応じた。「私も片付けるべき庶務がある。四日目の卯の正刻、北城の定淮門外の官道にて合流する。遅れるでないぞ」
「巡察の車馬は、役所で用意するのですか?」
袁監正が思わず李雲瑶を窺うと、彼女は淡々と告げた。「私の馬車に同乗せよ。無駄な出費は省く」
「同行の者は?」 「御者と侍女二名のみ。身軽にして動く。他の手配は別にある」
謝必安は顎を撫でた。「俺の連れ……猫が二匹いるのですが、連れて行かねばなりません」
李雲瑶の眉が寄った。「猫だと? 高郵へは命懸けの公務に赴くのだ、遊興の類ではない。獣を連れて何とする」
謝必安は居住まいを正した。「李総監、ご存じないのも無理はありませんが、あれは我が雑項科が誇る鎮煞の霊獣であり、定員に組み込まれた正規の構成員です。通り名を鎮獄双猊と申します。今回の巡察、奴らの鼻で地脈の穢れを嗅ぎ分けさせねば、仕事になりません」
「猫が……鎮獄双猊?」 李雲瑶が疑わしげに袁監正を見ると、老人は引き攣った顔で、あの厄介極まりない化け物猫どもの顔を思い浮かべながら、曖昧に頷くしかなかった。
李雲瑶は視線を戻し、語気を強めた。「車内で人を引っ掻いたり噛みついたりせぬな? 粗相をして調度を汚すようなことはあるまいな?」
「あいつらに肝っ玉が十個あったって、そんな無茶はいたしません!」謝必安は胸を力任せに叩いた。「引っ掻きも噛みつきもせず、深窓の令嬢の如く慎ましい気性でございます」 そう言い切る頃には、声がわずかに上ずっていた。
李雲瑶は彼を見据え、言い捨てた。「その言葉、違えぬことだな」
それ以上は語らず、侍女の手を借りて優雅に馬車へと乗り込んだ。十数騎の護衛が馬首を巡らせ、蹄の音を響かせながら通りの彼方へと遠ざかっていく。
広場では、袁監正が馬車が見えなくなるまで腰を折って見送っていた。 一方の謝必安は背筋を伸ばしたまま、気怠げに背伸びをしていた。
袁監正が振り返り、苦々しげに睨みつけた。「若造が、身の程を知らぬにも程がある。あの御方の前でそれほど突っ張って、痛い目を見ねば分からんのか」
謝必安は衣の裾を払った。「監正様、それは違いますよ。公務の場において、俺は雑項科の長官、彼女は監察官です。部下の前で腰を折るような真似をして、この先どうやって科を統率しろと言うんです?」
袁監正は失笑し、意味深にその肩を叩いて門内へと戻りかけた。「よく吠えるわい。まあよい、高郵へ着いて都の目が届かなくなれば、たっぷりと思い知るであろうよ」
敷居を跨ぐ間際、老人は足を止めて振り返った。「そうじゃ、明朝、戸部と内侍省の役人が永安坊へ参る。先帝より賜りし五進の大屋敷の受け渡しに立ち会い、官籍の牙行より身元の確かな下男や下女を見繕うがよい。世家どもの間者が紛れ込まぬよう、しかと目を光らせておくのじゃぞ」
「承知いたしました。ご指導、感謝いたします」
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【司天監内部メモ】
経費精算を極大化させる極意とは何か? 帳簿の備考欄にただ一言、「公務出張における常備薬、激務による損耗、防身用具」と書き添えればよい。分かる奴には、それで全てが通じる。




