第103話 風起青萍《ふうきせいひょう》
【巻ノ二・残頁壹百零参:『大魏邸抄・長干瑣聞』残巻】
「天下の大乱は、微瀾に兆す。市井の米は貴く、朱門には古酒あり。宮闈は世家の隠私を窺い、方外は無常の蹤を追索す。善く算する者は市に隠れ、凶頑なる者は道に伏す。一局いまだ平らがざるに、万局すでに生ず」
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長干里の四海居へ戻った頃には、陽はすでに中天へと昇っていた。 謝必安の官靴が敷居を跨ぐや否や、揉み手をし、顔いっぱいに皺を寄せて笑う給仕がすっ飛んできた。深々と腰を折る。
「へへっ! 爵爺様にご挨拶申し上げます、謝少監様、天にも昇るご出世おめでとうございます! 最初に当店の敷居を跨がれた時から、あっしは睨んでおりましたよ。これほど器宇軒昂で、底知れぬ威厳を湛えたお方が、ただ者で終わるはずがないと!ご覧なさい、ほんの数日で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのご出世だ!」
ざわついていた大堂の喧騒がふっと半分ほど引いた。卓を囲む客たちが一斉に、羨望と値踏みの入り混じった視線を注いでくる。帳場の奥からは番頭が小走りで飛び出してきて、床に届くほど腰を折り、満面の笑みを浮かべて拱手した。
今朝、太廟で読み上げられた破格の遺詔の報せは、瞬く間に羽を生やして建康中を駆け巡っていた。ほんの先日まで謝氏の族譜から叩き出され、都中の笑い者になっていた落ちぶれ若造が、一夜にして天子より賜った金牌を腰に帯び、五進の大屋敷まで拝領した正四品の高官へと化けたのだ。誰がそんな絵図を思い描けただろう。
「分かった、もういい。おべっかは腹一杯だ」謝必安は騒々しさに頭痛を覚え、大堂へ向けて適当に袖を払った。「今日はめでたい日だ。居合わせた全卓に酒を一壺ずつ振る舞ってやれ。勘定はすべて俺につけておけ!」
ただ酒にありつけると知るや、客たちから怒号のような歓声が上がり、祝いと追従の叫びが梁を震わせんばかりに轟いた。 謝必安は内心でそのざまを面白がりつつも、官吏の威厳を取り繕って番頭へ言った。「番頭、極上の昼餉を東海一号の部屋へ運ばせろ。それから熱湯を一桶頼む。この朝服はすっかり汗を吸ってしまった、後で洗濯に回せ」
「かしこまりました! あっし自ら厨房へ張り付き、最も肥えた子羊と一番生きのいいスズキを捌かせますゆえ!」番頭は満面の笑みで給仕たちへ怒鳴り散らした。「おい、急げ! 全卓へ極上の『挽碧紗』を一壺ずつお出ししろ! 爵爺様のお金だからとて、出し惜しみするんじゃないぞ!」
酒銘を聞いた瞬間、謝必安の頬が引き攣り、胸の奥がチクリと痛んだ。だが大見得を切った手前、今更引っ込めるわけにもいかず、腹を括って呑み込むしかなかった。
機嫌を損ねてはいないと踏んだ番頭が、ずうずうしくすり寄り、揉み手をして言った。「爵爺様、誠におめでたい日に、水を差すような無粋は申したくありませぬが……手前どものような零細な旅籠では、北方への商路が途絶えたうえ、冬支度の時節まで重なって、物価が天井知らずに跳ね上がっておりまして。流石に持ち出しが厳しくなってまいりましてな、その……」
謝必安は横目で睨み、偉そうに眉を吊り上げた。「言いたいことがあるなら手短に言え。もったいぶるな」
「へへっ、流石は話のわかるお方で! 実は明日から、部屋代と飯代を少しばかり引き上げさせていただきたく存じまして。一晩につき、銀一両ほど……」
謝必安は眉を上げ、薄笑いを浮かべた。「抜け目のない商売上手だな。一晩で一両増しか?」彼は手を振り、詮索するのも億劫そうに言った。「構わん、数日中には引き払う。その時にまとめて精算しろ」
番頭は赦免を得た罪人のように平伏し、何度も頭を下げて感謝を連発した。 視線を戻すと、傍らで給仕がまだその場に突っ立ったまま、目をせわしなく泳がせていた。謝必安は目を細めた。「突っ立って何をしている。まだ何かあるな? 上へ来い」
給仕は小声で応じ、前を歩いて階段を上がった。回廊の角を曲がり、人影のない物陰に至ると、喉を絞るように声を潜めた。「爵爺様、お出かけの間に、帳場へ至急の私信が二通届きまして。一通は沈無様の腹心が早馬で届けたもの。もう一通は……持参した者の風体がひどく奇怪でして、添え書きの雅号には『世間情』と記されておりました」
「世間情だと?」謝必安は眉一つ動かさず、差し出された二通の書状を受け取って広い袖の奥へと滑り込ませた。「承知した。あと三日もすれば永安坊の屋敷へ移る。その間の宿代はきっちり払うし、お前への心付けも弾んでやる」
給仕は目を丸くして喜色を満面に浮かべ、何度も会釈を繰り返しながら階下へと退いていった。
謝必安は部屋へ入り、扉を閉めて閂を下ろすや否や、金色の巨大な肉団子が突風のように飛び込んできて、両の前足を彼の袴の裾へ引っ掛け、腹の底から絞り出すような情けない声を張り上げた。
『ウォォン! 親父ぃ! やっと帰ってきたか! 飢え死にしそうだぞ! この宿の小僧ときたら気が利かねえにも程がある、持ってきた干し肉なんて木の皮みたいにパサパサでよ、俺様の腹と背中がくっつきそうだ! 親父、あいつの小遣い絶対に削ってやれよ!』
謝必安は身を屈めてずっしりと重い太った猫を抱き上げ、丸々とした腹をわしゃわしゃと揉みしだいた。「何を喚いてやがる。下で豪勢な昼飯を作らせてる、油っ気には困らせねえよ」
部屋を見回し、尋ねた。「阿奴は?」
銜蝉は口元の毛を舐め、不満げに鼻を鳴らした。『阿奴のやつ、部屋の空気が淀んで息が詰まるって、とっくに屋根の上を跳ねて街へ繰り出しちまったよ。俺様も冷やかしに付いていこうとしたんだが、足音が重くて瓦を割りそうだの何だの言われてよ、鼻っ柱に一発爪を立てられて無理やり留守番させられたんだ』
謝必安は頷いた。あの白猫は昔から気ままで、底知れぬ術を使う。自分から大立ち回りでも演じない限り、この都で一番心配の要らない存在だ。
彼は頭の重苦しい二梁の進賢冠を外し、隙間なく身を包んでいた朝服を脱ぎ捨てて粗末な青布の平服に着替えた。ようやく四肢の骨が息を吹き返したような心地がした。
間もなく、扉が控えめに叩かれた。 給仕が三名の下男を連れて次々と現れ、湯気を上げる料理を八仙卓の上へ所狭しと並べていった。
中央には鹿の筋と野鳥を煮込んだ土鍋が据えられ、黄金色に澄んだ出汁から湯気が立ち上っている。左手にはショウガと細葱を散らした丸ごとの蒸しスズキ。右手には胡椒とクミンをふんだんに振りかけ、表面は香ばしく中にはたっぷりと肉汁を含んだ子羊のあばら肉。口直しの辛子菜の古漬け、湯気を立てる白米、そして温められた甘蔗の濁り酒が一壺。
下男たちは熱湯の桶を置くと、脱ぎ捨てられた官服を抱えて恭しく退室していった。
謝必安は湯加減を確かめ、手早く手ぬぐいで汗ばんだ全身を拭った。上着も羽織らず、雪のように白い肌着ひとつのまま卓の前に腰を下ろした。
「食え」謝必安はスズキの身から太い骨を外し、脂の乗った羊のあばら肉を二切れ添えて深皿へ放り込んでやった。
許しを得た銜蝉は前足を卓の縁にかけ、深皿へ頭から突っ込んで、鼻息も荒く、一心不乱に肉を貪り始めた。
それを見ているうちに、謝必安の腹まで鳴った。まずは出汁を一口すすって胃袋を温め、柔らかな魚の身を口に運び、熱い飯を掻き込む。空っぽだった腹に温もりが染み渡り、ようやく人心地がついた。竹箸を置き、手ぬぐいで丹念に指先を拭うと、袖の中から沈無の手紙を取り出した。
封筒には筆勢鋭く「謝君親啓」と大書されている。封蝋を指先で弾いて紙を広げると、武人らしい、鋭く力強い草書が目に飛び込んできた。
文字数は少なく、簡潔を極めていた。
「必安賢弟。 太廟にて別れし後、軍情は火急を告げ、面と向かいての別離叶わず。 大将軍の命により、某は新たに金吾衛郎将の官を授かり、前鋒営の偏将として直ちに北上することと相成った。 京城の繁栄は錦の如しといえど、畢竟は某の久しく倦み果てたる名利の場に過ぎぬ。北境の風雪は烈しく、刀兵の道は険しけれど、かえって胸中を偽らずに済むというもの。 兄は遥か関塞へと赴く。弟の少監への栄達、県男への叙爵を、遥かなる空の下より慶賀す。 いつの日にか、弟がこの帝都に息苦しさを覚えたならば……北へ参られよ。長河の落日、関山の寒月のもと、兄の一椀の烈酒と陣幕の片隅が、いつでも弟を待っておる。 兄 沈無 白」
紙背に徹するほど力強い署名を見つめ、謝必安はしばらくの沈黙の後、低く呟いた。「結局、北へ行ったか……達者でな」
沈無という男は寡黙に見えて、誰よりも世の理を冷徹に見透かしている。世家の重臣どもの顔色を窺いながら建康に留まるくらいなら、辺境で蛮族の馬刀と向き合う方を選んだのだ。高郵は江淮の地にあるが、その先は北方の防衛線へと地続きだ。この先、都で大きな異変が起きた時、北へ逃れるのは一つの活路になるかもしれない。
手紙を丁寧にしまい込み、謝必安の表情がわずかに引き締まった。懐から二通目を取り出す。「世間情」と書かれたその密書に、相変わらず悪趣味な名付けだと心の中で悪態をつきながら封を切る。
中から蝉の羽のように薄い紙が二枚こぼれ落ち、彼は微かに眉を寄せた。覚えのない奇妙な手触りで、指先にかすかな芳香が移る。 二枚とも文字一つなく、真っ白だった。謝必安は深く考えず、以前蘇小小から教わった通り、卓の脇にあった赤泥の火鉢から、黄銅の灰落としを手元へ引き寄せた。
最初の一枚を摘み上げ、灯火の炎へ近づける。
チリチリ……。
火が紙の角を舐めるや否や、耳元にあの聞き覚えのある蘇小小の囁きが細く滑り込んできた。燃え殻が灰落としの中へパラパラと落ちていく。
一枚目が告げたのは、江淮一帯の市井の異変であった。 建康から江北の揚州、高郵へと至る街道沿いで、米の相場が三割以上も暴騰している。江南の郡で水害による不作が続き、北方の被災民が家族を連れて、次々と南へ逃れてきている。だが現地の官倉は固く閉ざされ、兵糧の輸送路は幾つもの門閥に押さえられていた。年が明ければ、子を換えて食らう地獄絵図が再び現出しかねない。民怨は沸騰し、水面下では不穏な動きが渦巻いている。
謝必安は平然と耳を傾け、一枚目が燃え尽きると、二枚目を火にくべた。 だが、そこから漏れ聞こえてきた内容に、彼の指先が思わず強張った。
「……もう一つ、遊郭の闇筋から流れてきた噂があるけれど、確証までは取れていないわ。 太廟での宣詔の後、宮中の極めて身分の高いお方が、腹心の宦官を密かに謝府へ遣わし、謝太保と半刻ほど密談を交わしたそうよ。その直後、内廷は司天監と宗正寺から、過去六十年にわたる謝氏の『人柱』の記録を密かに取り寄せさせたわ。 それから、江湖の風聞だけれど、あなたのあの妹に関わりがあるやもしれない。少し前、一人の道士が平康坊や長干里を嗅ぎ回り、謝府の動向を探っていたわ。手口は極めて慎重だったけれど、執拗に探っていたのは太極殿と忘憂閣が崩壊したあの夜、その場所にいかなる異変が起きたかという一点だけ。さらに奇妙なことに、その道士が立ち去った直後、一人の遊行僧が同じ件を探り始め、あろうことかその道士の後を陰から執拗につけているの……。 薄情者さん、この私の情報、爵爺様の目には……幾らの値打ちに見えるかしら?」
声はそこでプツリと途切れた。
ギシッ。
謝必安の座る黄花梨の椅子が軋んだ。 太極殿……忘憂閣……。 なぜ連中は、あの夜の出来事にこだわる? 確かにあの夜、自分は謝知微に会った。だがそこまで嗅ぎ回るほどの大事なのか? 自分が都を離れた後、何が起きた? それとも……あいつが大安門で龍を助けた細工が、ついに露見したのか? 兄である己すら知らぬ隠し事が、まだあの娘の身にあるというのか。
「宮中、謝家、道士……それに坊主か。この面子、どうやって一本の糸で繋がってるんだ?」 謝必安は鳥肉を口に運び、咀嚼しながら思考を巡らせた。
一度に鍋へ放り込んで煮込むな。切り分けろ。 あの道士の狙いは何だ? 自分か、謝知微か、それとも太歳肉芝か? まさか国師の残党がまだ糸を引いているのか? それに、あの遊行の僧侶の動きは輪をかけて怪しい。仏門の人間が妖魔討伐に首を突っ込むことはあっても、道士の影を執拗に追うなんぞ、尋常の所業じゃない。 この世にそんなお節介な坊主がいるか? 奴が狙っているのは初めから謝府ではなく、その道士自身だ。 宮中が人柱を調べ、道士が知微を探り、坊主が道士を追う。三組の勢力。まずは別々の線として捉えるべきだ。
ふと、謝必安の眉間の険しさが解けた。 「坊主が道士を追っている、か……面白いな。あの坊主も一筋縄じゃいかない口だ」
卓の端で肉を貪っていた銜蝉が、横目でその横顔を見上げ、肉を頬張ったまま口をもごもごさせた。『親父ぃ、また誰を嵌めようか企んでる顔だぞ』
「馬鹿言え、ガキが生意気な口を利くな」謝必安は真顔で己の胸を叩いた。「俺のこの澄み切った瞳を見ろ。建康の悪党ども……いや、哀れな民のために仏の慈悲を祈っていたところだ」
銜蝉は呆れたように首を振り、耳を貸そうともしなかった。空になりかけた深皿を鼻先で小突き、物欲しそうに見上げる。『親父、おかわり』
「食うのが早すぎるだろ、お前は饕餮の生まれ変わりか? 少しは俺の分も残せよ」悪態をつきながらも、箸を動かして骨のないスズキの切り身と脂の乗った羊肉を山盛りに盛ってやる。 銜蝉は満足げに喉を鳴らし、再び深皿へ顔を突っ込んで一心不乱に食べ始めた。
謝必安は灰落としの中で燃え尽きた最後の火の粉を見つめ、脳裏で二つの言葉を反芻していた。 ――高郵、道士。 以前、蘇小小が口にしていた道士の話と重なる。高郵と建康に現れたのは、果たして同一人物なのか。
知微の姿が胸をよぎる。両目を奪われ、黒い呪文の鎖に魂を縛り付けられ、絳雪軒の敷居を跨ぐことすら叶わぬあの少女。 だが、今の自分は違う。幼少期のように、ただ踏み躙られるだけの謝必安ではないのだ。
「焦るな」 「まずは謝家を刺激するな」 謝必安は卓の縁を指先でコツンと叩いた。 「坊主だろうが道士だろうが……妹の周りに手を伸ばしてきた以上、どいつが一番先に尻尾を出すか、じっくり見極めてやるまでだ」
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【司天監内部メモ】
建康で官吏をやる上で、最も忌むべきは、耳目を塞がれることではない。知りすぎた情報を前にして、我慢がきかなくなることだ。真っ先に卓をひっくり返そうとする奴ほど、最初に卓の上の料理にされる。




