第104話 巧遇《こうぐう》
【巻ノ二・残頁壹百零肆:『大魏会典・建康図志』残巻】
「凡そ帝京の内、北市を長干と為し、南市を平康と為す。長干は商賈を走らせ、平康は綺羅を集む。朱雀橋は内外の界を通じ、秦淮水は貴賤の流を隔つ。盛世には則ち車馬填塞し、末世には則ち暗鬼夜行す。繁華極まる処、往々にして朽木の虫を生ず」
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陽が西へと傾き、宣詔の大典が巻き起こした波紋も太廟から引き潮のように引いていった。
武陵王府の書斎では、分厚い楠木の格子窓が固く閉ざされ、細く差し込む一筋の残光が山積みの公文書を斜めに切り取っていた。 武陵王・司馬衍は大典でまとっていた重厚な紫金甲を脱ぎ捨て、玄色の平服に身を包んでいた。深く眉間を寄せ、手にした朱筆を宙に浮かせたまま、長いこと動かそうとしない。先帝の急な崩御、遺詔の確定、そして十歳の幼帝の即位。宮中の内外では、宗室、禁衛、宦官それぞれの利害が千筋の糸の如くもつれ合い、どれ一つとして気の休まる案件はなかった。
軋む音を立てて扉が開き、武陵王妃が二段重ねの朱塗りの重箱を提げて静かに足を踏み入れてきた。 「王爺、朝方に宮中へ入られてから、水の一滴すら口になさっておられませぬ」王妃は湯気を立てる朝鮮人参とナツメの鳩肉汁に、精緻な素麺の小鉢を添えて脇机に並べ、柔らかな声で宥めた。「政務がどれほど逼迫していようと、お身体はお一つしかございません。しばし筆を置き、お腹に何かお入れくださいませ」
武陵王は長く濁った息を吐き出し、朱筆を置くと、痛む鼻梁を指で押さえながら小机の傍らへと歩み寄った。匙を取って熱い汁を一口啜ったが、眉間に刻まれた鬱屈は微塵も晴れそうになかった。
向かいに座る王妃は夫の険しい横顔を見つめ、声を潜めて探りを入れた。「宮中のことは……ひとまず片付きましたので?」
「表向きはな」武陵王は匙を止め、声を落とした。「更迭すべき宦官どもは残らず掖庭へ叩き落とし、封鎖すべき殿閣にも厳重な封印を下ろした。だが皇兄が三十年もの長きにわたり君臨されたこの皇城に、妖気に蝕まれた宮闕が二つや三つで済むはずがなかろう。新帝の即位は目前だ、歩みを急がねばならん」
王妃は目を伏せ、哀しげに息をついた。「先太子殿下も哀れなことでございます……もし殿下があのように逸り、奸臣どもの甘言に耳を貸さねば、宮中で無残に果てることなど……」
「口を慎め!」
武陵王の匙が椀の縁を鋭く打ち、乾いた音を立てた。 王は低く冷徹な声を絞り出した。「天子に決して過ちはない。過ちを犯すのは、勅命を奉じる臣下か、邪心を抱く逆賊だけだ。この王府の中とて、その手の言の葉は二度と口にするでない。分かっておるな?」
王妃の肩が小さく震えた。すぐに頭を垂れ、衣の裾を正す。「浅はかな口を利きました。どうかお許しを」
武陵王の声音がわずかに和らぎ、こわばった王妃の手の甲を軽く叩いた。「よい。朝堂の荒波は、本王が一身に引き受ける。其方は午後から長楽坊の夫人方と連れ立って、城南の寺へ祈祷に赴く約束ではなかったか? 支度をして車を出させよ、刻限に遅れるでないぞ。屋敷のことは本王に任せておけばよい」
「失礼いたします。王爺もどうか、思い詰めすぎませぬよう」王妃は一礼し、空の重箱を手に静かに退室していった。
書斎の扉が再び閉ざされた。武陵王はその扉をしばし睨み据えた後、再び筆を執り、目の前の帳面に冷徹な朱墨を走らせ始めた。
未の刻の三点、長干里の四海居。
謝必安は糊の利いた清潔な灰青色の襴衫に着替えていた。中に分厚い袷の肌着を重ね、腰元には青布の帯を無造作に結んでいる。先帝より賜った金牌と印信は胸元の合わせ襟の奥底へと厳重に隠し、外からは一切見えない。腹を太鼓のように膨らませ、仰向けになって大いびきをかいていた銜蝉を引っ掴むと、少し広げた胸元の懐へと強引にねじ込んだ。
階段を降りるや、目ざとい給仕が揉み手をして駆け寄ってきた。「爵爺様、お出かけでございますか? 直ちに腕利きの御者を呼び、極上の二頭立ての暖車を手配いたしましょう……」
「いらん」謝必安は手を振って遮った。「腹一杯食ったばかりだ、腹ごなしに歩きたい。適当に散歩してくるだけだ」
平伏する給仕を尻目に、謝必安は飄々とした足取りで宿の暖簾をくぐった。
懐の中から銜蝉が毛深い頭を半分ほど突き出し、前足を襟元にかけて不満そうに念話を飛ばしてきた。『親父ぃ、飯を食ったばかりだってのに、昼寝もさせずにどこへ連れ回す気だ? 俺様の胃袋の子羊肉はまだこなれてねえんだぞ』
「散歩がてら平康坊へ行ってな、裏の荷物を届けてくるんだよ」謝必安は袖の中の二つの玉箱を軽く指先で確かめ、足を緩めずに進んだ。
長干里から平康坊へ向かうには、秦淮河に沿って朱雀橋を渡らねばならない。
長干里は各地を行き交う商人の町であり、通りの両脇には江北から運ばれた塩俵や乾物が山積みにされていた。だが歩みを進めるにつれ、米問屋の店先には果ての見えない長蛇の列ができているのが目についた。粗末な麻布をまとった庶民たちが重い銅銭の束を握り締め、軒先に掲げられた「一斗四百五十文」の木札を指差しては、青ざめた顔で呪詛を吐き捨てている。腰に短刀を佩いた世家の私兵たちが腕を組んで仁王立ちになり、蠅でも見るような冷淡な眼差しで群衆を見下ろしていた。
朱雀橋を渡ると、空気が一変した。 白粉の甘い香りが、秦淮河の冷え切った水気と共に鼻腔を突いてくる。川沿いには極彩色の画舫がゆらゆらと揺れ、妓楼の反り上がった軒先が秋の陽光を受けて妖艶な輝きを放っていた。錦をまとった名門の子弟たちは飾り房をつけた駿馬に跨がり、酒気を帯びた声で笑いさざめきながら連れ立っている。琵琶を抱えた芸妓は爪を鋭く走らせ、艶やかな調べを奏でていた。
朱門に満ちる酒肉と、庶民の青ざめた飢え。その二つの世界を隔てているのは、わずか十数丈の川幅に過ぎなかった。
謝必安は雑多な歓楽街の路地を抜け、平康坊東街の目立たぬ小路へと折れ、青木の扁額に「弄玉軒」と刻まれた三階建ての茶楼の前で足を止めた。
門前の案内役が進み出てきた。相手の身なりこそ地味な布衣であるものの、その落ち着き払った佇まいと、懐に抱えた毛艶の見事な大猫を認めるや、ただ者ではないと察して愛想よく腰を折った。「若旦那、ようこそお越しで。大堂では前朝の芝居『入塞曲』を演じておりますし、二階の個室では清らな芸妓がお茶を点てておりますが」
謝必安は銅銭を数枚放り渡し、淡々と合言葉を口にした。「七心八葉の玉面観音を一壺、三両二銭の雪底香を添えてくれ。通りが見下ろせて、落ち葉の見える席を頼む」
案内役の目がわずかに動き、無言で会釈すると、彼を二階の窓際の席へと案内した。喉を潤す清茶を一服供えると、音もなく身を引いていった。
二階の席は見晴らしが良かった。階下の中庭の舞台では、役者がけたたましい銅鑼の音に合わせて激しい立ち回りを演じており、窓の外には平康坊の目抜き通りが交差して、車馬と人の波が途切れることなく流れていた。
午後の日差しは暖かく、腹を満たした銜蝉は懐の中で心地よさそうに喉を鳴らして眠りこけていた。謝必安は片手で茶杯を傾け、もう片方の手で猫の柔らかい腹を無心で撫でながら、窓外を見下ろして蘇小小の遣わす連絡役を待っていた。
退屈を持て余しかけたその時、通りの角の彼方から突如として激しい怒号とざわめきが巻き起こった。
謝必安は丸っこい猫の頭を軽く小突いた。「デブ、起きろ。見世物だぞ」
銜蝉は目をこすりながら頭を振った。『あん? どこだ? どこで喧嘩やってんだ?』
同じ頃、平康坊の片隅にある静閑な小庭の奥。
蘇小小は鏡台の前に座り、指先の眉墨を二度三度転がしたものの、結局眉を引くことはなかった。 ここ数日、建康の地下を蠢く不吉な気配が、どうにも胸をざわつかせていた。窓の外を見上げれば秋晴れの空が広がっているが、通りの喧騒にどこか張り詰めたものが混ざっている。
彼女は眉をひそめて墨石を置き、控えていた侍女へ小声で申し付けた。「地味な外套を用意しておくれ。どうにも胸が塞がる、南門の棲霞寺へ線香でも上げに行くよ」
二人が屋敷を出て大通りへと足を踏み出したその瞬間、前方の通りが一気に狂乱へと叩き落とされた。
「捕まえろ! 逃がすな!」 「犬を放て! 噛み殺せ!」
黒い筒袖の着物に身を包み、短刃を帯びた十数名の荒くれ者たちが、牙を剥き出しにして涎を垂らす三頭の巨犬を鎖で引き連れ、怒号を上げながら突進してきたのだ。犬の首には銅の鈴が吊り下げられている。沿道の露店が次々と跳ね飛ばされ、果実や泥水が激しく飛び散り、悲鳴を上げる町人たちが我先にと逃げ惑う。
その三頭の悪犬のわずか数丈前方を、一筋の銀白の光が、天幕の隙間を縫いながら石畳の上を矢のように駆けていた。
目を凝らした蘇小小の心臓が跳ね上がった。全身に塵一つない雪白の毛並み、あのしなやかな身のこなし――阿奴ではないか!
普段なら虚空を踏みしめて歩き、泥の一粒すら毛先に寄せつけぬあの気高き白猫が、今は術法を抑え込まれているのか、四肢を地につけて必死に疾走していた。石畳の上で爪を滑らせ、危うく体勢を崩しかけるほどの狼狽ぶりだ。
巨犬が疾走するたび、首の鈴がジャラジャラと不気味な音を立てる。その鈴の音が肉薄するごとに、銀猫の足元に凝結する薄霜の光が目に見えて弱まっていった。
蘇小小が助けに入ろうと身構えた刹那、阿奴は通りの真ん中で渾身の跳躍を見せた。半ばめくられた御簾の隙間を縫い、前方をゆっくりと進んでいた四頭立ての立派な馬車の中へと滑り込んだのだ。
車内から、女の短い悲鳴が上がった。
その馬車は分厚い青の毛織物で覆われ、四隅には辟邪の赤金鈴が揺れていた。車を警護する十余名の騎兵は一見すると豪商の護衛風の身なりをしていたが、ただの商人が雇えるような手合いではなかった。
車内の異変を察知するや、護衛たちは一斉に手綱を引き絞り、刀の柄を押さえて声を低くした。「奥方様、いかがなされましたか」
車内の動揺はすぐに収まり、涼やかで凛とした女の声だけが返ってきた。「何でもありません、ただの驚きです。進みなさい」
追いついてきた黒ずくめの男たちは勢いを止められず、吠え猛る犬を引き連れて馬車を取り囲んだ。先頭の頭目が刀を半ば引き抜き、怒鳴りつける。「止まれ! その車の中に、当家の主が所望する霊獣が逃げ込んだ。直ちに検分させろ――」
「無礼者!」
馬車の先頭に立つ騎兵の眼光が一変した。親指で鍔を弾き、刀身を半寸抜くや、歴戦の殺気が凄まじい風となって吹き荒れた。男は玄鉄の令牌を頭上高く掲げ、雷の如き怒号を叩きつけた。
「その眼をくり抜いてやろうか! 大内の禁衛が命を受け、皇室の貴人を護衛しておるのだぞ! 何処の野盗が公然と車駕を塞ぎ立てるか! 半歩でも近づいてみろ、容赦なく斬り捨てる!」
力尽くで押し通ろうとしていた男たちの顔色が、その令牌と漆黒の刃を見るや凍りついた。 大内の禁衛――車内の主は、宮中の貴人か?
先頭の頭目の額から冷や汗が吹き出した。歯ぎしりしながら拳を固く握りしめたが、それ以上の暴挙に出る度胸はなかった。背後へ素早く手を振る。「引け!」
十数名の男たちは狂犬を力づくで引きずり、人混みの中へと消えていった。
二階の窓辺。 謝必安の席からは建物の軒先や天幕に遮られ、男たちが馬車を取り囲んだ場面しか見えず、追われていたものが何だったのかまでは判別がつかなかった。
茶を啜りながら喧嘩の高みの見物を決め込んでいた謝必安は、拍子抜けしたように舌を打った。「ケッ、腰抜けどもめ。刀まで抜いておいて引くとはな、見応えがねえ」
懐の銜蝉もあくびを噛み殺した。『全くだぜ。俺様ならせめて一発かまして、小便引っ掛けてから逃げるね。修行が足りねえな』
謝必安は吹き出し、猫の顎を撫で回した。「口先ばかり達者だな。ならお前が行ってこい、俺はここから酒でも飲んで見守ってやる」
銜蝉は白目を剥き、丸い頭を引っ込めた。『腹一杯でやる気が出ねえよ』
笑いながら視線を通りへと戻した謝必安は、散開していく人混みの中に、見覚えのある白い後ろ姿を見つけ出した。遠ざかる馬車を立ち止まって見送っている。 純白の毛皮をあしらった外套の裾から、波打つ水緑色の長裙が覗いている。蘇小小以外にあり得なかった。
謝必安は目を輝かせ、手すりに身を乗り出して大仰に手を振った。「蘇のお嬢さん! 蘇の大旦那! ここだ、上を見ろ、二階だ!」
通りの蘇小小の胸中は激しく乱れていた。先ほど阿奴が馬車へ飛び込んだ一幕はあまりに異様だった。そしてあの馬車の隅に刻まれた目立たぬ紋様……あれは武陵王府の女眷を示す家紋に他ならなかった。 困惑と疑念に囚われていたその時、頭上からあの聞き慣れた、人を食ったような声が降ってきた。
見上げれば、二階の窓から満面の笑みを浮かべた謝必安が身を乗り出していた。 彼女の目がわずかに細まった。この薄情者は大出世を遂げて都中の噂になっているというのに、よりによって妓楼の茶席で呑気に茶を啜っていたとは。
蘇小小は身を翻し、弄玉軒の裏口へと回った。 出迎えた番頭を手で制し、静かに告げる。「挨拶はいい、二階の角席へ案内しておくれ」
間もなく、二階の珠簾がかすかに鳴り、冷涼な白檀の芳香がふわりと漂ってきた。 何食わぬ顔の蘇小小が、向かいの席へ腰を下ろした。
「蘇の大旦那は相変わらず神出鬼没だな」謝必安は笑いながら自ら温い茶を注いで差し出した。「てっきり使いの小僧でも寄越すかと思っていたら、まさか本尊自らお出ましとは」
蘇小小は流し目を送った。「この弄玉軒は私の持ち城よ、私がどこへ行こうと勝手でしょう。お役人風を吹かせるんじゃないわよ。謝少監様ともあろうお方が、永安坊の屋敷の片付けにも行かず、こんな安茶屋で芝居見物とは随分とご気楽なことね」
「まずは本題だ」謝必安は笑みを収め、卓の上へ手を滑らせた。 二つの玉箱と、三角に折り畳まれた薄紙が、するりと彼女の前へ差し出される。
「司天監の宝物庫から引き出してきた『暖玉膏』だ。心脈を温め、陰煞を払う霊薬だ」謝必安は声を潜めた。「お前の伝手を使って、絳雪軒の翠桃へ届けてやってほしい。紙に書いた通りの使い方で、知微の身体を養生させろ」
蘇小小の指先が滑らかな玉箱に触れた。削り取られた官印の跡を一瞥し、嘲弄の混ざった笑みを浮かべる。「謝少監様、少監の椅子もまだ温まらぬうちに、手癖の悪さにはますます磨きがかかったようね。これほどの上物を掠め取ってくるとは、随分と美味い思いをしたこと」
謝必安は鼻をこすった。「公務における損耗品だ、身を守るためなら定めにも適っている。手紙の文面は、あいつが触れればすぐに察しがつくはずだ」 言い終えるや否や、彼は袖からもう一つ、小ぶりな青玉の小瓶を取り出して押し出した。「ほらよ、お前にもやる。百草辟毒丹だ」
蘇小小の目が微かに光った。淀みない手つきで小瓶を懐へと滑り込ませ、小さく鼻を鳴らす。「少しは殊勝なところもあるじゃないの」
薬を託し終えると、謝必安は表情を引き締めた。「それから、三日後の卯の刻、俺は勅命を受けて北の高郵へと巡察に出る。俺が都を空けている間、妹の周りをしっかり見張っていてくれ」
玉箱を収めようとしていた蘇小小の手が止まった。「高郵へ行くの?」 「欽天巡按使だ。公務だからな」
「……」蘇小小は息を吸い込み、茶に口をつけて声を潜めた。「さっき、階下の通りで奇妙なものを見たわ」
「何を見た?」 「阿奴が追われていたのよ」
ブッ――!
謝必安は口に含んだばかりの茶をまき散らした。寸前で顔を逸らしたため卓を汚さずに済んだものの、胸を押さえて激しく咳き込んだ。「おいおい、冗談はやめてくれ。あの阿奴が追われるだと? あいつが他人の目玉を抉り出して踏み潰さねえだけでも有難い話なんだぞ、誰があいつを追い回せるってんだ。見間違いだろ」
「この建康城のどこに、全身が雪のように白く、毛先が氷のように透き通った猫が二匹といると思うの?」蘇小小は確信を込めて告げた。「呪符の短刀を帯びた十数名の刺客が、三頭の凶暴な黒犬をけしかけて、あの子を通り中追い回していたのよ」
謝必安の顔から笑みが消え失せた。
視線を落とすと、懐の銜蝉は口を挟むどころか、耳をぴたりと後ろへ倒し、前足を胸元に畳み、必死に知らぬ顔を決め込んでいた。普段は悪賢く傲慢な阿奴が、ただの凶徒に追われて逃げ惑うなど、天地が引っくり返ってもあり得ない。
蘇小小もようやくその肉団子に目を留め、眉を上げた。「よく見れば、このデブ猫もいたのね。いつもならあの子の尻を追いかけ回しているくせに、どうして今日に限って付いていかなかったの?」
謝必安は再び懐を見下ろした。視線に射抜かれた銜蝉は全身を強張らせ、できるものなら口笛でも吹いて、知らぬ存ぜぬを決め込みたい顔だった。 蘇小小は冷ややかに鼻を鳴らした。「その怯えよう、十中八九何か知っているわね」
謝必安は視線を戻し、低く問うた。「そのあと、どうなった?」
「あの子は武陵王府の女眷の馬車へ飛び込んで、王府の護衛が追手を追い払ったわ」蘇小小は眉をひそめた。「謝必安、あの子は一体何を仕出かしたの? どんな面倒に首を突っ込んだっていうのよ」
謝必安は長く沈黙した。背筋に冷たいものが走る。念話で鋭く問い詰めた。 『デブ、お前、阿奴が何をしに行ったのか最初から知ってたな?』
銜蝉は耳を伏せ、目を泳がせながらしどろもどろに言い訳した。『知らねえよ……本当に知らねえって! 何で俺様を見るんだよ、俺様が知ってる顔に見えるかよ……』
謝必安は目を細めた。この太った豚、間違いなく何かを隠している。 ひとまず苛立ちをねじ伏せ、彼は言った。「今朝早くから太廟へ詰めていてな、宿へ戻った時にはすでにあいつの姿はなかった」こめかみを揉み、言葉を継ぐ。「気性の荒い奴だが、生き延びる手管なら誰よりも心得ている。武陵王府の車に入り込んだのなら、差し当たって命の心配はあるまい」
謝必安は眉を寄せた。「その車はどちらへ向かった?」 「南門の方角よ……おそらくは郊外の寺へ参詣に向かったはずだわ」
謝必安は改めて彼女の装いに目をやった。「お前も質素な外套を羽織って、どこへ行くつもりだったんだ?」
蘇小小は長裙を撫で下ろして立ち上がった。「胸が塞がるから、南門の外の棲霞寺へ厄落としに線香でも上げに行こうとしていたところよ」
謝必安の口元が微かに動いた。「奇遇だな」
蘇小小は彼の平服に視線を落とした。「謝少監様はこれから北の高郵へ赴かれるのでしょう? 前朝の王陵が崩れ、凶煞が跋扈する修羅場だと聞くわ。旅立ちの前に、仏前に灯明の一つでも捧げて無事を祈る気はおありかしら?」
謝必安は自嘲気味に笑い、衣の裾を払って立ち上がると、銜蝉を再び懐深くへと押し込んだ。「仏様がこの大魏の泥沼を気にかけてくださるなら、天下がこれほど腐り果てるはずもねえよ」
雅席の竹簾を押し上げ、振り返って彼女へニヤリと笑ってみせた。「だが気休めも悪くない。行こうぜ、蘇のお嬢さん。たまには俺が用心棒を務めてやる。ついでにあの白猫がどんな茶番を演じているのか、確かめに行こうじゃないか」
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【司天監内部メモ】
古人の言は誠に正しい。人が隠し事をするのは恐るるに足らないが、猫が白々しく惚けるのだけは警戒せねばならない。人が隠し事をする時はせいぜい陰で悪巧みをする程度だが、猫が惚け始めた時は、すでに手遅れな大災厄を腹の中に呑み込んでいる証拠だ。いつかそれが破裂した時、骨の欠片すら拾えやしないのだから。




