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世説新鬼 —神のゴミを拾う男—  作者: 仔猫(コネコ)
第二巻:乱法と残骨
105/109

第105話 衆生相《しゅじょうそう》



【巻ノ二・残頁壹百零伍:『大魏(たいぎ)釈門考・棲霞碑記(せいかひき)』残巻】


「江南の仏寺四百八十、棲霞(せいか)を以て江南第一の道場と為す。山腹に太古の舎利あり、衆生の前世の宿業を照らし見ると伝う。然れども仏門広大なりと雖も、無妄(むぼう)の災いより衆生を救うは難し。朱門は仏光を借りて罪愆を掩い、方外は梵鐘を借りて心魔を伏す」


†


弄玉軒(ろうぎょくけん)の勝手口で、蘇小小(ス・シャオシャオ)は番頭を呼び、青い幌をかけた二頭立ての雇い馬車を二輌用意するよう命じた。 間もなく、路地の奥へ車馬がガタゴトと滑り込んできた。蘇小小(ス・シャオシャオ)は白毛の縁取りをあしらった外套の襟元を合わせ、侍女の手を借りて先頭の馬車へと乗り込んだ。謝必安(シャ・ビアン)はずっしりと重い金猫を抱え、長袍の裾を捌いて後続の馬車へと乗り込んだ。


馬車は青石敷きの道を、車輪を軋ませながらゆっくりと南門へ向かった。 御簾が下り、車内は急に薄暗くなった。謝必安(シャ・ビアン)は錦の敷物にもたれ、口元から気ままな笑みをすっと消し去った。両手を伸ばすと、懐で狸寝入りを決め込もうとしていた丸っこい肉団子を引っ掴んで持ち上げ、正面からその丸々と脂の乗った頬肉を左右へ容赦なく引っ張り、ぐりぐりと揉みしだいた。


「ギャッ! 親父ぃ! 痛えって! 皮が剥がれちまう!」銜蝉(シェンチャン)は宙で四肢をバタつかせ、悲鳴を上げた。


謝必安(シャ・ビアン)の顔に表情はなく、手の力を緩めようともしない。氷のように冷淡な声で言った。 「今夜の蒸しスズキは抜きだ」


猫の長い髭がピクリと跳ね、耳を後ろへ倒して口をへの字に結び、死んだふりを貫こうとする。 「子羊のあばら肉も抜きだ」


黄金色の太い尻尾が突如としてピンと直立し、喉の奥から悲痛な叫びを絞り出した。『親父! 人間そこまで非情になれるもんかよ! 俺様だって雑項科(ざつこうか)の正規構成員なんだぞ!』


謝必安(シャ・ビアン)は冷笑を浮かべ、わざとらしく袖口の隠しポケットを指先で弾いて、コツコツと硬いものがぶつかる音を立ててみせた。 「手元に極上の琉璃妖丹が三つ残っているんだがな。後で野良犬にでも放り投げてやるか」


『待て! 頼むから待ってくれ!』 急所を突かれた銜蝉(シェンチャン)は弾かれたように跳ね起き、両の前足で謝必安(シャ・ビアン)の手首にしがみついて泣き叫んだ。『吐く! 全部喋るから! 親父の手口は鏡妖司(きょうようし)の拷問より陰険だ!』


謝必安(シャ・ビアン)は手を放し、落ち着き払って襟元を正した。「最初からそう言えばいいものを。言ってみろ」


銜蝉(シェンチャン)は揉みしだかれて痺れた頬を恨めしそうに前足で撫でながら、重いため息をついた。『俺様のせいじゃないぜ……阿奴(アヌ)の気性は親父だって知ってるだろ。口止めされてたんだ。俺様がゲロったって知れたら、あいつに毛皮を剥がれちまう……このご時世、雑項科(ざつこうか)で猫をやるのは、辺境で馬刀を振り回すより命懸けなんだぞ』


「要点だけを言え。無駄口を叩くな」


銜蝉(シェンチャン)は首をすくめ、念話を潜めた。『一昨日の夜、あの気味の悪い謝家の本宅を出た後、長干里(ちょうかんり)の通りで俺様が鼻をひくひくさせて、妙な臭いがするから片付けていくかって聞いたの覚えてるか?』


謝必安(シャ・ビアン)の目が細まった。「あれがどうした」


『あの臭い……邪悪なんだけどよ、骨の髄まで知ってる奴の臭いが混ざってたんだ』銜蝉(シェンチャン)は鼻先を舐め、珍しく真顔になった。『今朝、親父が太廟へ出頭した途端、阿奴(アヌ)がじっとしてられなくなって、あの路地を突き止めるって言い出したんだ。親父が出がけに部屋でおとなしくしてろって念を押したじゃないかって止めたんだぜ? そしたらあいつ、毛を逆立てて俺様を「油っ気しか頭にねえ豚」って罵りやがってよ。尻尾を振って窓から跳び出していったんだ。行く前、俺様の喉首に爪を突きつけて、一言でも漏らしたら去勢するって脅しやがった……』


「やはり、ただの散歩じゃなかったか」謝必安(シャ・ビアン)は顎を撫でた。


『あいつにそんな呑気な真似ができるかよ』銜蝉(シェンチャン)は顔をしかめた。『あいつは生まれついての針鼠だぜ。誰が逆らえるってんだ? 俺様は部屋で縮こまって昼寝するしかなかったんだよ』


「長干里で、具体的に何の臭いを嗅ぎつけたんだ?」謝必安(シャ・ビアン)は膝を指先で叩いた。


銜蝉(シェンチャン)は少し口籠もり、忌まわしい記憶を呼び覚ますように鼻をひくつかせた。『死人の骨が腐ったような陰腐の煞気と、鼻が曲がりそうな生臭い青銅の臭いだ――道教の連中が生魂を縛ったり妖霊を封じたりする、あのボロ銅鏡や羅盤の臭いだよ。だが一番やばかったのは、その中に……「身内の臭い」が混ざってたことだ』


「身内?」謝必安(シャ・ビアン)は眉を跳ね上げた。「どこの身内だ」


『猫の臭いだ』銜蝉(シェンチャン)は至って真面目に念話を送り、金色の瞳を細い針のように絞り込んだ。


「猫だと?」謝必安(シャ・ビアン)は虚を突かれ、鼻で笑った。「この世に猫なんぞ幾らでもいる。野良猫が通りを走り回っているだけで、何の珍しさがある」


『ただの猫じゃねえ!』銜蝉(シェンチャン)は焦れたようにその場でくるりと回った。『俺様や阿奴(アヌ)と血を分けた、同族の臭いだよ! 混じり気のない、太古の霊性を宿した本物の臭いだ!』


謝必安(シャ・ビアン)の表情から一切の軽薄さが消え失せた。眉間を深く寄せる。


「そいつは妙だな……」 呟きが漏れた。かつて師匠がこの二匹を託してきた折、この手の太古の異種はとうの昔に血脈が途絶え、世に残るはこの金と銀の二匹きりだと明言していたはずだ。もし長干里(ちょうかんり)に三匹目が潜んでいるのだとすれば――。


「俺様の鼻が狂ってただけかもしれねえけどな……」謝必安(シャ・ビアン)が黙り込むのを見て、銜蝉(シェンチャン)が気まずそうに付け足した。


車内は重苦しい沈黙に呑まれ、軋む車軸の音だけが響いた。 やがて、謝必安(シャ・ビアン)は深く息を吐き出し、膝の上の太った体を抱き寄せると、その柔らかい腹に手を置いて静かに撫で回した。


「今後、この手のことがあれば真っ先に俺へ報告しろ。勝手な真似は許さん。分かったな?」


撫で回されて骨抜きになった銜蝉(シェンチャン)は、我慢できずに喉をゴロゴロと鳴らし、慌てて媚び諂うように応じた。『分かったよ、親父ぃ……次からは真っ先に経費で……いや、報告するぜ!』


建康の南門を抜けると、市井の喧騒は次第に遠ざかり、代わりに遥かな山奥から澄んだ鐘の音が響いてきた。 馬車に揺られて山肌を縫う青石の参道を進むこと半刻、馬車は江南にその名を轟かせる名刹「棲霞寺(せいかじ)」へと辿り着いた。


一行は馬車を降りた。蘇小小(ス・シャオシャオ)は御者に木陰で待機するよう命じると、白の外套の裾を整え、謝必安(シャ・ビアン)と並んで山門の石段の前に立った。周囲には参拝客の群れが引きも切らない。


見上げれば、江南随一の古刹は威風堂々たる気配を放っていた。摂山(せつざん)の斜面に沿って伽藍が幾重にも折り重なり、古い松の木立の合間に反り上がった重檐が顔を覗かせている。晩秋の紅葉が燃え立つように赤く染まり、中腹の舎利塔が木々の梢から突き出ていた。百千の香炉から立ち上る青煙に、山の冷えた松脂と野菊の香りが混じり、吸い込めば胸の奥まで清められるようだった。


二人は並び立って秋色の境内を眺め、しばし言葉を失っていた。


懐の中から銜蝉(シェンチャン)が顔を出し、謝必安(シャ・ビアン)と蘇小小(ス・シャオシャオ)の顔を代わる代わる見比べながら、心の中で毒づいていた。『親父のやつ、まさかこの女狐に気があるんじゃないだろうな? ま、人間どものおかしな目で見りゃ、絶世の美女ってやつなんだろうけどよ。毛並み一つ生えてねえツルツルの肌なんて、どこが良いんだかさっぱり分からねえぜ』


猫が内心で悪態をついている間に、二人は歩き出し、寺門へと向かった。 だが近づくにつれ、清浄であるはずの参道が、左右でまるで別世界に分かれている異様な光景が露わになった。


左手の吹きさらしの泥道には、江北から逃れてきた数百名の流民が身を寄せ合っていた。土気色にやつれた顔、襤褸をまとった老人や幼子たち。骨まで凍みる寒風に震えながら、途切れることのない長蛇の列を作り、欠けた粗末な陶器の椀を両手で握りしめて、草葺きの小屋の下で僧侶が施す薄い粥の一杯をただ待ちわびていた。


一方、右手の広々とした石畳の参道には、豪奢な馬車が何台も連なり、山道の半分を占拠していた。武陵王府をはじめとする名門世家の護衛たちが佩刀の柄に手をかけて道を払い、近づこうとする物乞いたちを荒々しく怒鳴り散らしている。青石の石段の上には分厚い赤絨毯が敷かれ、上へ上へと真っ直ぐ伸びていた。数十名の屈強な下僕たちが粛然と頭を垂れ、両脇に直立して控えている。


蘇小小(ス・シャオシャオ)は微かに眉をひそめ、侍女へ小声で何かを耳打ちした。侍女は人混みを縫って施粥を行う僧侶の元へ歩み寄り、一礼して言葉を交わすと、小さな錦の袋を差し出した。僧侶は一度固辞したものの、侍女の重ねての勧めに折れ、合掌して念仏を唱えながら袋を袖の奥へと収めた。 戻ってきた侍女が囁く。「お嬢様、手はず通りに」 蘇小小(ス・シャオシャオ)は静かに頷いた。


傍らでその一部始終を見ていた謝必安(シャ・ビアン)は、何も言わなかった。 懐の銜蝉(シェンチャン)は二人の顔を見比べ、口を尖らせた。『あの女狐、意外と根は悪くねえのか……いやいや、騙されちゃいけねえ。人間自ら言うじゃないか、毛のない奴にろくな奴はいねえってな!』


気を取り直して先へ進むと、青の毛織物で覆われ、四隅に赤金鈴を提げたあの見事な馬車が、山門脇の別院の門前に静かに停まっていた。 御簾の隙間から車内を盗み見た謝必安(シャ・ビアン)と蘇小小(ス・シャオシャオ)は、思わず我が目を疑った。


贅を尽くした錦の敷物の中央に武陵王妃が端座し、茶を嗜んでいる。その周囲を長楽坊(ちょうらくぼう)の貴婦人たちが取り囲み、色鮮やかな衣装と豪奢な宝飾を煌めかせていた。そして王妃のすぐ傍らに、一匹の白猫が、堂々と身を丸めていたのだ。


銀猫は傲岸不遜そのものの態度で、片方の前足を不快そうに侍女の手の甲に乗せ、侍女が温かい香湯に浸した白絹で泥のついた爪の先を丁寧に拭い清めるのを許していた。普段は鼻持ちならない貴婦人たちが口元に手を当てて目を細め、愛おしげな笑みを浮かべて、手ずから剥いた松の実を猫の口元へと差し出している。


十数歩離れた山門の物陰で、謝必安(シャ・ビアン)は羨ましげに息を漏らした。 何という厚遇だ。 さっきまで心配していたのが馬鹿らしくなってくる。落ちぶれようが何だろうが、化け物はどこへ行こうと化け物だ。あっという間に天下でも指折りの権力者の膝へよじ登り、最高級の馳走にありついているではないか。


隣の蘇小小(ス・シャオシャオ)は目を輝かせ、誇らしげに呟いた。「流石は阿奴(アヌ)だわ。あの子にはあの気品こそがお似合いよ」


『ケッ、何だよあの澄まし顔は』懐の銜蝉(シェンチャン)がひがみっぽく唸った。『さっきまで犬に追われて泥だらけで逃げ回ってた癖に……なあ親父、俺様もあっちへ行っていいか? ちょっと隣でおこぼれに預かるだけでいいんだが……』


「黙ってろ。中へ入るぞ」謝必安(シャ・ビアン)は小声で吐き捨て、満足げな蘇小小(ス・シャオシャオ)を連れて、線香の煙が立ち込める偏殿へと足を踏み入れた。


参道では、清潔な衣をまとった寺僧たちが慌ただしく彼らとすれ違い、山門の別院へと足早に駆けていった。朱門の貴客たちを出迎えるためだ。


偏殿に足を踏み入れると、低く重い読経の声が響いていた。本堂の中央には、丈余の金泥を塗った釈迦立像が安置され、慈悲深い面持ちで衆生を見下ろしている。 その厳かな空気に圧され、普段は不真面目な謝必安(シャ・ビアン)も、懐で騒ぐ銜蝉(シェンチャン)も、悪ふざけの気を引っ込め、思わず背筋を伸ばして息を殺した。


知客僧が進み出て、静かに合掌した。 僧は謝必安(シャ・ビアン)と蘇小小(ス・シャオシャオ)の姿を一瞥し、並の身なりでないことを見定めつつも夫婦の風情ではないと察し、どのような願掛けであるかを穏やかに尋ねてきた。


謝必安(シャ・ビアン)は会釈して辞退した。「大師、お構いなく。この仏前でしばし心の静けさを得られれば、それで十分でございます」 そう言って袖から小袋を取り出して差し出した。「わずかばかりですが、油代の足しにしてください。どうかお納めを」


僧は袋を受け取り、低く読経して一礼すると身を引いた。殿を出る際、外に控える小僧へ他の参拝客を通さぬよう小声で言い含めていた。


蘇小小(ス・シャオシャオ)は侍女から線香の束を受け取り、青銅の長明灯の前で恭しく跪いて目を閉じた。普段の冷徹な面影は消え失せ、敬虔な祈りを捧げている。


謝必安(シャ・ビアン)は懐の銜蝉(シェンチャン)を床へ下ろし、「勝手に出歩くなよ」と耳打ちすると、自身も侍女から線香の束を受け取った。 指先に伝わるかすかな重み、指をかすめる青煙。仏前で線香を手にするなど、一体いつ以来のことだろうか。


傍らで一心に祈る蘇小小(ス・シャオシャオ)を一瞥し、居住まいを正して巨大な釈迦立像へと向き直った。両手で線香を捧げ持ち、頭を垂れる。 立ち上る煙の向こうで、心の中で静かに念じた。 ――北への巡察が滞りなく終わるように。そして、知微が無事でありますように。


拝礼を終えて香炉へ線香を立てた後も、蘇小小(ス・シャオシャオ)は依然として目を閉じ、祈りを捧げ続けていた。邪魔をするのも憚られ、謝必安(シャ・ビアン)は柱の脇に立って、堂内の床へ視線を走らせた。 だが、先ほど下ろしたはずの金色の太った影が、どこにも見当たらない。


謝必安(シャ・ビアン)は眉をひそめた。あの豚め、また勝手な真似をしおって。控えていた侍女へ静かに制止の合図を送ると、足音を忍ばせ、奥殿へと通じる渡り廊下へと足を踏み出した。


キィィィン――!


奥殿を抜け、脇の回廊から外へ出ようとしたその瞬間、腰の『驚蟄(きょうちつ)』が前触れもなく甲高い唸りを上げて激しく震動した。まるで宿敵に出くわしたかのような、激しい拒絶の波動。


謝必安(シャ・ビアン)は五指で短棒を強く握り締め、半歩後ろへ跳び退いた。「どうした?」小声で問いただしたが、『驚蟄(きょうちつ)』は沈黙したまま震え続けている。 動揺を収める間もなく、突如として右腕の奥深くに、火で焼かれたような激痛が走り抜けた。


「何だ、一体?!」苦痛に顔を歪め、呻き声が漏れる。 弾かれたように顔を上げると、後山の塔林へと通じる潜り戸の闇が目に飛び込んできた。


「誰だ!」低く鋭く吼える。 戸口の物陰で、灰色の道服をまとった痩せこけた影が一瞬揺らめき、木立の奥へと掻き消えていった。


軽率に飛び込むことはせず、足音を殺し、残された気配を辿りながら裏壁を回り込み、静まり返った塔林へと踏み入った。


秋風が吹き抜け、松の梢がざわめく。 松葉の積もった敷石の上を十数丈進んだところで、半ば崩れ落ちた古い供養塔の前で足が止まった。


目の前の青石の路面に、くっきりと残された裸足の足跡。


それは尋常ならざる大きさで、硬質な青石に寸余の深さまでめり込んでいた。足跡の輪郭はまるで猛火に炙られたように黒く焼け焦げて脆く崩れており、大気の中に幽かな硫黄の臭いが漂っている。


謝必安(シャ・ビアン)は屈み込み、二本の指先で黒く焦げた石の粉を摘み上げた。 鼻先に近づけて匂いを嗅ぐ。道教の雷符の気配でもなければ、仏門の穏やかな願力でもない。 眉を固く寄せ、息を吹きかけて石粉を払う。 焦げた石の底から、奇怪な焼き印のような紋様が露わになった。触れるものすべてを焼き尽くさんとする、暴虐で灼けつくような残滓。


「この世で、こんな真似ができる奴なんて……乱葬崗でとっくに骨になってるはずの普渡大師くらいしか――まさか、嘘だろ?」


ズシン、ズシン、ズシン。


思考を巡らせる間もなく、地鳴りのような重い足音が、塔林の奥の深い松林から響いてきた。耳を澄ませば、耳障りな濁声で呑気に鼻歌まで口ずさんでいる。


謝必安(シャ・ビアン)は跳ね起き、『驚蟄(きょうちつ)』を握り直して全身を強張らせた。


松林の木漏れ日を突き破り、鉄塔の如き巨躯がぬっと姿を現した。 来たのは、背丈九尺を優に超える、遊行僧と見紛うばかりの大男だった。上半身には色褪せた黒い衣を斜めに引っかけ、片方の古銅色の肩を剥き出しにしている。古木の如く隆起した筋肉には無数の刀傷や矢傷が刻まれていた。頭には戒疤(かいは)もなく、青々と剃り上げられていた、両の手首には鶏卵ほどの大きさの黒鉄の数珠が巻かれている。背中には巨大な朱塗りの酒瓢箪、左手で青竹の杖を突いていた。


そしてその丸太のような右腕の脇に、金色の太った猫を無造作に抱え込んでいたのだ――猫は腹を丸出しにし、四肢を硬直させ、生きているのか死んでいるのかすら判然としない。


男は胼胝とひび割れだらけの巨大な足裏で、枯れ松葉を踏みしめていた。一歩踏み出すごとに、その足元から白い煙が音もなく立ち上る。


男はふと異変に気づいたように足を止め、足元から立ち上る煙を見下ろすと、つるりと剃り上げた頭を平手で叩いて苦々しげに呟いた。 「南無加特林仏《なむガトリングぶつ》、猫を抱くのに気を取られて、火気を収めるのを忘れておったわ……罪過、罪過」


十歩ほど手前で男は立ち止まり、底知れぬ黒い双眸で、静かに謝必安(シャ・ビアン)を見据えた。


その頃、山門の別院。 後山から放たれた凄まじい気配を察知したのか、侍女の腕の中にいた銀猫の阿奴(アヌ)が突如として全身の毛を逆立て、耳を伏せ、強張ったように首を後山へ向けた。朱門の向こうを怯えたように窺うと、王府の侍女の柔らかな絹衣の懐へ、震えながら頭を潜り込ませた。


古刹の奥底に秋風が吹き抜け、塔林の崩れた墓碑を冷たく撫でていく。


†


【司天監(してんかん)内部メモ】


肝に銘じておけ。慈悲を説く老僧に行き遭ったなら、取られるのはせいぜい数十両の銀子で済む。だが、焦げ臭い足跡を残し、全身から肉の焼ける匂いを漂わせる野僧じみた大男に出くわしたなら、脇目を振らずに一目散に逃げ出せ。あの手の狂僧どもが妖魔を調伏する時、敵味方の区別など端から存在しない。一律、火葬である。






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