第106話 一見如故《いっけんじょこ》
【巻ノ二・残頁壹百零陸:『大魏異端考・火宅巻』残巻】
「仏に曰く、三界は安きこと無く、猶お火宅の如し。方外に苦修者あり、涅槃に入らず、専ら心火を飼う。身を以て薪と為し、骨を以て炭と為し、過ぐる処、寸草も生ぜず。世人は狂徒と斥く。然れども厲妖巨魔の世に逢いては、此等の苦修に非ずんば、以て濁穢を焚き尽くすに足らず」
†
崩れかけた古塔の傍ら、秋風が枯れ草を撫で、赤く染まった木々が連なっていた。 謝必安は警戒を解かず、『驚蟄』の短棒を強く握りしめていた。木肌に走る天然の雷紋が細やかな光を散らし、手のひらから右腕へと痺れるような刺激を伝えてくる。肉の奥深くに埋もれた妖骨までが、かすかに呼応して疼いていた。
彼は短棒の先を軽く叩き、小声で宥めた。「おいおい、落ち着け。暴発するなよ」
対峙する九尺の巨漢はそれを見て、手にした斑竹の杖を無造作に土へと突き刺した。 男の全身を包んでいた凄まじい気配はすでに霧散し、胼胝だらけの蹠を冷たい泥に下ろしている。足元の白煙も消え、ただ幽かな焦げ臭さだけが漂っていた。男は団扇のような巨大な手を上げ、節くれだった指で額をポリポリと掻きながら、謝必安を頭上から見下ろした。無精髭に覆われた粗野な面魂に、歴戦の風塵が刻まれている。
「この脂の乗り切った丸っこい小動物……お前の飼い猫か?」
謝必安は頷き、男の腕の中で白目を剥いて四肢を硬直させている太った猫を一瞥した。「生きてるか?」
大男は汚れた顎を乱暴に撫で回し、大口を開けて嗤った。「死にゃあせん! あと茶半杯分も遅けりゃ、熱い脂の塊に煉成されてたところだがな。俺はてっきり、運良く後山で化け損ないの畜生を拾ったから、皮を剥いで一杯やれると思ったんだがよ」
謝必安は口を噤んだ。煮溶かされるのと皮を剥がれるののどこに差があるというのか。
神識を集中させ、銜蝉へ念話を飛ばす。「おい、デブ。無事なら返事をしろ」
だが金色の肉団子は耳一つピクリとも動かさず、何の反応も示さない。 大男が横目でそれを見て、嘲るように鼻を鳴らした。「無駄だ、念話を送る気か? この猫、飼って長いのか?」
謝必安の目が据わった。「あんたには関係ない」
「好きに強がれ」大男は平然と言い放った。「教えておくが、この畜生の全身の霊気は俺が封じてある。今のあいつは一言も念話を飛ばせねえよ」
そう言いながら、大男の視線がふと謝必安の手元にある焦げた木棒へと移った。太い眉が跳ね上がる。「待てよ。お前のその真っ黒い雷撃木……どこで手に入れた?」
謝必安は目を細めた。「非売品だ。うちの婆さんからもらった」
「婆さん?」 大男は眉間に深い溝を刻み、腕の中の硬直した猫を見下ろし、次いで謝必安を上から下まで値踏みするように眺めた。やがて野太い声で問うてきた。「お前、全身真っ白で、いつも鼻で人を小馬鹿にしてる小娘みてえな猫も飼ってねえか?」
謝必安は冷ややかに見据えた。「そうだとしたら何だ」
「ガハ! ガハハハハハ!」
山野を揺るがすような哄笑が、大男の喉から轟いた。周囲の空気がびりびりと震え、頭上の松から松ぼっくりが雨あられと落ちてくる。 大男は腕の中の金色の肉塊を、無造作に地面へ放り投げた。
ドサッ!
地面に落ちるや否や、銜蝉の身体から術の縛りが解けた。四肢をがむしゃらに動かして地を這い、謝必安の背後へと転がり込む。その脚にしがみつき、太った体を篩のように震わせながら、喉を引き裂くような泣き声を張り上げた。
『ギャアアア! 親父ぃ! 俺様、危うく酒の肴にされて、脂まで搾り取られるところだったぞ! あの生臭坊主と悪徳道士の野郎、香辛料をぶち込んで俺様を丸ごと煮込む気だったんだ! 仇を討ってくれ!』
大男は腕を組んで肩を揺らし、鼻を鳴らした。「お前、この畜生を甘やかしすぎだぞ。こんな贅肉ばかりつけさせて、半端者になり下がってやがる。俺に一年預けてみろ。一皮剥いて、根性を叩き直してやる」
銜蝉は恐怖のあまり謝必安の袴の裾へ頭を潜り込ませ、必死に念話を飛ばした。『親父、この狂った坊主の戯言に耳を貸すなよ! 俺様は素直で愛らしいのが売りの猫なんだ、皮を剥がれてたまるか!』
謝必安は足元の無様な肉団子を無視し、目の前の巨漢を見据えて冷たく問うた。「阿奴……あの白猫が通りで追い回されていたのは、あんたの指図か?」
大男は遠く雲煙に包まれた摂山の頂を見やり、記憶を探るように舌を鳴らした。「そうでもあり、そうでもねえな」
「どういう意味だ?」
大男は振り返り、牛のように見開いた両目で心底鬱陶しそうに謝必安を眺めると、太い指で彼の肩を小突いた。「ちっ! この青二才め、建康でぬくぬくと役人飯を食ってるうちに目ん玉まで腐っちまったのか? 俺の顔すら忘れやがったか!」
謝必安は半歩身を引いた。「俺があんたを知ってると?」
大男は首を振り、傍らの苔むした巨石を見つけると、どっかりと腰を下ろした。「よく知ってるはずだぜ」彼は謝必安の木棒を指差した。「その雷撃木を持っていて、まだ思い出せねえのか?」
謝必安の身体が強張った。目の前の無骨で角張った顔を凝視し、危うくその場で跳び上がりそうになった。 「はあ?! に……二師兄?! 嘘だろ、おい……なんでそんな姿になってんだよ!」
大男は青々と光る頭を撫で回し、平然と言い放った。「そんな姿もこんな姿もあるかよ。頭を丸めて、身体を一回り鍛え直しただけだ」手首に巻かれた漆黒の数珠をジャラリと鳴らす。「数珠が少しデカくなって、僧衣とも俗衣ともつかねえ黒い着物を羽織った。他は……昔のままの男前だろ。何が不満だ、このなりじゃ分からなかったのか?」
謝必安は息を詰まらせた。十万八千里も変わり果てておいて、誰が気付けるというのか。 こめかみを強く揉みながら歩み寄り、冷え切った石段の端に腰を下ろした。
二師兄は背中から朱塗りの酒瓢箪を外し、桐油を染み込ませた麻布の栓を引き抜いた。途端に、硫黄と香草の混ざり合った猛烈な酒の香りが鼻腔を突く。 差し出された瓢箪を受け取り、謝必安は口をつけて小さく一口啜った。
「ゴホッ……ゴホゴホッ!」 喉を焼けた火箸で抉られるような熱さが駆け抜け、激しく咽せ返った。だが奇怪なことに、右腕の奥深くで疼いていた妖骨が、その灼熱の酒気によって押さえ込まれ、全身の強張りがすっと解けていく。
二師兄は豪快に笑い、丸太のような平手で謝必安の背中を叩いた。骨が砕けそうな衝撃が走る。「でかくなったな、小僧。最後に会ったのは……」
謝必安は胸を押さえて息を整え、言葉を継いだ。「十七の時だ」
「そうだ、そうだ!」二師兄は大口を開けて笑った。「おい小弟、師妹のやつにお前、相変わらず苛め抜かれてるんじゃないだろうな?」
謝必安は白目を剥き、冷淡に返した。「苛め? あれを苛めなんて生易しい言葉で呼べるかよ。俺が今こうして五体満足で座っていられるのは、師匠の顔を立ててくれてるからだ」
「ガハハ! 可愛がられてる証拠だ、兄弟の情ってやつよ!」 「あの手厚すぎる情なら、二度とお目にかかりたくないね」 「違いの分からん奴だな、果報者め!」
謝必安は口元の酒を拭い、ようやく本題に切り込んだ。「昔話はそこまでだ。二師兄、何年ぶりかで会ったと思えば、その格好は何なんだ? 本当に出家して仏門に入ったのか? 戒疤も焼いてねえようだし、さっき唱えていたのはどこの仏様の名前だ?」
二師兄は真顔で謝必安を見つめ、深いため息をついた。「お前、大人になるにつれて随分とつまらん男になったな。昔はもっと面白かったぞ」
「俺のどこがつまらないんだよ! 納得のいく説明をしてくれ!」
二師兄は遠く赤く染まる山々を眺め、懐かしそうに目を細めた。「うちの門に入りたての頃を覚えてるか? あの頃のお前は小さくて、悪知恵ばかり回って口が悪くてよ、毎日俺の後ろをついて回っては稽古を覗き込んでた」
「ああ、覚えてるよ。ボロボロの教本を片手に、丸太に向かって拳や蹴りを打ち込んでたな」
「俺はな、あの時にお前が言った言葉をずっと覚えてるんだよ」
幼い謝必安は二師兄の技の溜めが長すぎるのを見て、笑いながら出鱈目を並べ立てたのだ――仏法が妖魔を倒せるなら、一発ずつ撃つ必要がどこにある? 一発で足りなきゃ十発、十発で足りなきゃ百発。高頻度で連射して広範囲を焼き払う絨毯爆撃こそが男の浪漫だ、と。
『師兄、その仏の火を一息に三千発連射できるようになったら、口で南無ガトリング仏って唱えりゃいいんじゃないか?』
松風が吹き抜ける中、二師兄は剃り上げた頭を真面目な顔で撫でた。「あの時、俺は心底腑に落ちたんだよ。お前が仏法をそう使えばいいと言うなら、試してみる価値はあるとな」
謝必安の頬が引き攣った。「おい……二師兄、待て! あれはただの冗談だぞ!」
「冗談?」二師兄は首を傾げ、強く頷いた。「だが……これが滅法使い勝手が良くてな」
謝必安は冷汗を流し、額を押さえた。「本当に完成させちまったのかよ……で、その格好は何なんだ? 坊主じゃないんだろ!」
「この技を練ると火気が強すぎてな、髪の毛が三日と持たずに焼け焦げちまうんだよ。旅先で焦げ臭い頭を気にするのも面倒だから、いっそ綺麗さっぱり剃り落としたのさ」男はつるりと剃り上げた頭を叩いた。「そしたら道行く連中が俺を坊主と勘違いし始めてな。剃った頭なら経の一つも唱えなきゃ損だろ? 訂正するのも億劫になって、そのうち誰もが俺を本物の僧侶だと思うようになっちまった」
謝必安は内心で頭を抱えた。昔の自分が放った適当なネットスラングが、二師兄の人生を丸ごと脱線させてしまったというのか。南無三、罪深いにも程がある。
二師兄が顎を撫でた。「どうだ、見えねえか?」 謝必安はじっと眺め、ぽつりと漏らした。「……八十七パーセントは本物に見える」 「ガハハ! 見えりゃあ上等だ!」
謝必安は表情を引き締め、声を低くした。「ここへ来る前、街で道士がひと月前の忘憂閣の騒動を嗅ぎ回っていて、その後ろをお節介な僧が尾行していると聞いたんだが……」
二師兄は悪びれる様子もなく、歯を見せて笑った。「ガハハ、気付かれてたか!」
「やっぱりあんただったのか! なんで急に建康なんかに現れたんだ?」
二師兄は笑みを収めた。「なぜだと? あの御婆がお前を司天監へ放り込んでおとなしく飯を食わせるはずだったのに、お前ときたら行く先々で騒ぎを起こし、挙句に出世までしやがった。皇宮で太歳に喧嘩を売り、大安門であれだけの大立ち回りを演じりゃ、天の神仏も地の悪鬼も黙っちゃいねえぞ」
謝必安は鼻をこすり、目を泳がせた。「そんなに褒められると照れるな。俺だって好きでやったわけじゃない」
バシィッ! 二師兄の太い平手が容赦なく後頭部に炸裂した。「相変わらず面の皮の厚い奴だ!」
叩かれた痛みに顔をしかめながら、謝必安は不敵に笑った。「もっと褒めてくれよ」
二師兄は呆れて首を振り、再び表情を硬くした。「御婆から南方の瘴気地帯にある天道の歪みを調べるよう命じられてな、ついでにお前の様子を見に立ち寄る気だったんだ。だが江淮のあたりで、怪しげな道士を二人見かけてな。一人は骨の袋をぶら下げて北へ去り、もう一人は奇妙な古物を持っていた。面白そうだから、そいつを追って建康まで足を伸ばしたのさ」
謝必安の目が細まった。「あんたの目を引くほどの古物だと?」
「大層な代物だ」二師兄が頷いた。
謝必安は眉をひそめた。
「その道士は何者だ?」
「俺の見立てが正しけりゃ、とっくに途絶えたはずの『九嶷山』の古道統の生き残りだ。奴が持っているのは、太古の遺物『量天照魂銅鑑』だ」
謝必安は眉をひそめた。「古い銅鏡か? それの何が珍しいんだ」
二師兄は冷笑を浮かべ、足元の銜蝉を一瞥した。「ただの鏡じゃねえ。上古の霊猫の頭蓋骨を芯にし、外側に渡厄の赤金を鋳込み、台座と縁に『落魄経』の呪文がびっしりと刻まれている」
『猫の頭蓋骨?!』 話を聞いていた銜蝉が悲鳴を上げ、全身の毛を逆立てた。 謝必安も合点がいった。こいつが嗅ぎつけた「身内の臭い」とは、そのことだったのか。
「あの法具は妖魔、特に霊猫の血を引く者を封じるために作られたものだ」二師兄が言葉を継いだ。「今朝の路地裏で、お前の白猫がどういう風の吹き回しか、自ら奴の前に姿を現しちまってな。遠くから俺を見つけて動揺したのか、気配が大きく乱れた。運悪く老道士に気取られ、鏡の力で霊気を濁らされ、犬の首の鎖魂鈴で術を封じられて逃げ回る羽目になったのさ。面白そうだから後を追ってきた」
謝必安は呆れ顔になった。「二師兄、そこにいたなら助けてやればよかっただろ!」
大男は目を剥いて開き直った。「助ける理由があるか! あんな腑抜けた姿を晒しおって、俺が各地を渡り歩いてきた中で、あんなに弱い霊猫は見たことがねえぞ!」
理不尽な叱責に、謝必安と銜蝉は揃って首をすくめ、沈黙するしかなかった。
「まあいい、幸いなことにな」二師兄はつるりと剃り上げた頭を叩いた。「俺はここの方丈と昔馴染みでな、顔を見に来たついでに後山でお前を拾ったってわけだ」
謝必安は頭の中で糸を繋いだ。「ってことは、さっき奥殿で銜蝉を攫おうとした道士を、二師兄が横からぶん殴って追い払ったのか?」
「そうだ。寺に二匹目の猫がいるとは思わなかったんだろうが、俺に出くわしたのが奴の運の尽きよ。逃げ足だけは早かったがな……」
言葉の途切れた瞬間。
山門の別院の方角から、貴婦人や侍女たちの鋭い悲鳴が山風に乗って響き渡った。刃の交錯する澄んだ金属音と怒号が重なる。
ゴォォン――! ゴォォン――!
棲霞寺の最高峰にある警鐘が、けたたましく打ち鳴らされた。
「謝殿! 謝殿――!」 「薄情者! どこにいるのよ、謝必安――!」
偏殿のあたりから、侍女と蘇小小の切迫した呼び声が風に乗って届いてくる。 二師兄は動きを止め、怪訝そうに謝必安をじろりと見下ろした。
痛いほどの視線を浴び、謝必安は慌てて咳払いをして両手を合わせた。「南無阿弥陀仏……誤解だ、断じて誤解だぞ! あれとはただの仕事上の付き合いだ、絶対に御婆や師妹に変な報告をするなよ!」
大男は白い歯を剥き出しにして嗤った。「案ずるな、俺の口は精進料理の湯葉より堅い。御婆にも師妹にも一切漏らしはせん」
その邪悪な笑顔を見て、謝必安の背筋に冷や汗が流れた。保証されればされるほど、破滅の足音が近づいてくる気がする。 足音が近づいてくるのを聞き、彼は腹を括って立ち上がり、声を張り上げた。「ここだ! こっちにいるぞ――!」
「この薄情者め――!」
長裙の裾を掴んで駆け込んできた蘇小小は、文句を言い終える前に、謝必安の隣に仁王立ちする魁梧な大男の姿を認めて息を呑んだ。急ぎ乱れた襟元と髪を整え、何食わぬ顔で淑やかに一礼する。
二師兄は口端を吊り上げ、高大な身躯を揺らして、見よう見まねの合掌を返した。 蘇小小は微笑みを崩さぬまま、視線だけで謝必安を刺した。「その大和尚はどちらの方?」
返答に窮する謝必安を尻目に、彼女は切迫した声で告げた。「謝必安、山門の前で刃傷沙汰よ!」
謝必安の目が鋭く細まり、『驚蟄』を握る指に力がこもった。「あの老道士、引き下がる気はないらしいな。うちの猫をそこまで虐めておいて……二師兄、司天監が民間の高士を徴用して妖魔退治を行うんだが、この公務、一枚噛む気はあるか?」
「二師兄?」蘇小小の視線が二人を行き交った。 謝必安は片手を軽く振って彼女を制し、後で説明すると合図した。
二師兄は凶悪な笑みを浮かべ、再び泥の上へ素足を踏み出した。全身の骨が爆竹のように鳴る。
「南無加特林仏。師門の掟に従い、貧僧の托鉢は人ならざる者を成仏させ、決して鉢を空にして帰ることはない。善哉、善哉。弟の嫁御、ここで待っておれ。ひと暴れしてすぐ戻る」
謝必安は絶句し、蘇小小はその場で硬直したまま、言葉を失っていた。
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【司天監内部メモ】
犬を打つ前には飼い主を見よ。猫を捕らえる前にも、その背後の血筋を洗っておくべきだ。至極真っ当な理屈であろう。




