第98話 良宵苦短《りょうしょうくたん》
【巻ノ二・残頁玖拾捌:『大魏官制考・司天監』残巻】
「司天監とは、天文暦法、占星卜筮、妖を収め穢を除くを司る。監正一人を置き、陰陽禍福を総理す。国の将に興らんとするや、太史に星を観る。国の将に亡びんとするや、暗室に鬼を役す。其の殿宇は森然として、深きこと測る可からず」
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謝府、退思堂。
青玉の文鎮がかすかに黄ばんだ宣紙を押さえ、謝太保は紫檀の長卓に向かい、狼毫の筆を走らせて一心に公文を査閲していた。
「あの者は立ち去ったか?」老人は目を上げることなく、影に佇む老僕へ何気なく尋ねた。
謝忠は身を屈めて頭を垂れ、低声で言上した。「旦那様、先ほど立ち去られました。すでに劉安に馬車を操らせ、必安公子を滞りなく宿へ送り届けるよう手配いたしました。お発ちになる際、旦那様のご指示通り、公子のお手元金として二百両の銀子を持たせてございます」
謝太保の筆を運ぶ手がかすかに止まり、宣紙に小さな墨の滲みが広がった。その声がわずかに沈む。「知微の方はどうだ? 眠りについたか?」
「知微お嬢様は、必安公子がお発ちになって間もなくおやすみになられました」
老人は目を上げ、薄暗い蝋燭の火の下でその眼差しを底知れぬ色へと染めた。「何か変わりはあったか?」
「旦那様、暗衛からの報告に異状はございませぬ。知微お嬢様は今宵お薬を召し上がり、ご様子もここ数日よりかえって優れてお見受けいたしました」
謝太保はそこでようやく深く長い息を吐き出し、筆を置くと、凝り固まった眉間を指で揉みほぐした。「あの畜生めが……少しは軽重の弁えがあるらしいな。よい、夜も更けた。寝所の支度をせよ。明日の昼下がり、自ら絳雪軒へ足を運ぶ」
「かしこまりました。ただいま輦の手配をいたします」
夜色は墨のように濃く、謝氏の家紋を掲げた二頭立ての大車が、人影のない冷え切った青石の道を静かに進んでいた。
時刻は宵禁の最中であり、通りには提灯を掲げ、長戟を手に刀を押さえて巡回する禁軍の兵が頻繁に行き交っている。深夜に堂々と禁を破って走る車馬を認めるや否や、夜巡の禁軍はたちまち長槍を構え、鋭く呼び止めた。「夜歩きは何者だ! 止まれ、馬を降りよ!」
御者の劉安は眉一つ動かさず、袖を払って車体脇に吊るされた烏木の鑑を照らし出し、古篆で刻まれた「謝氏族徽」を露わにした。
先頭の将校はその家紋を認めるや否や顔色を一変させ、抜きかけの佩剣を鞘へと押し戻すと、慌てて小走りで駆け寄り平伏した。 額の冷や汗を拭い、恐縮しきった様子で言った。「車内におわす貴人様とは露知らず! 職務ゆえ定めに従って巡回しておりましたところ、不案内から貴人様の車駕を妨げましたる無礼、平にご容赦のほどを!」
周囲は水を打ったように静まり返り、車を牽く駿馬の鼻息だけが響く。
沈黙の中、閉ざされた車内から低く落ち着いた男の声が響いた。「受け取れ」 その声と共に、かすかに開かれた窓の隙間から一筋の金光が放り出された。
将校は素早くそれを受け止め、火元へ寄せて見下ろすや、その態度は一層の畏敬に満ちたものとなった。背後の部下たちへ慌てて手を振る。「上使の深夜のお成りと知らず、数々の無礼を平にご容赦願います! 門を開けよ! 早くお通ししろ!」
言い終えるや、将校は両手で恭しく頭上へ掲げ、「御前免跪、専摺密奏、不受三法司勘問」の三行が刻まれた金牌を返上した。帳が一角だけ持ち上がり、手が伸びて金牌を引き取った。
馬車が再び車輪を軋ませて動き出すと、禁軍の一隊は揃って頭を垂れ、拱手して道を空け、街道の両脇へと身を引いて車駕をそのまま通した。
車内では、謝必安が気怠げな風情で、絵に描いたような貴公子の姿で分厚い錦の敷物にもたれかかっていた。
銜蝉が頭を寄せて彼の手のひらにすり寄り、媚びを売りながら念話を送ってきた。『親父ぃ、今の貫禄、マジで痺れたぜ! その金牌、俺様の首に掛けさせてくれないか? そしたら俺様も外でデカい顔して威張り散らせるだろ』
謝必安は指先でその額を小突き、笑い飛ばした。「このデブ、図々しい夢を見るんじゃない。この金牌は飾りじゃないんだぞ。お前が持ち出して失くしでもしたら、俺はどこで泣けばいいんだ? 第一、もう一人同じものをくれる老皇帝なんてどこにもいやしねえんだからな」
『ケチくせえなあ……』
銜蝉は不服そうに呟いた。だが再び謝必安の前に伏せるや、そのピンク色の鼻先を激しく二度ヒクつかせ、途端に声音を変えて厳格に告げた。『親父! この路地の暗がりに、酸鼻を極める生臭い穢れの匂いが潜んでやがる。胸糞悪くて吐きそうだ、ついでに片付けておくか?』
傍らで丸まっていた阿奴も、敷物の上でゆっくりと目を開けた。清冽な光を湛えたオッドアイが暗がりの中で妖しく輝き、首をわずかに傾げて、無言のまま謝必安を見つめた。
「何が片付けるだ。手元の仕事がまだ足りないとでも言うのか?」謝必安はうんざりした顔で太った猫の頭を軽く小突いた。「俺たちは昨日建康に戻ったばかりで、まだ司天監の敷居すら跨いでねえんだ。今日ばかりは天王老子が来ようと俺をこき使うことはできん。宿へ戻って爆睡だ」
銜蝉は首をすくめ、大きなあくびを噛み殺した。『それもそうだな。さっき屋敷の庭であの二頭の駄犬を鍛えてやったら、俺様の身体中の骨が軋んでやがる。宿に着いたら起こしてくれよ』
言い終えるや、この金色の巨大な肉団子は敷物の上で二度ほど寝返りを打ち、前足を軽く舐めると、頭を腹の中に埋めて大いびきをかき始めた。
謝必安はそこで冷淡な銀猫へと向き直り、声を極限まで潜めて尋ねた。「阿奴、さっき知微にお前が抱かれた時、珍しく暴れなかったな。あいつの身体の中に、何かを忍ばせただろ? あの娘の周りは手練れ揃いだ、お前の仕掛けた手並み……謝家の老いぼれどもに見抜かれたりはしないだろうな?」
それを聞くや、阿奴は呆れたように白目を剥き、ぷいと身体を背けて尻を向けた。疑い深い男など相手にするのも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりだ。
謝必安は苦笑し、慌てて詫びを入れた。「すまん、言葉が悪かった。我らが阿奴の術法は玄妙を極めているんだ、謝家の半端者どもに見抜けるはずがないよな」
そのお世辞を聞いて初めて、銀猫は微かに誇らしげな低い喉鳴らしを一つ漏らし、それ以上の追及を免除してやった。
道中は何の障害もなく、半刻も経たぬうちに馬車は長干里の四海居の店前へと滑り込んだ。
小者が恭しく帳を掲げて謝必安と二匹の猫を降ろした。馬車は向きを変え、乾いた蹄の音をパカパカと響かせながら、静寂の長街の闇へと消え去っていった。
謝必安が進み出て戸を叩いた。
トントントン。
何度か叩くと、奥から慌ただしい足音とかすかな灯火の光が漏れてきた。給仕が扉越しに怯えながら声を張り上げる。「お客様……外はとうに宵禁でございます、掟を破って客を入れるわけにはまいりませぬゆえ、他所で風を凌げる場所をお探しくだされ」
「俺だ、東海一号の部屋の者だ」謝必安が淡々と告げた。「謝府の車で送られてきた」
ギィィ……。
まるで呪文を唱えたかの如く閂が一瞬で外され、給仕の満面に笑みを浮かべた顔が扉の隙間から飛び出してきた。「へへっ! 謝の大旦那様! ありがたや、よくぞお戻りで! 旦那様でなければ、あっしに十の肝玉があってもこの扉は開けられませんぜ! 下の口さがない下男どもが夕暮れ時に、旦那様は名門へ入ったきり戻られぬのではなどと噂し、番頭までもがあっしに八つ当たりしてきまして……これだけの大盤振る舞いのお代をどうしたものかと肝を冷やしておりましたところで……」
謝必安は大股で足を踏み入れ、袖から十両の大きな銀塊を取り出すと、パチンと音を立てて給仕の胸元へ押し当てた。
「取っておけ。銅銭は重くて敵わん、この銀子で釣りは来るだろう」
十両の官銀ともなれば、庶民なら数か月は食いつなげる大金であった。
給仕はきめ細やかな文様の刻まれた重厚な銀塊を両手で押し抱き、耳元まで口を裂かんばかりに笑い崩れて平伏した。「滅相もございません! お釣りが来るどころか、何日連泊なされても余りある大金でございます! 旦那様、夜食はお召し上がりになられましたか? 厨房の火は落としましたが、あっしが腕によりをかけ、酒を温め冷菜を切り揃えてお持ちいたしますが!」
謝必安は懐の重い銜蝉を撫でながら、眉を上げて笑った。「目ざとい奴だな。酒を一壺温め、肉の小鉢をいくつか運べ。寝る前に顔を拭く熱い湯も頼むぞ」
「かしこまりました!」給仕が応えて背を向けかけた瞬間、思い出したように自分の後頭部をパチンと叩いた。「おっと、あっしの物忘れの酷さときたら! 旦那様、先ほどお出かけになられた後、司天監から早馬が参りまして、謝拾遺様ご本人へ手渡せと急ぎの書状を預かっております!」
そう言って、給仕は懐から司天監の鮮烈な赤の封蝋が施された羊皮紙の封筒を取り出した。
謝必安は書状を受け取り、封蝋に傷がないことを確かめると、何気なく尋ねた。「俺の部屋の物に手を触れた奴はいないな?」
「触れておりません! 断じて! 旦那様のお言いつけなくして、誰が東海一号の敷居を跨げましょうか!」
謝必安は頷いて書状を袖に収め、木階段へと足をかけた。二段上がったところで、振り返って申し付けた。「洗濯に出した官服は明日の朝一番で使う。熱い湯と朝餉も抜かりなく用意しておけ」
給仕は階段下で平伏して答えた。「心得ております、旦那様、ごゆっくりお休みを!」
数羽の古烏が不気味に鳴き交わしながら闇夜を飛び去り、窓の外の夜色は一層濃さを増し、遠くから巡回の陣太鼓の重い響きが届いていた。
部屋の隅の地炉では赤泥の炭火が赤々と燃え盛り、鉄網の上の脂の乗った羊肉の串がジュウジュウと音を立てて脂を滴らせ、炭火に触れて食欲をそそる濃厚な煙を立ち上らせている。
給仕は流行りの名士の好みに合わせて生姜や橘、山椒の薬味を揃えていたが、謝必安はその薬臭さを嫌い、生粋の桑落酒を一壺だけ所望した。卓の上には、蝉の羽の如く薄く切られた五味の干し牛肉、シャキシャキとした蕪の甘酢漬け、そして糖蜜をたっぷりとかけた濃厚な乳酪の小皿が並んでいる。
彼は竹箸で蜜の絡んだ乳酪を口へ運び、数度咀嚼して呟いた。「悪くない」 続いて封蝋を解き、書状を改めた。ざっと二、三行に目を通すと、紙切れを卓の片隅へ無造作に放り投げた。
銜蝉は卓の脇で焼き羊肉を物欲しげに見つめながら、合間を縫って尋ねた。『親父ぃ、司天監のペテン師どもは手紙に何て書いてきたんだ?』
「監正が明日の朝一番で出頭しろとさ」謝必安は青磁の杯を揺らし、悠然とした口調で言った。「どうせ今回の任務の報告書を急かすか、千糸叟の不始末の落としどころをつけさせたいんだろう。明日は老沈が書類を書き上げているか見て、できてりゃ丸写しして提出すればおしまいだ」
この時すでに阿奴は眠りについており、謝必安も今宵はすでに腹を満たしていたため、銜蝉に言った。「デブ、俺はもう食えん、全部お前にやる。また腹が減ったんだろ?」
銜蝉は大喜びした。『親父ぃ、なんで俺様が腹ペコだって分かったんだ? あの二頭の馬鹿犬は鍛え甲斐がなさすぎて、叩き直すのに九牛二虎の力を使ったからな、腹の中が空っぽだったんだ!』
そうして太った猫が歓喜の声を上げて肉串と小鉢に齧り付く傍らで、謝必安は冷たい夜風を肴に一人酒を傾けた。知らぬ間に桑落酒の一壺は空になり、部屋には芳醇な酒香と炭火のかすかな温もりだけが漂っていた。
翌朝、夜明けの光が白み始めた。
給仕は時間通りに洗面用の湯を運び込み、糊を利かせて皺一つなく整えられた青緑色の拾遺官服を恭しく差し出した。
部屋へと運び込まれた朝餉も極めて豪勢だった。骨の髄まで煮込まれた熱々の羊肉胡椒汁、焼きたてで外はサクサク中はふっくらの胡麻焼き餅が二枚、細切りにされた鹿肉の味噌漬け、そして湯気を立てる大椀の甘い豆乳。
謝必安は熱い汁を啜りながら焼き餅を平らげ、口元を拭うと、全身の血脈に活力が蘇るような快感を覚えた。銜蝉も腹一杯に平らげ、ピンク色の舌で口元を舐めながら感嘆の声を上げた。『この宿、住み心地が最高だな! 飯は旨いし寝台はふかふかだ。親父、いっそずっとここに住み着いちまおうぜ?』
謝必安は官服に袖を通し、帯を締めながら何気なく返した。「追々な。都の表も裏も片付けなきゃならん厄介事が山積みだ。雑項科の役所を建て直すだけでも相当な時間がかかる、ここに居座る時間は腐るほどあるさ」
身なりを整え終えると、烏木の簪で長髪を束ね、腰に『驚蟄』を無造作に差し、金猫を抱き上げ銀猫を従えて階下へと降りた。
辻で青絹の帳を垂らした馬車を拾い、城北の司天監の役所へと一直線に向かわせた。
朝靄の晴れゆく建康城。馬車は賑わいを見せ始めた長干里を抜け、朱雀橋を渡り、秦淮河の北岸に沿って皇城の方角へと進んでいく。
青石の道の両脇には、朝市の活気が早くも広がっていた。鮮魚を担いだ魚売りが通りを練り歩き、湯気を上げる胡餅屋の前には長い列ができ、時折高門世家の牛車や馬上の遊侠が車窓の外を掠め飛んでいく。深秋の黄金色の銀杏の葉が水路を埋め、朱塗りの高楼に降り注ぐ朝光と美しく交錯し、帝都の栄華を余すところなく描き出していた。
謝必安は気怠げに窓辺へ斜めにもたれかかり、膝に置いた手の小指へと視線を落としていた。馬車がガタゴトと揺れるのも構わず、口元からは前世の古い歌が何気なくこぼれ出ていた。
それは、共に育った二人と、長い年月を経ても消えなかった一つの約束を歌った曲だった。
彼は軽やかに口ずさみ、その眉宇には相変わらず悠々とした余裕が漂っていた。
「こんなに何年も経ったのに……まだ覚えてたんだな」
膝の上の銜蝉が横目で彼を見上げた。『親父ぃ……その態度、いくらなんでも気が緩みすぎてやしねえか? 一応、これから直属の大ボスに会いに行くんだぞ』
謝必安は鼻で笑った。「お前に何が分かる。これこそが職場の脱力感というものだ。こっちが余裕綽々でいればいるほど、上の古狐どもはお前の底が読めなくなる。勉強しろ」
銜蝉は目を閉じて微睡む銀猫へと顔を向けた。『阿奴、お前も親父が強がってるだけだと思うだろ?』
阿奴はまぶた一つ動かさず、ただ尾の先で座席をトンと一度叩いただけだった。
半刻の後、馬車は司天監の正門前の広場に滑らかに停車した。
謝必安が車から飛び降り、目前の官署を見上げた瞬間、その足が不意に止まった。
目の前にそびえ立つ司天監の役所は、かつての薄暗く薄汚れた姿から完全に様変わりしていたのだ。
朱塗りの大門は鮮やかに塗り直され、門前の欠けて煤けていた邪気払いの石の獬豸は、全身が透き通るような漆黒の墨玉の異獣へと据え替えられ、その双眸には深紅の避塵宝珠が嵌め込まれていた。三丈の高さの塀には金色の琉璃瓦が新たに葺かれ、朝日の下で目を射るような神光を放っている。正門の上に掲げられた「欽天巡察」の黒漆金文字の扁額に至っては、金泥で分厚く縁取られ直し、圧倒的な威厳を周囲に放っていた。
謝必安は顎を撫で、目を丸くして舌を巻いた。「おいおい……俺が建康を離れてからまだいくらも経ってねえぞ。なんだ、司天監は大荒で金鉱でも掘り当てたのか? それとも地下から石油でも噴き出したのか? 役所丸ごと成金仕様に大改装しやがって、危うく迷子になったかと思ったぜ」
彼は官服の襟元を整え、腰の『驚蟄』をポンと叩くと、門前で直立不動の警備に就いていた二名の司天監の衛兵へ軽く片手を挙げて挨拶した。そして、驚きと戸惑いに満ちた衛兵たちの視線を背に受けながら、相変わらず陰鬱な空気を孕む権力の中枢へと、大股で踏み込んでいった。
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【司天監内部メモ】
肝に銘じておけ。上司が突如として急ぎの公文で呼び出してくる時、十中八九はお前を褒めるためではない。もっとデカい不始末をお前に丸投げするためである。




