第97話 人約黄昏後《じんやくこうこんご》
【巻ノ二・残頁玖拾柒:『大魏符術考・形神契』残巻】
「百年の陰鉄を以て水と化し、朱砂と至親の精血を融じ、肉を刺し髄に入りて鎖と成す。鎖は肉身を拘するに非ず、乃ち其の神魄を錮す。陣主の心神若し動かば、則ち鉄鎖寒を生じ、万鬼心を噬み、死せずば休まず」
†
謝必安は提灯を掲げる下男の後に従い、謝府の最奥へと続く細い路地を進んでいた。
夕暮れの残光はとうに消え失せ、彼方の天蓋は深い瑠璃色へと沈み込んでいく。奥へ進むにつれ、両側の景色は目に見えて静まり返り、冷え冷えとした気配を濃くしていった。
青石を積み上げた薄暗い竹林の小道に差し掛かった時、謝必安の懐に丸まっていた銜蝉が不意に身を翻し、毛深い耳をピンと立てて、竹林の暗がりを警戒の眼差しで見つめた。肩の阿奴もすでに背を弓なりにし、長い尾を激しく揺らしながら、喉の奥から断続的な唸り声を漏らしている。
絳雪軒へと続くこの青石の小道は一見ありふれたものに見えるが、竹林と奇怪な巨石の陰、石灯籠の隙間には、凍りつくような殺気が張り詰めていた。謝府が飼い慣らす暗殺部隊「幽芳」が張り巡らせた三重の検問であり、半歩でも踏み外せば万本の矢に貫かれる死地であった。
謝必安は二匹の猫の頭を軽く撫で、小声で宥めた。「どうしたってんだ? 初めて来る場所でもないだろうに。それとも久しぶりすぎて忘れちまったのか? 俺の頭の中はとっくに喧しいんだ、大人しくしてくれ」
銜蝉は鼻をヒクつかせ、低い声で念話を送ってきた。『親父ぃ、ここは何かがおかしいぜ。元からあった地下の死人の穢れだけじゃねえ。暗がりに新しい仕掛けが山ほど増えてるし、血生臭い匂いも前よりずっと濃くなってやがる』
「どうでもいい」謝必安の声がわずかに沈んだ。「今夜は知微に会いに来ただけだ。屋敷をぶっ壊しに来たんじゃない。見なかったことにしろ」
一人と一匹が胸の内で言葉を交わしていたその時、先導していた下男が足を止めた。振り返った顔は、薄暗い羊角提灯の光の中で強張っており、深々と頭を下げて囁いた。「必安公子、絳雪軒はこの先にございます。老奴のような身分の者が大殿様のお許しなく近づくことは叶いませぬゆえ、ここでお待ちいたします。公子はお一人でお進みください」
「大儀」
謝必安は軽く頷き、灯火の揺れる前方へと足を踏み出した。
最後の竹林を抜けると、薄闇の中に絳雪軒の壮麗な輪郭が浮かび上がった。
謝府の最深部に位置するこの独立した院落は、一族の莫大な財を惜しみなく注ぎ込んで築き上げられた隠密の別院であった。主楼のすべてが金糸楠木で組まれ、飛檐斗拱が連なる様は奢靡を極めている。庭には金陵でも類を見ない名品「絳雪」の紅山茶花が咲き乱れ、肌寒い晩秋の夜風の中にあって、血のように妖艶な紅を誇っていた。
だが灯火に照らされた朱塗りの柱や格子窓を仔細に眺めれば、至る所に黄ばんだ鎮魂の朱砂符がびっしりと貼り巡らされているのが見えた。新しく貼られたものもあれば、年輪を経て黄ばみ黒ずんだものもある。地下から這い上がる陰煞の毒気に侵され、艶やかな山茶花の花弁の端さえも焦げたように黒ずんでいた。極上の奢靡と異様な不気味さが交錯し、名状しがたい孤独を醸し出している。
院門の前三歩に迫った時、軒先に吊るされた八角宮灯が不意に揺らめいた。
灯火の下、玄鉄の精密な札甲を纏い、太い柄の幅広刀を腰に佩いた二人の屈強な暗衛が仁王立ちになっていた。その足元には、小牛ほどもある二頭の「尋気獒犬」が低く身構えている。 司天監が異獣を交配させて育て上げた、陰陽と生死の気を嗅ぎ分ける秘獣であり、天下の大世家にのみ飼育が許された猛犬であった。
二頭の巨犬は鼻を鳴らし、低く唸り声を上げると、四肢を蹴って突風の如く謝必安へと飛びかかってきた!
血走った大口が眼前に迫ったその刹那、謝必安の懐から銜蝉が身を乗り出し、喉の奥から野太い咆哮を轟かせた!
『ガァァオッ!』
一見すればただの猫の威嚇にしか見えないが、その声には銜蝉の血脈に宿る純粋な神威が込められていた。
宙へ飛び上がっていた二頭の獒犬は全身の毛を逆立て、太い脚から一気に力を失って青石の地面を数尺も滑っていった。先ほどまでの凶暴さは霧散し、尻尾を巻いてクゥンクゥンと鳴きながら縮こまり、やがて媚びるように尻尾をぶんぶん振りながら、謝必安の足元へ擦り寄り始めた。
謝必安は失笑し、屈み込んで二頭の頭を撫でてやった。「烏龍、白耳、久しぶりだな。よく覚えていてくれたもんだ……随分といい飯を食わせてもらってるらしいな、見ない間に丸々と太りやがって」
銜蝉は不満そうに鼻を鳴らした。『親父、こんな腑抜けの駄犬に優しくすんなよ。しばらく俺様にシメられてねえから調子に乗ってんだ。後でたっぷり揉んでやるからな』
二頭の獒犬は謝必安の肩に銀光を放つ美しい小猫が乗っているのを見つけ、嬉しそうに鼻を寄せて匂いを嗅ごうとした。 阿奴の瞳が冷たく細まり、前爪が虚空をスッと切り裂いた。
パチン、と乾いた音が二つ響き、薄い氷霜が二頭の鼻先で弾けた。冷たさにくしゃみを連発しながらも、犬どもは怒るどころか大喜びで地面を転がり、一層激しく尻尾を振って媚びを売った。
銜蝉が鼻で嗤う。『つくづく意気地のない奴らだぜ』
「よし、デブ、お前は庭でこいつらの相手をしてろ。阿奴だけ連れて中に入る」謝必安は立ち上がり、衣の裾を払った。
言いつけを受けた銜蝉は懐から飛び降りるや否や、二頭の額に肉球ビンタを一発ずつ見舞い、喉を鳴らして脅しをかけた。普段は人を噛み殺す悪犬どもが、借りてきた猫のように大人しく蹲り、微動だにしなくなった。
謝必安は笑いながら向きを変え、呆気にとられていた二人の甲冑侍衛の前へと歩み寄った。「誰が番をしているかと思えば、お前たち兄弟か。説三、道四、恒叔はどうした? 他の連中の姿が見えんが」
左側に立つ丸坊主の侍衛「説三」が頭を掻き、北方の訛りで破顔した。「へへっ! 遠目にお姿を拝見してもしやと思いましたが、本当に若様でしたか! お外でまた大層な手柄を立てられたとお聞きしましたぜ!」
右頬に青黒い饕餮の刺青を入れた「道四」も身を乗り出し、興奮気味に言った。「全くだ! 今や都中で若様の名を知らぬ者はおりません! 機会があれば、あっしたち兄弟も外へ連れ出してくださいまし。こんな気味の悪い庭に閉じ込められてちゃ、身体に苔が生えちまいます!」
謝必安は苦笑した。「馬鹿を言え。刃の上を渡る危険もなく、肉を食らい絹を着られるんだ、お嬢様の扱いに不満でもあるのか?」
説三は頭を掻いて笑った。「滅相もございません! お嬢様のご恩には感謝してもしきれませんが、あまりに平穏すぎて腕が鈍りそうでさあ。犬の世話と見回りばかりで、琴だの書だの高尚な真似はあっしたちにはさっぱりでして……」
「軽口はそこまでだ」謝必安は笑みを収め、薄暗い回廊を見渡した。「俺は除名された身だ、厳密には謝家の人間ではない。お前たちの面倒まで見切れんよ」
道四が血相を変え、胸を叩いて叫んだ。「若様、そんな水臭いことを! あっしたち兄弟の命は若様とお嬢様に拾われたもの。若様が手を挙げさえすれば、いつでも――」
「黙れ」
謝必安の目が鋭く細まり、密林の奥を射抜いた。
道四は壁に耳ありと悟り、失言に青ざめて自分の頬をパチンと二度叩いた。「口が軽うございました、若様、どうかご容赦を」
「茶番はいい」謝必安は声を潜めた。「さっきの問いに答えろ。恒叔や他の者たちはどこへ行った?」
説三が擦り寄り、蚊の鳴くような小声で囁いた。「若様……少し前にお嬢様が屋敷を抜け出して若様をお迎えに行かれた件で、大殿様と家主様が激怒されましてな。三老爺様は宗祠で十日間も正座させられ、恒叔たち護衛の隊は全員が不手際の罪を着せられ、今も暗牢で鞭打ちの刑を受けております。出られるのはあと数日先かと」
謝必安の眉間に深い皺が刻まれた。「なら、何故お前たち二人は無事なのだ?」
道四が苦笑いを浮かべた。「運が良かったとしか言えません。あの日、ちょうど三老爺様のお使いで城外の荘園へ出向いておりまして、奇跡的に難を逃れたのでさあ」
「命拾いしたな」謝必安は冷笑を漏らし、真顔に戻って尋ねた。「お嬢様は? 今日はずっと部屋におられるのか?」
「へえ、ここ数日はお加減が優れず、今日一日楼閣から一歩もお出になっておりません」説三が急いで答えた。
謝必安は頷き、懐からずっしりと重い織錦の財布を取り出して説三の手へ放り渡した。「これを取っておけ。暗牢の連中が出されたら分け合え。薬を買い、傷の手当てをし、残りは酒と肉でも食え。当面の間はこれで足りるはずだ」
兄弟二人は重い銀子を受け取り、破顔して深く一礼した。「若様のお心遣い、兄弟一同に代わりまして厚く御礼申し上げます!」
「受け取れ。鍵は掛かっておらんな?」
「へえ、扉を押せばそのままお入りいただけます」
謝必安は身を翻し、絳雪軒の重厚な朱塗りの彫刻扉を静かに押し開けた。
ギィィ……。
扉が開くや否や、濃厚で苦々しい煎じ薬の匂いが押し寄せ、部屋に漂う高雅な薫香を力尽くで押し包んだ。
一階は広大で何一つ遮るものがなく、床一面に高価な羊脂白玉の煉瓦が敷き詰められ、四隅には赤銅の獣形香炉が据えられていた。地龍の熱気が煉瓦の隙間から立ち上るが、その熱気は満ちる陰寒の冷気によって即座に引き裂かれていた。二つの力がぶつかり合い、奇跡的な均衡を保つことで、部屋の中はちょうど心地よい温度を維持していた。
『大魏で唯一、自前の空調を備えた部屋ってわけか……』謝必安は心の中で自嘲気味に呟いた。
見回せば、調度品は記憶の中と寸分違わず精緻で冷たく、多くの物が長きにわたり触れられていないことを物語っていた。
謝必安は足音を殺し、螺旋を描く紫檀の階段を一段ずつ踏みしめて二階へと上がった。
二階の彫刻の間仕切りは半ば開け放たれていた。
窓際の広大な紫檀の寝台の上に、一人の少女が柔らかい枕と錦の布団に身を預けて静かに横たわっていた。
謝知微は雪のように純白の襦裙を纏い、その姿は初春の消え残る淡雪のように儚げだった。烏羽色の柔らかな黒髪が無造作に広がり、肌は磁器のように白いが、唇には一片の血の気もない。整いすぎたその顔立ちの上で、漆黒の綾布が両目を隙間なく覆い隠していた。
謝必安は思わず息を潜め、足音を完全に消し去った。抜き足差し足で寝台の傍らへ歩み寄り、円椅子を引き寄せて静かに腰を下ろした。
彼はただ黙って、目の前の妹を見つめていた。この肉体の身代わりに「人柱」としての運命を引き受け、人とも鬼ともつかぬ姿に変わり果てた少女を。
胸の奥底から、締めつけられるような痛みと怒り、そして押し殺した殺意が、重い鉛の塊となってせり上がってきた。 こんな結末は、絶対に間違っている。
奥の部屋の珠簾がサラリと音を立てた。 温かい薬湯を運んできた侍女の翠桃がうつむいたまま歩み出て、主の寝台の前に見知らぬ男の背中があるのを見るや、手首を震わせて薬碗を取り落としそうになった。
「あ……あな……」顔面を蒼白にした翠桃が悲鳴を上げかけた。
謝必安は素早く振り返り、人差し指を唇に当てて制止の仕草をした。 薄暗い灯火の下でその凛々しい横顔を認めた翠桃は、雷に打たれたように硬直した。口を手で押さえ、目頭を真っ赤にして涙をポロポロと零した。
その時、寝台の少女の睫毛がかすかに震えた。
謝知微は首を巡らせ、黒綾に覆われた顔を謝必安へと向けた。血の気のない唇の端に微かな笑みが浮かび、蚊の鳴くような呟きが漏れた。
「兄様……お帰りなさい。お酒の匂い……それから、阿奴の匂いもする」
謝必安は息を吸い込み、目頭の熱さを呑み込んだ。彼は立ち上がり、取り乱す翠桃の前へ歩み寄ると、湯気を立てる黒褐色の薬碗を受け取った。
「俺がやる」謝必安は翠桃の肩を軽く叩いた。「この数年間、苦労をかけたな。下がって休め」
翠桃は堪えきれずに涙を拭った。「若様……ご無事で本当によろしゅうございました……うぅ、すぐに温かいお酒とお料理を用意してまいります!」言い終えるや、小走りで階段を駆け下りていった。
謝必安は薬碗を手に、寝台の縁へと腰を下ろした。
目の前の弱々しい少女を見つめ、抑揚のない静かな、だが千鈞の重みを持つ声を絞り出した。「あの日何があったのか、今は問わない。だが、一つだけ約束してくれ」
謝知微は静かに彼と向き合い、答えを待った。
「謝家の老いぼれどもの思惑なんざ気にするな。己を大事にし、生きろ」謝必安は匙で苦い薬をすくい、息を吹きかけて冷ました。「待っていろ。俺が必ず、お前をこんな薄汚い場所から連れ出してやる」
謝知微の心が激しく揺れ、袖の中の指先が無意識に布団を握り締めた。 心が揺れたその瞬間、耳朶の奥で万鬼の哀号が爆発し、陰冷な死気が津波のように押し寄せてきた。彼女は顔色を白くし、慌てて深く息を吸い込むと、体内の陣法を回して荒れ狂う煞気を地底深くへと力ずくでねじ伏せた。
息を整えると、彼女は睫毛を震わせ、わずかに顎を上げて強がってみせた。「ふん……大言壮語ばかりで、信じられませんわ。阿奴はどこ? 早くこちらへ寄越しなさい、抱きしめてあげますから」
そう言って、彼女はおぼつかない手つきで両腕を伸ばした。
純白の広い袖が滑り落ち、白玉の如き細い腕が露わになる。
だが、その雪の如き肌の下に、鎖の形をした漆黒の呪文が幾重にも巻きついていた! その呪紋は生き物の如く皮膚の下で蠢き、絶え間なく邪悪な煞気を放ち続けている。
謝必安の肩にいた阿奴が音もなく舞い降り、虚空に浮遊してその鎖の符文を凝視し、喉の奥から低い唸り声を漏らした。
「これは何だ?」謝必安の眼光が一瞬にして凍りつき、妹の手首を掴んだ。その声は微かに震えていた。「以前はこんな禍々しいものはなかったはずだ!」
謝知微は意に介さないように微笑み、他愛のないことのように言った。「兄様のせいですわ。少し前に兄様の危機を感じて、勝手に抜け出して陣法を破り百鬼を呼んでしまったでしょう……戻った後、大殿様と長老たちが私の暴走を恐れて、禁術である『形神契』を刻み込んだのです。最初はもっと薄かったのですけれど……」
言葉を切り、彼女は伺うように顔を寄せた。「怒らないでくださいね。昨日の大安門でのこと、私が少しだけ気を利かせてあの龍を手助けしてしまったものですから、鎖が一段と濃くなってしまったのです」
皮膚の深部に焼き付けられた黒い鎖を見つめ、謝必安の瞳の奥に底知れぬ狂気の殺意が閃いた。
「あのクソ野郎どもが……」
彼は深く息を吸い、暴発しそうな殺意を呑み込むと、それ以上は何も言わず、薬匙を再び妹の唇へと運んだ。「俺の言ったことを忘れるな。二度と無茶な真似はするな。いいから、薬を飲め」
謝知微は首を縮め、苦々しそうに唇を尖らせた。「嫌です、苦すぎますもの。……兄様がお外で見てきた面白いお話を聞かせてくだされば別ですけれど。一つお話ししてくださるごとに、一口飲んで差し上げますわ」
謝必安は呆れて息を吐いたが、その眼差しには隠しようのない慈愛が滲んでいた。「いくつになったと思ってるんだ、子供じゃあるまいし」
謝知微は口角を上げた。「いくつになっても兄様の妹です。どうせ……私は一生お嫁になど行けませんもの、兄様に甘えるしかありませんわ。兄様、今度は屋敷にどれくらい泊まっていかれますの?」
謝必安の手がわずかに止まった。「顔を見たからな。後ですぐに出る」
謝知微の顔から笑みがふっと消え、隠しきれない寂寥がよぎったが、すぐに健気な笑みを取り繕った。「なら……早く飲ませてくださいまし。冷めたらもっと苦くなりますわ」
「ああ、そうだ。返すものがあったんだ」謝必安はふと思い出したように言った。
謝知微は首を少し傾げ、訝しげな表情を浮かべた。
謝必安は懐をごそごそとひとしきり探った後、ずっしりと重い金塊を取り出すと、そっと妹の手のひらに乗せた。
謝知微の指先が無意識のうちに見覚えのある丸みを帯びた縁をなぞり、不意にその動きを止めた。
謝必安は妹を見つめ、ただ穏やかに微笑んだ。
「無事に帰ってきたぞ」
謝知微は五指をぐっと閉じ、その馬蹄金を手の中に固く握りしめた。小さな唇がかすかに開き、幾度か動いたものの、喉の奥を何かに塞がれたかのように、言葉を紡ぐことは叶わなかった。
しばしの静寂の後、両目を覆う黒綾の端が、音もなくわずかに湿った。
謝必安は何も言わず、ただ手を伸ばして優しく妹の頭を撫で、乱れた髪をそっと撫でつけた。
その時、翠桃が酒と料理を盆に載せて足音を忍ばせて上がってきた。仲睦まじい二人の姿を見て声をかけるのを憚り、衝立の脇の小机に盆を置くと、静かに下りていった。
夜の帳が下り、梢の上に冷たい三日月が静かに昇った。 月の光が格子窓を通り抜け、水銀のように部屋を満たしていく。
謝必安は寝台の傍らに座り、温かい薬湯を一匙ずつ妹の口へと運んだ。謝知微は苦い薬を飲みながら、屋敷の他愛のない出来事を語り、時には宙に浮く阿奴を抱き寄せて撫で回し、時には謝必安の語る市井の冗談に声を立てて笑った。
少女の澄んだ笑い声が彫刻窓を抜け、冷たい夜風の中に溶けていく。
階下で灯火を頼りに針仕事をしていた翠桃が顔を上げ、頭上から響く温かな気配に目頭を熱くしながら、その口元に久しぶりの優しい笑みを浮かべていた。
†
【司天監内部メモ】
名門貴族の屋敷で最もありふれているのは、情を盾にした脅しと、道徳という名の首縄だ。 違いがあるとすれば、他人がそれを使う時はお前に死ねと言ってくるが……身内が使う時はせいぜい、昔話を一つ聞かせろとせがんで、苦い薬を一口余計に飲ませるくらいのものだ。




