第96話 天涼好箇秋《てんりょうこうかしゅう》
【巻ノ二・残頁玖拾陸:『大魏世家考・烏衣門閥』残巻】
「金陵の烏衣、甲第雲に連なる。高門は秦淮を引きて池と為し、重楼を築きて天日を蔽う。朱門の内、列鼎して食し、絲竹昼夜絶えず。然れども門深くして九重、骨肉相い疑い、尊卑は天塹の如く、冷やかなること幽陵に似たり」
†
青い絹の帳を垂らした二頭立ての大車が長干里の青石の道を軋ませ、秦淮河の南岸に沿って一路東へ進み、朱雀橋を渡って烏衣巷へと向かっていた。
折しも深秋から冬へと移ろう季節であり、北方の高郵で異変が生じたことも相まって、空には肌寒い夕暮れの気配が漂っている。だが建康の街並みはまるで別世界のような活況を呈していた。車馬がひしめき、商人が肩を擦り合い、軒を連ねる胡餅屋や酒楼から漂う芳香が、秦淮河のわずかに生臭い水気と混ざり合っている。馬車に陳郡謝氏の名高き烏木の家紋が掲げられていようとも、長干里と烏衣巷の境界を埋め尽くす人の波と車列に阻まれ、牛歩の如く進んでは止まるを繰り返すしかなかった。ただでさえ過密な帝都に、北方から押し寄せる避難民が雪崩れ込み、一層の混雑を極めているのだ。ましてこの地は寸土寸金の一等地。天下の富貴と窮苦のすべてが、この狭い路地に無理やり押し込められたかのようであった。
車内では、謝必安が錦の敷物にだらしなく身を預け、虚空を見つめて放心していた。片手で膝の上の銜蝉を無造作に撫で回し、もう一方の肘を突いて顎を乗せ、窓の外の懐かしくもどこか異様な繁華街を横目で眺めている。
視界の届く限り、重厚な楼閣と朱塗りの欄干が立ち並び、遠くからは管弦の音色と世家の名士たちの高笑いが微かに響いてくる。しかしその足元の路地の暗がりには、襤褸をまとった乞食や孤児たちが丸まっていた。水辺に開かれた人身売買の市場や牛馬市、穀物市は騒然と沸き返り、城外の闇市に至っては、頭に草標を挿して我が身や子を売りに出す流民で溢れ返っている。この大魏の繁栄の極みは、精緻を極めた工筆画に、いつしか斑な黴が浮き始めたかのようであった。
「この道を通るのも、随分と久しぶりだな……」謝必安は低く息を吐いた。
揺られること半刻余り、馬車が一向に進まないのを見て、連日の疲労と昨夜の酒が一度に押し寄せてきた謝必安は、車壁に頭を預けて深い眠りに落ちていった。膝の上の銜蝉はとっくに腹を上にして大いびきをかき、阿奴までもが敷物の奥で目を細めて丸まっている。そうしてさらに半刻が過ぎ去った。
どれほどの時が経ったか、車体が不意に揺れ、御者の鋭い掛け声と共に完全に停止した。
車外から謝府の門番たちの声が微かに漏れ聞こえてくる。驚愕と焦燥の混ざった声だ。 「三房の必安公子だ……早く、奥へ知らせろ!」
間もなく、錦の袷を着た中年の執事が脇門から慌ただしく駆け寄り、額に汗を浮かべながら御者を怒鳴りつけた。「何をこれほど手間取っておったのだ! 大殿様が書斎で半刻以上もお待ちだぞ! 早く、公子はどこだ? なぜ降りてこられぬ!」
付き従っていた小者が慌てて頭を下げ、車内を指差した。中から何の物音もしないのを見て、小者は小走りで帳の脇へ歩み寄り、声をかけた。「公子、屋敷へ着きました。お降りください」
三息待っても、返ってくるのは規則正しい寝息だけだった。
小者は声を張り上げてもう一度呼んだ。執事が眉をひそめて目配せを送ると、小者は意を決して重い青絹の帳を押し開けた。「公子、無作法をお許し……」
言い終える前に頭を差し入れた小者は、薄暗い車内で幽く輝くオッドアイの双眸と真正面から鉢合わせた。
阿奴はいつの間にか端座しており、優雅にあくびを噛み殺すと、しなやかな身体を伸ばした。刹那、一筋の銀光が帳を破って飛び出した! 鞭のような長い尾が冷気と共に電光石火の速さで小者の頬を薙ぎ払う。
「無礼者」
冷たい女の囁きが耳朶を掠めたかのようだった。小者は悲鳴を上げ、よろめいて後ずさりしようとしたが、吹きつける寒風に煽られて青石の地面の上に尻餅をついた。それと同時に、銀光は虚空を軽やかに踏み、馬車の屋根の上にふわりと舞い降りた。周囲の目など歯牙にもかけずしゃがみ込むと、尾を揺らして爪を舐め始めた。
「ば、化け猫だ!」小者は火の出るように熱く、薄霜の張った頬を押さえながら慌てて飛び起きた。だが執事の陰険な顔を見るや、震え上がりながらも再び車内へと首を突っ込むしかなかった。今度は顔を上げることすらできず、謝必安の耳元へ口を寄せて絶叫した。「公子! 起きてください! 大殿様がお待ちかねです!」
美酒と焼きガチョウを貪る夢の最中だった謝必安は、耳元の金切り声に驚いて反射的に跳ね起き、無意識のうちに声の主へ向けて拳を真っ直ぐに突き出した!
「ぎゃっ!」
小者は青アザを作った目を押さえ、車内から転がり落ちて地面に泥まみれになった。
執事は仰天して小者を抱き起こした。帳の奥から衣擦れの音が響き、謝必安が上体を起こして目をこすりながら、豪快なあくびを一つ噛み殺した。この騒ぎに膝の上の銜蝉も目を覚まし、不機嫌そうに喉を鳴らして不満を漏らした。 『なんなんだよ……せっかく気持ちよく寝てたのに。ギャアギャア騒ぎ立てやがって、ろくなもんじゃねえな』
謝必安は笑って猫の頭を撫で、宥めた。「よしよし、怒るな。後で旨いもんを食わせてやるから」
執事はすかさず車輪の傍らへ歩み寄り、垂れ下がった青絹の帳に向かって腰を折り、揉み手をしながら言った。「必安公子、よくぞお戻りで。大殿様が書斎にて首を長くしてお待ちです。どうぞ急ぎ老奴にお付き従いを」
だが車内の一人と一匹は、まるで聞こえていないかのように同時に身体を伸ばし、見事なまでに揃った大あくびをしてみせた。謝必安は目尻に滲んだ涙を拭い、こめかみを揉みながら気怠げに申し付けた。「何を慌てている。温い湯と、清潔な手ぬぐいを持ってこい」
執事は口角を引き攣らせたが、この若者が今や都中の注目を集める渦中の人物であることを知っており、無下にはできず、慌てて銅の洗面器と湯を運ばせた。謝必安は湯で適当に顔を拭い、新調した月白の暗紋が施された鶴氅の乱れを直すと、小者が跪いて据えた烏木の踏み台を踏みしめ、悠然と馬車を降りた。
「デブ、阿奴、行くぞ」
声をかけるや、銜蝉が腕の中へ飛び込み、そのずっしりとした重みが腕に食い込んだ。屋根の上の銀猫は軽やかに舞い降りて右肩に止まり、冷ややかに周囲を見下ろした。
この広大な屋敷は烏衣巷の半分を占め、外壁は秦淮河の自然な水脈に沿って築かれている。高くそびえる青煉瓦の白壁には五歩ごとに透かし窓が穿たれ、奥に広がる築山や天を突く古木の庭園が垣間見えた。
脇門をくぐると、百年の門閥貴族が誇る重厚な奢靡が圧倒的な威圧感となって迫ってきた。
高い門構えの屋敷が幾重にも連なり、五歩ごとに楼、十歩ごとに閣がそびえ立つ。銘木の紫檀で組まれた二層の渡り廊下が迷宮のように縦横に交差していた。回廊の軒先には、千金を積んでも手に入らぬ羊角の琉璃灯が掲げられ、夕暮れの光の中で幽青の輝きを放ち、歴代の名家による山水画や石刻を艶やかに照らし出している。
庭園の中央には広大な墨池が掘り抜かれ、秦淮河の生きた水が引き込まれていた。池のほとりの築山は太湖の深部から運ばれた奇怪な銘石ばかりで、まるで鬼神の如き異様を誇っている。深秋の冷気の中にあっても、園内の奇花異草は一片たりとも枯れてはいない。地下には北方の地龍の術が張り巡らされ、無数の煙道から彫刻煉瓦の隙間を通じて白い湯気が立ち上り、この空間を四季の衰えを知らぬ仙境の如く温めていた。
だが謝必安は、この富貴の表層の下、回廊の奥底の闇の中に、幼き日の記憶と寸分違わぬ冷酷な枯寂の気配が流れているのを見逃さなかった。謝家が代々にわたり自らの血肉を薪とし、万鬼を使役し鎮圧してきたことで染み付いた、呪われた特有の気配だ。
懐の銜蝉が鼻をヒクつかせ、小声で念話を送ってきた。『親父、この屋敷、宮殿より豪勢だけどよ、地下に埋まった死人の臭いがキツすぎて鼻が曲がりそうだぜ』
肩の阿奴も人工の滝を見下ろし、その瞳に冷笑を浮かべていた。この極限の奢靡も、底知れぬ怨嗟の上に敷かれた薄い錦の布に過ぎない。
謝必安はデブ猫の腹を撫でながら、低く脅した。『黙ってろ、謝家の縄張りで余計な口を利くなよ。目をつけられたら皮を剥がれるぞ。お前のその体型なら、陣の生贄にちょうどいいサイズだからな』
銜蝉はビクッと震え上がり、慌てて懐の奥へと縮こまった。
幾重もの垂花門をくぐるにつれ、噂を聞きつけた謝家の一族や侍妾、下男たちが回廊の下に集まり、指を差して囁き合っていた。かつて捨て駒と見なされ、宗祠から除名されたはずの三房の放蕩息子が、今や堂々たる身なりと異様な威厳を纏って内苑を歩んでいるのだ。その顔には警戒、軽蔑、そして隠しきれない羨望と嫉妬が入り混じっていた。
謝必安は意に介さず、視線の端すら親戚どもに向けようとはしなかった。歯ぎしりする彼らの前を通り過ぎる際、彼はふと思い出したように猫を撫でながら独り言を漏らした。「あー……失敗したな、下駄を履いてくりゃよかった……」
その散漫な呟きを聞きつけた数人の叔父や従兄弟たちは、怒りのあまりその場で卒倒しそうになった。彼は見向きもせず、回廊に満ちる敵意を悠然と受け流して歩を進めた。
老太公の呼び出しは急を要していたが、この時代の煩わしい礼法に従い、謝府に戻った以上はまず生父の屋敷へ顔を出さねばならなかった。
心底うんざりしつつも、謝必安は案内する執事に声をかけた。「親父のところへ先に行く」
一行は進路を変え、三房の屋敷へと向かった。広大な屋敷の奥深く、両側に高い壁がそびえ立つ長い路地を抜ける。狭い隙間から覗く空は細い一筋の光に圧迫され、息が詰まるほどの閉塞感を放っていた。路地を抜けると白石が敷き詰められた広大な弓廊が現れ、柱には鋳鉄で作られた辟邪の鬼面が並び、凄まじい殺気を放っていた。三房は代々私兵を統括してきたが、この代に至っては武人の風骨など酒色によって完全に擦り減らされていた。
九曲がりの回廊を抜けると、三房の当主・謝林が暮らす「燕居院」へと至る。足を踏み入れる前から、鼻を突くほどの濃厚な白粉と薫香の匂いが漂い、女たちの嬌声が入り混じっていた。三老爺は好色放蕩で知られ、屋敷には妖艶な侍妾が溢れていた。
広間に足を踏み入れるや否や、浮ついた空気は威厳を取り繕った怒声によって断ち切られた。
謝林は上座の太師椅子に腰掛けていた。錦の着物を纏い、生来の顔立ちこそ整っているものの、その双眸の下には濃い隈が刻まれ、顔色は青白く呼吸も乱れていた。酒と女に溺れて身体の芯を使い果たしていることは誰の目にも明らかだった。
三房は元より大房や二房に後れを取っており、謝必安が除名処分となったことで、兄弟たちの前で完全に面目を失っていた。目の前の息子のふざけた態度を見るや、開口一番に怒声を浴びせかけた。
「この親不孝者が、よくもぬけぬけと戻ってこれたものだ! 大殿様が何を血迷われたか、貴様のような出来損ないにお会いになると言い出されたのだ! 大事を引き起こしておきながら反省の色もなく、ますます行状を悪化させおって! 三房の面目は貴様のおかげで丸潰れだ!」
謝林は怒鳴り散らしながらも、ふと半開きの窓の向こう、内院の奥へと視線を走らせた。思い出したくもない何かに触れたかのように、その顔色は一層険しくなった。
怒りが極まり、紫檀の机を激しく叩いて茶器を跳ねさせた。だが興奮のあまり息が続かず、激しく咳き込み、青白かった顔を一気に真っ赤に染め上げた。まさに張り子の虎である。
傍らに侍る妖艶な妾が驚いてすり寄り、胸を撫でて茶を差し出しながら甘ったるい声で宥めた。「旦那様、どうかご無理をなさらないで。あのような親不孝者のために、貴方様のお身体を損ねては割に合いませんわ……」
謝必安は広間の中央に堂々と立ち、懐の銜蝉を撫でながら、父親の怒声を右から左へと受け流していた。その顔には「好きなだけ吠えろ」という余裕が滲み出ている。懐の猫までが大あくびをして見せ、一人と一匹で主座の父親を滑稽な芝居の役者として眺めていた。この暖簾に腕押しの態度が、謝林の怒りに油を注いだ。
謝林が息を整え、私刑を命じようと叫びかけたその時、広間の外から静かな声が響いた。 玄色の長袍を纏い、枯れ木のような風貌でありながら眼光を放つ老人が、いつの間にか亡霊のように戸口に立っていた。老太公の影の如き腹心――謝忠である。
謝忠は主座の謝林へわずかに頭を下げ、抑揚のない声で告げた。「三老爺、大殿様がお待ちかねにございます。必安公子を直ちにお連れせよとの仰せ。お説教は、大殿様のご下問が済みましてからになさいますよう」
この一言が、謝林の喉まで出かかった怒声を押し戻した。老太公の絶対の権威の前には、いかなる不満も呑み込むほかなかった。彼は形ばかりの冷笑を漏らして体面を取り繕い、袖を払って苦々しく吐き捨てた。「行け!」
謝必安は眉を上げ、父親に適当に拱手すると、謝忠の後に続いて背を向けた。
「燕居院」を出ると、案内される道は一層深く険しいものへと変わっていった。果てしなく続く黒石の回廊の両壁には、びっしりと呪符が刻み込まれている。阿奴は肩の上で微かに背を丸め、オッドアイの瞳孔を一筋の細い線へと収縮させていた。
どれほど歩いただろうか、黒石の回廊がようやく途切れた。老太公の書斎「退思堂」の月洞門の前に至ると、古びた枯寂の気配が肌を刺した。
謝忠が足を止め、謝必安に向かって腰を折った。「公子、ここでお待ちを。老奴が先にお取次ぎいたします」
間もなく、重厚な楠木の彫刻扉が開かれ、謝忠が謝必安を中へと招き入れた。
二世を通じて、謝必安が謝家の最高権力の象徴であるこの書斎へ足を踏み入れるのは、これが初めてのことであった。
四方の壁は天井まで届く烏木の書棚で埋め尽くされ、沈水香の煙が光と影の中に静かに立ち上っていた。紫檀の巨大な机の後ろに、玄色の長袍を纏い、髪も髭も白く染めた謝太保が端座し、その深淵のような老眼で謝必安をじっと見据えていた。
謝必安は大股で机の前へと進み出ると、完璧な所作で世家の礼を執った。「曾孫の謝必安、阿翁にご挨拶申し上げます」
謝太保は長きにわたり彼を凝視し、その顔に複雑な陰影を浮かべた後、静かに頷いて手を軽く挙げた。「座れ」
侍女が進み出て、二つの茶器を差し出した。茶湯は澄んだ碧緑色で、雲霧のような細やかな白い泡が立ち、口に含むと微かな苦味の後に豊かな甘みが広がる。千金を積んでも得難き顧渚紫筍の古茶であった。
静寂が支配し、茶の湯気だけが揺らめいている。
謝必安は平然と茶を味わい、自ら口を開く気配は微塵も見せなかった。
沈黙に耐えかねた謝太保が、重々しく茶器を置き、口を開いた。「あの日、城門にて遺詔が虚空を裂いて太廟へ入った折、何故老夫に従わず勝手に立ち去ったのだ?」
謝必安は茶器を置き、気のない声で答えた。「阿翁、必安は一月あまり外を奔走し、全身が血と泥の悪臭に塗れておりました。あのような乞食同然の姿で太廟へ参上しては、謝氏百年の体面を汚すことになりましょう。宿で湯浴みをして身なりを整えることに、何の不都合がございましょうか」
謝太保の目に冷たい光が宿り、鼻を鳴らした。「口の減らぬ奴だ。老夫が問う。あの遺詔の中に、一体何が記されておったのだ?」
謝必安は老人の視線を受け止め、薄笑いを浮かべた。「阿翁、何をそうお急ぎになるのです? 遺詔が太廟に収められた以上、礼部が速やかに大典を執り行うはず。数日後の大典の席上、諸公が共に開封なされば、自ずと天下に明らかとなりましょう」
「無礼者!」謝太保が机を激しく叩き、紫檀の巨卓が鈍い音を立てた。「謝必安! 老夫の前で出し抜けると思うな! 除名され、武陵王を後ろ盾にしたところで、謝氏の掌から逃れられると思うてか! 老夫がその気になれば、貴様を握り潰すなど赤子の手をひねるより容易いのだ!」
凄まじい威圧を前にしても謝必安は眉一つ動かさず、凝った手首を揉みほぐしながらため息をついた。「阿翁、どうかお怒りを鎮めてください。朝方に腹に入れたものは道中の揺れでとっくに消え失せ、腹が減って目が回りそうでございます。阿翁が苦い茶一杯でおもてなしを終えられるおつもりなら、腹の虫が大暴れしてしまいますよ」
謝太保の胸が激しく上下し、その眼差しがこのどこ吹く風の曾孫に突き刺さった。
しばしの沈黙の後、謝太保は怒りを強引にねじ伏せ、扉の外の執事を呼んだ。「側広間へ連れて行き、膳を食わせよ。食い終わり次第、絳雪軒へ連れて行け」
謝必安は立ち上がり、適当に拱手した。「阿翁、ご馳走になります」
書斎の敷居を跨ごうとした瞬間、背後から謝太保の冷酷な声が追いかけてきた。
「知微に会った後は、直ちに謝府から失せろ。あの子は今の謝家の礎だ。貴様が動かすことも、連れ出すことも決して許さぬ。身の程を弁えよ」
謝必安は足を止めることなく、背を向けたまま冷笑を浮かべた。「阿翁、ご安心を。必安は昔から、弁えることだけは心得ておりますゆえ」
下男に従って曲がりくねった回廊を進みながら、謝必安は見覚えのある草木を眺め、何気なく尋ねた。「俺が幼い頃に住んでいたあの離れは、まだ残っているのか?」
案内する下男は慌てて頭を垂れた。「公子、あのお庭は公子が司天監に入られて以来空き家となっており、手入れもされておらぬため、埃と蜘蛛の巣だらけで足を踏み入れることも叶いませぬ」
「構わん、飯を食い終わったらついでに案内しろ」謝必安は言いつけた。「そうだ、阿翁がご馳走してくれるんだ、厨房に肉をたっぷり用意させろ。うちの猫どもは舌が肥えていて大食いだからな」
下男は恐縮し、彼を静閑な離れへと通した。
間もなく、二人の眉目秀麗な侍女が四段の朱塗り重箱を抱えて現れ、梨木の円卓いっぱいに豪華な料理を並べ立てた。
金陵の名門の料理人の腕前は極致を極めていた。氷の上に盛られた蝉の羽の如く薄い桂魚の膾。年代物の黄酒でじっくりと煮込まれた鹿肉の酥酪。両面を香ばしく焼き上げた野鴨の炙り焼き。新鮮な筍と茸の澄まし汁に、温められた茱萸の春酒。
濃厚な肉と酒の香りが部屋に満ちるや、銜蝉は前足を机にかけてヨダレを垂らし、肩の阿奴でさえ氷締めの膾に視線を奪われていた。
下男が進み出た。「公子、ごゆっくりどうぞ。老奴は外でお待ちしております」
給仕しようとする侍女たちを、謝必安は手で制した。「他人に給仕されるのは慣れていない、下がっていい」
侍女たちは一礼して扉の外へ退出した。
扉が閉まるや否や、一人と二匹は遠慮の仮面を脱ぎ捨て、嵐のように料理を平らげ始めた。銜蝉は鴨を丸呑みにし、阿奴は小爪を伸ばして最も脂の乗った魚の身を宙から掠め取り、謝必安は熱燗を煽りながら鹿肉を引き裂いた。貪り食わねば損だと言わんばかりの勢いだった。
腹を満たした後、下男の案内で裏庭を抜け、東の片隅にある荒れ果てた小さな庭へとやってきた。
木戸は半開きになり、庭には雑草が生い茂り、石段には青黒い苔がびっしりと張り付いている。破れた障子の隙間から、埃まみれの粗末な机と寝台が見えた。
冷え切った荒庭に佇む中、前世で社畜としてワンルームのアパートで孤軍奮闘していた記憶と、今生の肉体が幼少期に味わった孤独の記憶が、謝必安の脳裏で激しく重なり合った。
この世の繁栄はすべて名門の表層に飾られ、その裏でどれほどの人間が踏み潰されようと、誰も気にも留めないのだ。
彼は朽ちかけた木戸に触れ、熱くなる目頭を抑えながら、誰にも聞こえぬ声で呟いた。 「母さん……」
秋風が枯草を揺らし、寂しげな音を立てた。謝必安は冷たい空気を深く吸い込み、瞳の揺らぎを消し去ると、振り返って下男に告げた。「行くぞ、絳雪軒へ」
西の空の最後の残光が地平線の彼方へと沈みきっていた。
下男が風防の羊角灯籠に火を灯す。揺らめく黄昏の微光が夜の帳を切り裂き、月白の長袍を纏った青年を、謝家の最奥に封じられたあの寝所へと導いていった。
†
【司天監内部メモ】
俺の経験から言わせてもらえば、世家が欲しがるのは面子であって、こっちが合わせる義理はない。食えるものは食い、飲めるものは飲み、取れるものは取れ。自分が恥じ入らなければ、恥をかくのは向こうの方だ。奴らの資産は山ほどあるんだ。お前が一口遠慮したところで、屋根瓦一枚減りゃしないのだからな。




