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世説新鬼 —神のゴミを拾う男—  作者: 仔猫(コネコ)
第二巻:乱法と残骨
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第95話 浮生半日《ふせいはんじつ》



【巻ノ二・残頁玖拾伍:『大魏(たいぎ)風雅志・容止(ようし)』残巻】


「江左の名士、容止を重んぜざるは莫し。粉を敷き朱を施し、香を薫じ面を剃る。衣は必ず博帯広袖、履は必ず高歯の木屐なり。朝には刀光相争いて血を見、暮には鏡を攬りて自ら憐しむ。蓋し玉貌を以て其の修羅の心を掩わんとするなり」


†


謝必安(シャ・ビアン)は湯船に浸かりながら、眼前に佇む、しなやかな肢体と絶世の美貌を備えた女を冷めた眼差しで見つめていた。


部屋に入った際に脱ぎ捨てた真紅の大外套が椅子の背に無造作に掛けられており、外の肌を刺す寒気がかすかに残っている。今の彼女が身に纏っているのは、都で流行の雑裾垂髾服《ざっしょすいしょうふく》だった。 冬の装いは夏のように薄くはなく、重厚な絹がその肢体を厳重に包み込んでいたが、かえって腰元の暗金の幅広帯が引き締める細い腰のくびれを際立たせていた。湯気に蒸されて内側の深紅の合わせ襟がかすかに緩み、白霧の中に雪を欺く滑らかな鎖骨が覗き、淡い桜色に染まっている。燕の尾のように幾重にも重なる裾の飾り帯には雪白の狐の毛が細やかに縁取られ、彼女のしなやかな足取りに合わせて軽やかに揺らめいていた。


狐毛に縁取られた裾飾りが、空中に流雲のような弧を描く。 女は先ほど邪魔なデブ猫を一蹴りでよろけさせたかと思えば、次の瞬間には屏風の上の高慢な銀猫へ満面の笑みですり寄り、この上なく媚びを売っていた。


謝必安(シャ・ビアン)は湯気立ち込める梁を見上げ、深くため息をついた。痛むこめかみを揉みながら、呆れ顔で言う。「おいおい……女侠様、もう気が済んだなら、頼むから先に出て行ってくれないか? 俺が湯から上がって身なりを整えてから、杯を交わしてじっくり語り合おうじゃないか」


この時、蘇小小(ス・シャオシャオ)は白魚のような指先を伸ばし、宙に微かに揺れる阿奴(アヌ)の毛深い尻尾を撫でようとしていた。 その言葉を聞くや彼女の手がピタリと止まり、猫に媚びへつらっていた笑みが一瞬にして消え失せた。冷ややかな顔つきでゆっくりと振り返り、木桶の中の謝必安(シャ・ビアン)を見下ろす。


「何かしら? 私が野暮天で、謝大尽の湯浴みの邪魔をしたとおっしゃるの?」


蘇小小(ス・シャオシャオ)の声色が一気に鋭さを増し、言葉の一つ一つに棘を孕んだ。無造作に結い上げられた反綰髻(はんかんけい)に挿された唯一本の金鳳の歩揺が、彼女の怒りに合わせて激しく揺れ、垂れ下がった房がチリチリと音を立てる。


「謝必安(シャ・ビアン)、あの時忘憂閣(ぼうゆうかく)で私は命を懸けてあなたを助けたというのに、いい気なものね。散々私を食い物にしておいて、尻を叩いてトンズラを決め込むなんて。今更私が邪魔だとでも? 昨夜の山誓海盟はどこへやら、今朝になれば『失礼いたした』ですって? この薄情な恩知らずめ……」


丹田から絞り出されたその声は恐ろしく通りが良く、床板を突き抜けて響き渡った。


この時、三階の廊下にはすでに人の気配がひしめいていた。四海居(しかいきょ)は長干里(ちょうかんり)でも名うての旅籠であり、行き交う商人や旅人には腕に覚えのある江湖の者も多い。ましてや謝必安(シャ・ビ安)が陣取っているのは上等部屋だ。先ほどの大騒動はとうに多くの野次馬の好奇心を刺激していた。今や彫刻扉の向こう側には頭がずらりと並び、耳をそばだてて聞き耳を立てていた。


謝必安(シャ・ビアン)の顔が引き攣り、声を潜めて許しを請う。「待て待て! 頼むから人聞きのおかしな言い方はやめてくれ!」


「人聞きがおかしい?」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は冷笑を漏らし、両手を腰に当てていよいよ真に迫った芝居を打った。目を吊り上げ、声をさらに一段張り上げる。「あら! 謝の旦那も随分と偉くなったものね。飲み食いして遊び散らかし、袴を履き直したら知らぬ存ぜぬとは! 私の体を弄び、私のへそくりを使い果たし、挙げ句の果てには私の店まで灰燼に帰したじゃない! 私のどこが言いがかりだっていうの? 真夜中に私の寝所に忍び込むのは許されて、私が乗り込んで現場を押さえるのは許されないとでも? 大魏の律法のどこにそんな理不尽が書かれているの!」


扉の外から、押し殺した息を呑む音と低く忍び笑う声が一斉に漏れ聞こえた。


『おいおい……聞いたか、部屋まで燃やしちまったのかよ、とんだ薄情男だな……』 『見た目は立派な男だが、役人らしいぜ。世も末だな、世も末だ……』


湯桶の脇に隠れていた銜蝉(シェンチャン)は濡れ手ぬぐいを頭に乗せたまま首を傾げ、屏風の上の阿奴(アヌ)と視線を交わした。二匹の猫はそれぞれ異なる表情を浮かべ、揃って尻尾の先を丸めていた。どのような感想を交わし合っているのかは知る由もない。


謝必安(シャ・ビアン)は顔面を土気色にし、歯ぎしりしながら言った。「分かった! お前の言い分を認める! だが頼むからまず扉を閉めてくれ! こっちは素っ裸で湯に浸かってるんだ、これでも一応、七尺の男なんだぞ!」


言い終えるや、彼は息を吸い込み、薄い木扉に向かって一喝した。


「それから外の給仕! 先ほど申し付けた着替えや小道具に一つでも不足があったら、自分で着て帰れ! ついでに外でお聞き耳を立てておいでの英雄豪傑の皆様方、散々芝居をお楽しみいただいたが、木戸銭を頂戴しておりませんでな。よろしければお名前とお住まいをお控えくだされば、後日改めて取り立てに伺いますぞ!」


聞き耳を立てていた給仕はビクリと身体を震わせ、扉越しに慌てて乾いた咳払いをして命乞いをした。「へへっ! 旦那様、どうかご勘弁を! ただいま大急ぎで手配しておりますゆえ! お二人で……どうぞごゆっくりお楽しみを、あっしはお邪魔いたしませんので!」 給仕は後ずさりしながら、小声で余計な一言を付け足すのを忘れなかった。「あ、ちなみに……この上部屋は広うございますので、お連れ様がお泊まりになっても追加料金はいただきませんぜ!」


謝必安(シャ・ビアン)は危うく湯を吹き出しそうになり、桶の脇の柄杓を掴んで扉めがけて投げつけ、怒鳴り散らした。「まだ喋るか! さっさと失せろ!」


野次馬の男たちも湯船の男が並大抵の相手ではないと悟り、真夜中に役人に踏み込まれてはたまらないと、一瞬にして足音を立てて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。


蘇小小(ス・シャオシャオ)の瞳に、してやったりという笑みが閃いた。彼女は手を伸ばして扉をピシャリと閉め、閂を下ろすと、紫檀の椅子を引き寄せて湯桶の真正面に堂々と腰を下ろした。


この妖女が今度は何を企んでいるのかと訝しむ謝必安(シャ・ビアン)の目の前で、彼女は身をかがめ、素手で足袋を脱ぎ捨て、真紅の大外套の裾をたくし上げた。剥きたての白葱のように細く白いふくらはぎが露わになる。


見開かれた謝必安(シャ・ビアン)の視線をものともせず、彼女は何食わぬ顔で両足を熱い湯桶の中へと浸した。


二本の白い脚が木桶の縁でゆらゆらと揺れ、小ぶりな足先が水面を撫でて繊細な波紋を描き、わざとらしく謝必安(シャ・ビアン)の顎へ湯水を跳ねかける。湯気のせいか、女の白皙の肌に艶めかしい赤みが差し、冷艶な美貌にほんのりと色香が漂っていた。


視線のやり場に困った謝必安(シャ・ビアン)は、後頭部を桶の縁に預け、無表情で彼女を見据えた。「言えよ、一体何をしに来た?」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は湯水を弄びながら、気のない風を装って言った。「一つ目は、当然借金の取り立てよ。そして二つ目は……取引の話をしに来たの」


「借金は金葉子に換算して後で返してやる」謝必安(シャ・ビアン)は仏頂面で返した。「それ以外に、お前と話す商売なんざ何もない」


「そう無下に断るものではないわ」蘇小小(ス・シャオシャオ)は戯れの色を収め、鳳眼を細めた。「聞いて損はないはずよ?」


謝必安(シャ・ビアン)は重い息を吐き出した。「聞くだけなら聞いてやる」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は声を潜め、彼が都を離れていた一月の間に起きた血みどろの変事を余すところなく語り聞かせた。裂天道人(れつてんどうじん)による墳墓の暴き、王家の城南荘園の壊滅、そして各大世家がいかに混乱に乗じて暗闘を繰り広げているか。


謝必安(シャ・ビアン)は背筋を凍らせた。辺境での死闘こそが最大の修羅場だと思い込んでいたが、この帝都の暗がりこそ、骨までしゃぶり尽くす底知れぬ生き地獄だったのだ。


「それで」謝必安(シャ・ビアン)は少し考え込み、鋭い眼光で彼女を射抜いた。「わざわざ俺を探し出して、何をさせようってんだ?」


「情報よ」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は両足を引き上げ、椅子の背にもたれかかった。白い足先が桶の縁の外に投げ出され、雫が足首を伝ってポタ、ポタと床を打つ。


「忘憂閣(ぼうゆうかく)が灰になって、私の手足となる耳目は大半が散り散りになったわ。噂が入らないわけではないけれど、かつて張り巡らせた十の筋のうち七、八本は途切れてしまった。偶然耳にする街の噂と、中枢にいて常に上を見張ってくれる者がいるのとでは、訳が違うの」


「私が危険を冒して建康(けんこう)へ戻れば、朝廷の狡猾な狼どもはすぐに嗅ぎつけてくる。そして今や大功を立てたあなたには、謝(シャ)家が握り潰そうとしても宮中から実権の伴う恩賞が下るはずよ。私はあなたに……私の目になってほしいの。司天監(してんかん)と朝堂の内部のあらゆる動向と風向きを、あなたが知るのと同時に、私にも知らせてほしいのよ」


謝必安(シャ・ビアン)は数秒間彼女を見つめた。「で、俺は何を得られる?」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は微笑んだ。「あなたは朝堂にいて、私の配下は市井、鬼市、商路、遊郭、そして陽の当たらないあらゆる場所にいる。あなたが上を見て、私が下を見張るのよ」


謝必安(シャ・ビアン)は指を一本立てた。「先に言っておくが、軍機、禁裏、司天監(してんかん)の門外不出の機密はナシだ。それ以外なら……互いに通じ合うとしよう」


蘇小小(ス・シャオシャオ)はあっさりと頷いた。「成立ね」


「どこでお前を見つければいい?」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は身を起こし、手ぬぐいを取って足首の雫を丁寧に拭き取った。柔らかい刺繍靴を履き、乱れた衣装を優雅に整える。真紅の大外套を再び羽織ると、その白皙の肌が一層際立った。


彼女は謝必安(シャ・ビアン)へ歩み寄り、妖艶に唇を吊り上げて身をかがめた。かすかな芳香を孕んだ吐息が彼の耳朶を掠め、極めて隠密な合言葉と拠点の場所を囁く。


伝え終えると彼女は踵を返し、扉を押し開けようとした。


謝必安(シャ・ビアン)は手付かずの料理に目をやり、思わず口を開いた。「もう行くのか? 一杯付き合わないのかよ」


蘇小小(ス・シャオシャオ)は足を止め、流し目を送ったが、その視線が敷居の脇に脱ぎ捨てられたボロ着物の山へと不意に落ちた。その襤褸の中に、微かな光沢を放つ玄鱗暗紋衫(げんりんあんもんさん)が紛れ込んでいた。


彼女は眉を上げ、屈み込んで二本の指で生地の端をつまみ上げると、意味深な笑みを浮かべた。「この生地は……天山の雪蚕糸に金糸を織り込んだものね。水火を通さず、刃も通さない。長干里(ちょうかんり)じゃ手に入らない上物よ……誰がこんな大層な贈り物をくれたのかしら? 女?」


謝必安(シャ・ビアン)は眉一つ動かさず、彼女の視線を真っ向から受け止めて静かに頷いた。


蘇小小(ス・シャオシャオ)は鼻を鳴らし、扉を引き開けた。敷居を跨ごうとした瞬間、彼女はふと立ち止まり、首を巡らせて低く言い添えた。


「そういえば、あなたの妹……謝知微(シャ・チーウェイ)といったわね?」


謝必安(シャ・ビアン)の目が鋭く細まり、湯桶の縁を掴む手に力がこもった。「それがどうした?」


「緊張しないで。あの子の傷は一時的に抑え込まれているわ、命に別状はない」


その言葉を軽く投げ捨てるや、赤い外套は廊下の角へと掻き消え、部屋には幽かな冷香だけが漂い残された。


謝必安(シャ・ビアン)は湯の中に佇み、桶の縁を掴んでいた指の力をゆっくりと緩めた。謝(シャ)太保の言葉に加え、全く別の情報源からも同じ事実を裏付けられたことで、胸に重くのしかかっていた岩がようやく取り払われたようだった。 だが、あの女は一体どうしてその名を知っていたのか?


気配を窺っていた銜蝉(シェンチャン)が小走りで駆け寄り、扉の隙間から外を覗き込んで振り返った。『親父ぃ! あの狐女、行っちまったぞ! 俺様、飯食っていいのか?』


「扉を閉めろ、寒いだろ」謝必安(シャ・ビアン)は顔を拭った。


扉が閉まる間際、両手に荷物を抱えた給仕が汗だくで滑り込んできた。揉み手をしながら机の上に包みを置き、ニヤニヤと笑いながら言った。「旦那様! 蜀錦の肌着に暗紋の長袍、黒靴にお道具一式、すべて揃えてまいりました! いやはや、お早いお仕事で……あの女侠様も恐れ入るお方ですな……あっしはこれにて!」


謝必安(シャ・ビアン)は顔を黒くし、投げつけるものを探して桶の周りをまさぐったが、目ざとい給仕は言い終わるや否や脱兎の如く逃げ去っていた。


「足の速い野郎だ」


謝必安(シャ・ビアン)は悪態をつき、湯桶を出て体を拭き、清潔な新しい衣に袖を通した。糊の効いた新しい生地が肌に心地よく、ようやく人心地がついた。顎に生え揃った硬い無精髭を撫で、小さく呟く。「明日の朝は腕利きの髪結いを呼んで整えさせなきゃな、野人になっちまう。デブ、飯にするぞ!」


その夜、四海居(しかいきょ)の三階の客室は静寂に包まれていた。


謝必安(シャ・ビアン)は窓辺に一人座り、懐の銜蝉(シェンチャン)を無心で撫でながら、肩に降り注ぐ深秋の冷たい月光を浴びていた。豪勢な料理には箸をつけず、ただ孤月を肴に、二壺の強い老雕酒を最後の一滴まで飲み干した。


胸を焦がすようなその酔気に任せ、この道中で積み重なった死への恐怖、朝廷の謀略、そして全身の疲労をすべて吐き出し、布団を引き被って泥のように眠りについた。


翌日、日はとうに高く昇っていた。


トントントン。


激しいノックの音が、謝必安(シャ・ビアン)を二日酔いの淵から引きずり出した。痛む額を押さえ、枯れた声で怒鳴る。「誰だ?」


扉の外から給仕の恭しい声が返ってきた。「若旦那、謝府より早朝から使いの者が参りまして、今日の昼下がりに必ず屋敷へ参上せよとの言伝にございます」


謝必安(シャ・ビアン)は目をこすり、枕の上に倒れ込んだ。「分かった。他には?」


「身なりを整え、体面を汚さぬようにお越しあれと念を押しておられました」給仕は言葉を切り、扉越しに伺うように言った。「それから、昨夜のご言いつけ通り、都で一番の腕利きの修容待詔(髪結い・顔剃り師)が下でお待ちでございます」


「もてなしておけ。入用なものはすべて俺のツケにして、後で呼べ」


謝必安(シャ・ビアン)は起き上がり、大きく背伸びをした。湯を持ってこさせ、昨夜の残飯を下げさせて、豪勢な朝餉を運ばせた。


間もなく、湯気を立てる食膳が運ばれてきた。とろりと煮込まれた肉粥、羊の脂で黄金色に揚げられたサクサクの焼き餅、八味のタレに漬け込まれた柔らかな鹿肉、そして目覚ましの熱い酪漿。食欲を取り戻した謝必安(シャ・ビアン)はそれらを平らげ、全身に活力が蘇るのを感じた。


再び熱い湯桶で身体を温めた後、屏風の外に控えていた老待詔を招き入れた。


大魏の名門貴族は「儀容風骨」を重んじ、顔を剃り、粉を敷き、香を薫き染めるのが常であった。名門の子弟が乱れた身なりで公の場に出れば、無作法者と蔑まれるのだ。


老待詔の腕前は見事なものだった。合歓皮と甘草の煮汁に浸した熱い手ぬぐいで顔を覆って硬い無精髭を柔らかくし、薄刃の烏鋼刀を滑らせると、顎髭も鬢の毛もシャリシャリと小気味よい音を立てて剃り落とされていく。 剃り終えると温かい玉の輪を取り出し、秘製の羊脂玉容膏を馴染ませて顔の筋を丁寧に解し、二日酔いの隈を消し去った。最後に銅の香炉に火を灯し、高価な沈水香で新調の広袖の羽織を念入りに薫き染めた。


半刻の後。


銅鏡の中に、引き締まった英気溢れる青年の姿が映し出されていた。切れ長の桃花眼には不敵な鋭さが宿り、黒髪は白玉の簪で高く束ねられ、身には月白の暗紋が施された広袖の長袍を纏っている。襟と袖口には細やかな流雲の刺繍が施され、長身を優雅に引き立てていた。腰にはあの無骨な『驚蟄(きょうちつ)』が斜めに差されている。並の貴公子なら金玉の宝剣を佩くところだが、飾り気のない黒い雷撃木が、かえってこの高貴な装いにえも言われぬ野生味を添えていた。


鏡の中の貴公子を見つめながら、謝必安(シャ・ビアン)は昨日までの血みどろの逃走劇がまるで遠い夢であったかのような奇妙な錯覚に囚われた。


満足げに老待詔へ銀子を放り投げ、腹を膨らませた銜蝉(シェンチャン)を抱き上げると、阿奴(アヌ)が音もなく肩へと舞い降りた。


「行くぞ」


部屋を出て、ゆったりとした足取りで階段を降りる。その挙措には、泥沼の死線をくぐり抜けてきた男の荒々しさは微塵もなく、どこから見ても風流な大魏(たいぎ)の名門貴公子そのものだった。


四海居(しかいきょ)の店先には、青い絹の帳を垂らした二頭立ての立派な馬車がすでに待ち構えていた。車体には謝氏の家紋が刻まれ、重厚な威厳を放っている。


謝必安(シャ・ビアン)が御簾をくぐって乗り込むと、御者の鋭い鞭の音が響き、青銅で補強された車輪が古い石畳を軋ませながら、名門貴族の館が立ち並ぶ烏衣巷(ういこう)の謝(シャ)府へと向かって滑り出した。


†


【司天監(してんかん)内部メモ】


馬子にも衣装、仏にも金。職場で最初に見られるのは肩書き、次に見られるのは身なり、実力が見られるのはその次だ。もっとも、その三番目にたどり着けるかどうかは、最初の二つをクリアできるかどうかにかかっているのだがな。






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