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世説新鬼 —神のゴミを拾う男—  作者: 仔猫(コネコ)
第二巻:乱法と残骨
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第93話 于帰《うき》



【巻ノ二・残頁玖拾参:『大魏(たいぎ)祖制・太廟秘辛(たいびょうひしん)』残巻】


「太祖誓いを立て、若し天下に変あらば、受命の金龍必ず天日に現る。遺詔は死物に非ず、乃ち歴代帝皇の精魄を以て相い係ぐ。血を見れば則ち活き、龍脈を循りて自ら太廟の金匱に帰す。人力刀兵の能く拘する所に非ず」


†


蜃驪(しんり)の重厚な蹄が建康(けんこう)城大安門(だいあんもん)の青石の敷居を滞りなく跨ぎ越え、敷居の上に仮設された渡し板へと車輪が乗り上げたその瞬間、異変が突如として発生した。


何の前触れもなく、蜃驪(しんり)を中心とした方円百丈以内の天地の霊気が突如としてズシリと沈み込んだ。果てしなく古色蒼然とした、絶対的な権威に満ちた帝威が、万仞の重山のごとく、虚空から押し潰すように降り注いだのだ。


街道の両脇の草木は風もないのに自ら平伏し、車を牽く軍馬たちは恐怖に甲高い嘶きを上げ、膝の力を失って次々と地面に崩れ落ちた。居合わせた千余名の重甲緹騎(ていき)や禁衛の兵士たちも、両肩に万鈞の巨石を背負わされたかのような強烈な重圧と胸を突く窒息感に襲われた。抗う力など微塵も残されておらず、次々とよろめき倒れ、泥濘と青石板の上で膝を折り、ガタガタと全身を震わせながら平伏するしかなかった。


馬を進めて入城したばかりの武陵王・司馬衍(しば・えん)をはじめ、謝(シャ)太保、王(おう)司徒、袁監正、姚指揮使といった朝廷の巨頭たちでさえ、この大魏(たいぎ)の皇統の血脈より発せられた絶対の威圧に、顔を蒼白にし、たまらず馬背から滑り落ち、頭を垂れて平伏し、指一本動かすことすら叶わなかった。


同じ頃、烏衣巷(ういこう)の謝(シャ)府、その奥深くにある絳雪軒(こうせつけん)の寝所。


長椅子に身を横たえて養生していた謝知微(シャ・チーウェイ)の眉間に、突如として淡く微かな紅い血光が灯った。彼女は首を巡らせ、両目を覆う黒綾の奥から星の光が一閃したかと思うと、傍らに控える侍女へ向けて促すように息を切らせた。「翠桃(すいとう)……起こして」


傍らで針仕事に勤しんでいた翠桃(すいとう)は、その声を聞くや慌てて手を止め、優しく宥めた。「お嬢様、太公様からも、お薬が身体に行き渡るまでは絶対安静にとあれほど申し渡されております。こんな肝心な時に起き上がったりなさっては……」


「翠桃(すいとう)、起こしてちょうだい!」謝知微(シャ・チーウェイ)の声は細かったが、その響きには抗いがたい決意が満ちていた。


翠桃(すいとう)はもはや逆らう勇気もなく、慌てふためきながら背中に柔らかい座布団を差し入れ、愛する主が安らかに身体を預けられるよう、細心の注意を払って抱き起こした。


謝知微(シャ・チーウェイ)はそれ以上言葉を発せず、ただ血の気の引いた青白い顔をわずかに持ち上げ、幾重もの壁や屋根を透かし見るかのように、遥か南方――大安門(だいあんもん)の方角をじっと見つめていた。


異様な気配を察した翠桃(すいとう)が、怯えながら小声で尋ねる。「お嬢様……もしや、お外で何か大事でも起きたのですか?」


謝知微(シャ・チーウェイ)は問いかけに答えることもなく、しばらくして唇をわずかに震わせ、独り言のように静かに呟いた。「疲れているのは分かっているわ……もう少しだけ耐えて。私が助けてあげるから」


翠桃(すいとう)は要領を得ず首を傾げたが、自分を気遣ってくれたものと早合点し、胸を叩いて忠誠を口にした。「とんでもございません! お嬢様のお世話など少しも疲れたりいたしませんわ。奴婢は一生涯、お嬢様にお仕えしたいのでございます……」


謝知微(シャ・チーウェイ)は言葉を返さず、依然として南の空をまっすぐに見つめ続けていた。


一服の茶を飲み終えるほどの時が流れた後、彼女の張り詰めていた身体からふっと力が抜け、胸の奥から深く長い息が吐き出された。その眉宇には濃い疲労の色が浮かんでいた。「……疲れたわ。横にしてちょうだい」


言い終えるや否や、温かな錦の布団に身体が触れた瞬間、彼女はすでに深い眠りに落ちていた。その呼吸は微かだが、どこまでも穏やかだった。


大安門(だいあんもん)の内外では、甲冑の武者や文武百官が地面一面に平伏していた。


ただ一人、群衆の中央に佇む蜃驪(しんり)だけが首を高く掲げて胸を張り、鼻孔から赤金の火の粉を吹き出しながら、一段と誇らしげに傲然と構えていた。


謝必安(シャ・ビアン)の懐に縮こまっていた銜蝉(シェンチャン)は首をすくめ、そっと謝必安(シャ・ビアン)の服の裾を引っ張りながら、くぐもった声で呟いた。『親父ぃ……この偉い役人ども、なんで急に俺たちに土下座し始めたんだ? あの立派な馬どもなんて怖がって糞尿垂れ流してるぞ。もしかして俺たち、何かヤバい穢れでも連れてきちゃったのか? まさか……阿奴(アヌ)のやつが道中で食っちゃいけない千年物の老いぼれ幽鬼を盗み食いして、祟りを呼んだんじゃねえだろうな?』


言い終わるか終わらないかのうちに、傍らの阿奴(アヌ)の瞳に冷たい光が閃き、一瞬で銜蝉(シェンチャン)のポンポコリンの腹の上に飛び乗るや、問答無用で残影を引くほどの高速連環猫パンチを叩き込んだ。


『ぎゃあああっ! 痛い痛い痛い! 親父助けてくれぇ!』銜蝉(シェンチャン)は悲鳴を上げ、謝必安(シャ・ビアン)の懐の中で頭を抱えて転げ回った。


「おい、お前ら二人ともいい加減にしろ」謝必安(シャ・ビアン)は低く叱りつけ、眉をひそめた。彼は周囲を包む不気味な静寂を見回し、隣の沈無(シェン・ウー)を振り返った。「老沈(シェン)、お前の目から見て、これは一体何の芝居だ?」


沈無(シェン・ウー)はこの時、御者台の脇に片膝をつき、百辟喪門刀《ひゃくへきそうもんとう》を強く握り締めて得体の知れない重圧に対抗しながら、首を横に振って苦笑した。「俺に聞くのか? こんな奇怪極まりない化け物沙汰は……昔からお前たち司天監(してんかん)の専門分野だろうが」


言われてみればその通りだと、謝必安(シャ・ビアン)も思い直した。 なぜならまさにこの瞬間、彼の脳裏の奥底にあるあの耳慣れた『エリーゼのために』の旋律が、すでに耳障りなほど激しく鳴り響いていたからだ。


それと同時に、先ほどまで重苦しく沈滞していた帝威が突如として微かに震え、城内のどこかから伸びてきた見えない脈絡と繋がったかのように、その流れが一気に滑らかさを取り戻した。


「気をつけろ! 何かが来るぞ!」謝必安(シャ・ビアン)が鋭く叫んだ。


沈無(シェン・ウー)は瞬時に刀を構え、二匹の猫は全身の毛を逆立てた。しかし彼らが防戦の姿勢を取るより早く、冷酷な不可視の力が虚空から圧し掛かり、瞬きする間に二人と二匹をその場に完全に縛り付けた。どれほど全力を尽くそうとも、指一本動かすことすら叶わない。阿奴(アヌ)は悔しげに二度ほど抗おうとしたが、最後には諦めたように力を抜いた。


謝必安(シャ・ビアン)の瞳孔が収縮した。彼ははっきりと知覚していた。虚空の奥から、目に見えず触れられぬ巨大な存在がゆっくりと近づいてくるのを。巨大な鱗が空気を擦り合わせるような、微かな摩擦音が耳元をかすめる。


その存在はついに彼の目前で静止した。硫黄と龍涎香の混ざり合った温かな吐息が、何の前触れもなく彼の顔面へと吹き付けられた。謝必安(シャ・ビアン)は肝を冷やし、本能的に後ずさりしようとしたが、身体は全く言うことを聞かない。続いて、不可視の気流が彼の眉間から下へと這い回り、遠慮なく匂いを嗅ぎ分け、果ては血に汚れた拾遺(しゅうい)の官服をガサゴソと引っ張り、探り始めた。


謝必安(シャ・ビアン)は泣くにも泣けず、いっそのこと両目を閉じ、心の中でやけくそ気味に愚痴を叩きつけた。 『はいはい……今の俺はまな板の上の鯉ってわけだ。いいさ、大志を抱いた鯉を煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ただし頼むから手早くやってくれよ、生殺しの前戯で焦らすのだけは勘弁してくれ……』


彼が心の中で盛大な一人芝居を繰り広げていたその時、腰元の漆革の袋がふわりと静かに持ち上がった。


空気が震え、低く澄んだ共鳴音が響く。


沈黙していた革嚢の内部から、突如として眩く純粋な赤金の神光が溢れ出した。虚空の奥から、歓喜に満ちた長い唸り声が響いた。次の瞬間、先帝の精血に染まったあの九龍綾錦の遺詔が、万民の注視を浴びながら、革嚢の中からゆっくりと宙へと浮かび上がった。


謝必安(シャ・ビアン)は、この命取りの布切れが自分の肩を越え、顎をかすめ、目の前を通り過ぎて、頭上三尺の高さに誇らしげに静止するのを、ただ見つめることしかできなかった。


遺詔の浮上に伴い、周囲で息も絶え絶えになっていた武陵王や百官たちは、全身の重圧がふっと消え去ったのを感じた。皆、驚愕と疑念の入り混じった顔を上げ、半空に展開する神異の光景を仰ぎ見た。


「チクリ」


謝必安(シャ・ビアン)の右手の人差し指に、針で突かれたような鋭い痛みが走った。


一滴の紅い鮮血が指先から滲み出し、重力に逆らって宙へと昇り、金色の綾錦の中へと吸い込まれていった。


その鮮血を吸い上げるや、遺詔の表面に描かれた九条の暗金色の雲龍がまるで命を宿したかのように蠢き、一同の耳元に天地を揺るがす龍の咆哮が轟いた! 人々が我に返る間もなく、腕ほどの太さを持つ金龍の流光が遺詔から吐き出され、迅雷の如き速さで謝必安(シャ・ビアン)の胸板へと突き刺さった!


「ぐっ!」


その暖流が経脈に流れ込んだ瞬間は春の水のように温かく、謝必安(シャ・ビアン)はあまりの心地よさに声を漏らしそうになった。だが、その熱気が右腕の深部に到達した途端、そこに潜んでいた妖骨が驚愕したかのように激しく収縮した。


「クソッ……痛ってえ! 何なんだよ!?」謝必安(シャ・ビアン)は目の前が真っ暗になるほどの激痛に襲われ、右腕全体が雷に打たれたように激しく痙攣し、震えが止まらなくなった。


彼が息を整える間もなく、半空の金色の遺詔は一筋の流光と化して雲海を切り裂き、皇城の北に位置する太廟の方角へと、凄まじい風切り音を立てて飛び去っていった!


武陵王・司馬衍(しば・えん)はそれを見るや跳ね起き、その双眸に凄まじい光を宿らせて怒号を轟かせた。「遺詔が太廟へ帰られたぞ! 重明衛、本王と共に太廟へ馳せ参じ、護衛せよ!」


「はっ!」


地響きのような馬蹄の音が再び天を衝いた。武陵王、謝(シャ)太保、王(おう)司徒、袁監正、姚指揮使は、千余名の精鋭鉄騎と共に阿吽の呼吸で黒い濁流と化し、一目散に駆け去っていった。今この瞬間、誰一人として謝必安(シャ・ビアン)のことなど気にかける者はいなかった。袁監正に至っては、立ち去り際に司天監(してんかん)の随員に手振りで合図を送り、数名が千糸叟(せんしそう)を抱えて脇へ退避させると、自身も皆を追って太廟へと急行した。


大通りには、冷たい風が数片の枯れ葉を巻き上げて吹き抜けていった。


先ほどまで殺気立ち、息詰まる対峙が繰り広げられていた大安門(だいあんもん)の前には、踏み砕かれた拒馬と、異彩を放つ四輪の板切れ馬車、間抜け面を晒す謝必安(シャ・ビアン)たち、そして顔を見合わせる建康(けんこう)城の庶民たちだけが取り残されていた。


お偉方たちが雲散霧消したのを見届けて、城門を守る門兵たちはようやく額の冷や汗を拭い、正気を取り戻した。それぞれ佩刀を抜き、わざとらしく振り回しながら、八つ当たり気味に野次馬の群衆を怒鳴り散らし始めた。「散った散った! ここに突っ立って飯でも奢ってもらえると思ってんのか! 杖刑を食らいたくねえ奴はさっさと失せろ!」


散々待たされた挙げ句に肩透かしを食らった野次馬たちの落胆は凄まじく、一瞬にして怒号とブーイングが嵐のように巻き起こり、あちこちから嘲笑が噴出した。


「一刻以上も道を塞ぎやがって! 俺なんて便意を我慢できずに壁際で糞垂れようとして、ズボンを半分下ろしたところで慌てて駆けつけたってのに、見せられたのがこれかよ!?」


「ケッ、大層な陣立てを敷いて、王様も太保様も揃って土下座したと思ったら、最後はシュッと飛んで終わりか? うちの庭に繋いでる黒犬の喧嘩のほうがよっぽど見応えがあるぜ」


道端の恰幅のいい中年女などは特大の白目を剥き、ひまわりの種の殻を吐き捨てながら冷ややかに嘲弄した。「全くだよ! 鳴り物入りで始まってこれかい。うちの甲斐性なしの亭主だって、床板を二、三回は軋ませるくらいの甲斐性はあるよ。あのお偉い役人どもときたら、一発も耐えられずに萎えちまいやがって。見かけ倒しの張り子の虎だね、情けない……」


この下品な一言に、周囲からは意味ありげな哄笑がどっと沸き起こった。


門兵たちが怒鳴り散らせば散らすほど、通り沿いの住民たちの嘲笑はトゲを増していった。人波は街道の中央で立ち往生して押し合いへし合いを繰り返し、一触即発の暴動へと発展しそうな気配を見せていた。


荷車の床板の上で、謝必安(シャ・ビアン)は痺れて震える右腕をさすっていた。最初はただの高みの見物として野次馬たちの醜態を眺めていたが、見ているうちにその瞳から笑みが消えていった。まずい、この空気の荒れ方は非常にまずい。


その時、懐から顔を覗かせた銜蝉(シェンチャン)が、目をまん丸にして感嘆の声を漏らした。『親父ぃ……ここの人間ども、口が達者すぎだろ。あのオバサンの下ネタ、俺様ですら恥ずかしくて聞いてられねえぞ!』


銜蝉(シェンチャン)のツッコミを聞いた瞬間、謝必安(シャ・ビアン)の目がキラリと光り、胸中に妙案が浮かんだ。彼は大きく息を吸い、右腕を軽く振って服の泥を払い落とすと、混乱する人波の正面に仁王立ちになり、荷車の端に堂々と立った。


「ゴホン、ゴホンッ!」


彼はわざと喉を張り上げて大声で咳払いをし、顔を揉んで愛嬌たっぷりの親しみやすい笑顔を作ると、長街の四方八方の民衆に向かって大げさに拱手して見せた。


「建康(けんこう)の父老郷親の皆様方! お初にお目にかかります、某は司天監(してんかん)雑項科拾遺(しゅうい)、謝必安(シャ・ビアン)と申す者!」謝必安(シャ・ビアン)が朗々と笑い声を響かせると、その張りのある声が一瞬にして通りのざわめきをねじ伏せた。群衆は司天監(してんかん)の役人と聞き、聞いたこともない末端の小役人ではあったが、お上に対する条件反射的な恐れから、罵声は次第に小さくなっていった。


謝必安(シャ・ビアン)は好機を逃さず、袖を大きく振って叫んだ。「本日は皆様、見応えのある結末が見られず拍子抜けされたことでしょう。ですが、これは落胆すべきことではございませぬ、天大の瑞祥でございます! 先ほどの金光は決して怪異などではなく、先帝が遺された正統なる継承の遺詔が、自ら太廟へと帰還された神異の光景にございます! 王爺様や太保様が耐えきれなかったのではなく、天威を畏れ敬って跪かれたのでございます! このような神跡をその目で拝めた皆様は、不運どころか、ご先祖様が徳を積まれ、先祖代々の墓から青い煙が立ち上るほどの大福報に恵まれた証拠でございますぞ!」


この一言に、先ほどまで悪態をついていた民衆は完全に虚を突かれた。野次馬たちは顔を見合わせ、怒りは瞬時に驚きと戸惑いへと変わり、街道にはざわめきが広がった。


場を掌握したと確信した謝必安(シャ・ビアン)は、さらに舌を滑らかに回転させてまくし立てた。「現在、武陵王爺様と太保様、司徒様の両明公が自ら遺詔を護衛して太廟へ赴いておられます。遠からず天下に布告され、新君がお立ちになることでしょう! 新皇のご即位となれば、我が大魏(たいぎ)の慣例に従い、大赦、酒宴の賜り、官倉を開いての施しが盛大に行われるはず! 都中の大酒楼もこの慶事に沸き立つこと間違いなし……」


群衆の中にいた一人の年老いた男が目を輝かせ、膝を叩いて声を張り上げた。「おおっ! あの若い役人さんの言う通りじゃ! 儂も先帝様が即位された年を覚えておるが、朱雀(すざく)大路で三日三晩、振る舞い酒と肉の宴が開かれ、あの脂の乗った肉の旨かったことと言ったら!」


「本当かい? 肉が食えるのか?」


「何をボサッとしてるんだ! 家に帰って鍋と茶碗をピカピカに洗って、施しの米を待とうぜ!」


わずか二言三言の弁舌で、一歩間違えれば大惨事になりかねなかった群衆の騒乱は、謝必安(シャ・ビアン)の手によって歓天喜地の市井の祝祭ムードへと鮮やかに塗り替えられた。民衆は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家へと引き揚げ、瞬く間に城門前のボロ車のことなど誰も見向きもしなくなった。


傍らで冷や汗を流しながら必死に秩序を維持しようとしていた十数名の門兵たちは、開いた口が塞がらなかった。彼らは誰もいなくなった大通りを見つめ、次いで涼しい顔の謝必安(シャ・ビアン)を見やり、顎が外れんばかりに呆然としていた。 これだけで? 天を揺るがすような大混乱を、この小僧は口先一つで解決してしまったというのか?


群衆が完全に消え去ったのを見て、謝必安(シャ・ビアン)はようやく満足げに手の平の埃を払った。


彼は身を翻し、荷車の縁に腰掛けると、沈無(シェン・ウー)の肩を軽く叩いた。「老沈(シェン)、任務完了だ。この後どうする?」


沈無(シェン・ウー)は静まり返った街道を見つめ、深みのある眼差しで低く答えた。「俺はまず鏡妖司(きょうようし)の暗堂へ赴き、今回の任務の調書を封印せねばならん。姚指揮使の側の後始末もつけておく必要がある」


「了解だ」謝必安(シャ・ビアン)は頷き、気怠げに背伸びをした。「俺は適当な宿を探して泊まるよ。問題がなければ長干里(ちょうかんり)の辺りにいるはずだ。用が済んだらそこを訪ねてくれ」


打ち合わせを終えると、沈無(シェン・ウー)は刀の柄に手を当てて拱手し、それ以上語ることなく背を向けて路地の闇の中へと消えていった。


沈無(シェン・ウー)の後ろ姿を見送った後、謝必安(シャ・ビアン)は舌を鳴らし、蜃驪(しんり)に出発を促そうとした。だが、この異獣は四本の蹄を地面に根を生やしたように固定し、まぶたを垂らしてピクリとも動こうとしなかった。


謝必安(シャ・ビアン)は前に回り込んでしばらく観察していたが、突如として自分の額をパシンと叩き、苦笑いを漏らした。「やれやれ、俺の頭も焼きが回ったな」


「物忘れもいいところだ……」謝必安(シャ・ビアン)は自嘲の笑みを浮かべ、冷たい青い鱗に覆われた長い鼻先を優しく撫でた。「すっかり忘れてたよ。建康(けんこう)城に入った以上、お前の役目もここまでだな。道中の雨風の中、本当にお前のおかげで助かった。車はお釈迦になっちまったが、師姉の前でしっかり口添えしてやるから安心しろ。さあ、師姉の所へお帰り。一月余りも歩き詰めだったんだ、帰り道は妖魔に食われないよう気をつけるんだぞ」


蜃驪(しんり)は巨大な鼻孔を大きく広げ、突如として熱い息を吹き出した。火の粉と煤の混じった煙が謝必安(シャ・ビアン)の顔面に直撃し、彼は背を丸めて激しく咳き込んだ。その後、この誇り高き異獣は首を高く掲げ、濁った白い目をぐるりと回すと、車輪と床板だけになった残骸を牽き、蹄を軽快に鳴らしながら悠然と走り去っていった。その姿は、まるで凱旋を果たした将軍のように威風堂々としていた。


謝必安(シャ・ビアン)は顔についた黒い煤を拭い、ペッペッと唾を吐き捨てながら、砂塵を上げて去りゆく荷車に向かって手を振り、声を張り上げて叫んだ。 「――師姉にちゃんと言っとけよ! この車をぶっ壊したのは俺じゃないからな! 公務による損耗だ! 朝廷に経費で請求しろってな――!」


遥か彼方、大通りの果てから、どこか人を小馬鹿にしたような高らかな獣の嘶きが響き渡った。


†


【司天監(してんかん)内部メモ】


暴動の鎮圧は、峠のヘアピンカーブを攻めるのと大差ない。一番危ないのは、ブラインドコーナーで無理にインから抜きにかかることだ。腕が良けりゃ峠の伝説になれるが、腕が悪けりゃそのまま崖下へ一直線だからな。






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