第91話 離人《りじん》
【巻ノ二・残頁玖拾壱:『大魏官吏録・重臣篇』残巻】
「朝堂は局の如く、権臣は棋子の如し。世家は前に利を争い、天子は後に権を奪う。凡そ天下の気運を動かす者は、皆局中に入り、死生は己に由ることを得ず」
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後方に残っていた弱小な妖祟どもを完全に振り切った後、謝必安の胸元に突如として一筋の温かい熱気が湧き上がった。ここ何日も沈黙を保っていたあの『大荒異聞録』が、落ち着きを失ってかすかに蠢いているのだ。
謝必安は服の上から胸元をポンと叩き、鬱陶しそうに小声で呟いた。「落ち着け。腹一杯食ったら寝てろ、騒ぐな」 不思議なことに、その熱を帯びた気配は、まるで人の言葉を理解したかのように、次第に静まっていった。
四方の壁と屋根を失った馬車は、今や頑丈な床板とガラガラと回り続ける四つの車輪だけを残す無残な姿となっていた。屈強な体躯に異様な鱗をまとった蜃驪が力強い足取りで進み、こうしてこの奇怪極まりないオープンカーを牽いて、ゆっくりと道を進んでいく。
廷尉府の追撃を振り切って以降、事態の推移は奇妙な様相を呈していた。この道中、本来なら天地を埋め尽くすはずの朝廷の捜索網や関所が、唐突に跡形もなく消え失せていたのだ。緹騎の姿も伏兵の影もなく、街道を巡回する捕吏たちでさえ何かの箝口令でも受けたかのように、白昼堂々と通り過ぎるこのボロ馬車を完全に見て見ぬふりをした。馬車の遥か後方に数人の尾行がついている気配は察知していたが、相手が悪意を露わにしてこない以上、謝必安たちも知らぬ顔を決め込み、気の済むまま尾行させていた。
一行はやがて「臨川鎮」と「秣陵駅」という二つの宿場町を相次いで通り抜けた。町の住人や商人たちは足を止めて振り返り、顔を見合わせては、異様な名馬に牽かれたこのボロボロの奇妙な荷車を指差してひそひそと囁き合った。ただ、蜃驪の鼻息から時折吹き出す煮え立つような火の粉と、首を上げて嘶く凄まじい威圧感、さらには車輪の表面を流れる金色の符文に気圧され、どこぞの高貴な御方の怒りを買って身を滅ぼすのを恐れ、誰も近づこうとはしなかった。
御者台に座る沈無は好奇の視線に耐えかね、布切れを引っ張り出して口元を厳重に覆い隠した。対する謝必安は全く気にする様子もない。沈無の背中に寄りかかり、右手で小さな酒壺を提げ、左手で腹を見せて転がる銜蝉の毛を撫で回し、両脚を千糸叟の尻の上にだらしなく投げ出していた。酒を呷っては猫を愛でるその姿は、放蕩無頼の貴公子そのものだった。遠巻きに眺めていた町人たちの目にも、どこぞの羽化散をキメすぎて頭がおかしくなった放蕩息子としか映らず、もはや珍しがる気すら失せていた。
謝必安は頭を仰いで酒を呷り、ほろ酔い加減で声を張り上げた。「なあ老沈、見ろよ! 車ってのは女と同じで、何より肝心なのはアンダーボディ、つまり足回りよ! 足回りがしっかりしていれば、乗り心地は抜群に決まってる。師姉が俺の進言を聞き入れて、底板を頑丈に誂えてくれたから良かったものの、大魏の並の馬車ならとっくの昔に道端で木端微塵に砕け散ってるところだぜ。老沈、そう思わないか?」
御者台の沈無は振り返りもせず、布越しにくぐもった声で返した。「酒は控えろ。これ以上進めばもうすぐ建康だというのに、貴様は本当に少しも危機感がないな」
「何を心配するってんだ? 都に戻りゃ嫌というほどこき使われるんだ、せっかくの息抜きなんだから、今のうちに楽しまなきゃ損だろ」謝必安は能天気に笑い飛ばした。
膝の上で腹を見せていた銜蝉も調子を合わせ、鼻にかかった声で鳴いた。『親父、俺様は戻ったらまず小魚の干物を十本食うぞ。道中ずっと我慢してて死にそうだったんだ!』
その時、阿奴も音もなく謝必安の肩へと飛び乗り、前足を伸ばして彼の頭を軽くポンポンと叩いた。どうやら今の提案に賛同を示したらしい。
謝必安は大笑いし、その勢いで阿奴の頭をわしゃわしゃと撫でた。「よし! 戻って落ち着いたら、今回の旅で稼ぎまくった金で何でも食わせてやる!」
ところが、阿奴はその馴れ馴れしさが気に食わなかったのか、バシッとその手を払いのけると、ぷいと顔を背けてひどく嫌そうな顔で反対側へ飛び退いた。
謝必安は意に介さず、むしろ気分を良くしていた。都に近づくにつれ、周囲の景色が目に見えて華やかさと賑わいを増していくのが分かったからだ。
官道の両脇は荒涼とした枯木林から、果てしなく続く銀杏と楓の並木へと様変わりしていた。銀杏の葉が街道を黄金色に染め上げ、微風が吹き抜けるたびに砕けた金箔のようにササッと車底に降り積もる。木々の間には見渡す限りの柿園が点在し、葉を落としきった枝先には、赤提灯を吊るしたような霜降り柿が、ずっしりとたわわに実っていた。
遠くには整然と植えられた枝垂れ柳と桑畑が広がり、広大な用水路が田野を横切っている。水路の水は冬の訪れを告げる凛とした透明度を湛え、その上には精緻な彫刻が施された石橋が架かっていた。ちょうど秋の収穫の終盤にあたり、水面には船が網の目のように行き交っている。無数の烏篷船や喫水の深い貨物船が川面を埋め尽くし、兵糧や絹織物を満載した船が水面を滑るように進んでいた。中には、都の権貴たちが冬を越すために備蓄する小山のような黒木炭や北方の毛皮を積んだ船もある。船頭たちは分厚い綿入れを着込み、櫓を漕ぐ掛け声が冷たい川風の中に高く響き渡っていた。
沿道には、富商巨賈たちが築き上げた私家庭園が幾重にも連なっていた。高くそびえる白壁越しに、庭園内に咲き乱れる色とりどりの寒菊や、天を突くように立つ深紅の紅葉が覗いている。楼閣亭台が立ち並び、飛檐斗拱と朱塗りの欄干が美しさを競い合っていた。透かし彫りの格子窓が開け放たれた暖閣からは炭火の暖気が微かに漏れ、きらびやかな毛皮の衣を纏った貴公子や令嬢たちが炉を囲んで茶を点て、詩を詠み交わしているのが見えた。大魏の帝都特有の、頽廃的で豪奢な気配が漂っている。
風が吹き抜けると、運ばれてくるのは春の花の香りではなく、街道沿いの酒楼が泥の封を解いたばかりの熱い黄酒の香りだ。肉を炙る香ばしい煙と、遠くの高楼から流れてくる琵琶の爪弾きが微冷の空気の中に溶け合い、人を心地よい微睡みへと誘う。
謝必安は視線を戻し、低く息を吐いた。「いい景色だな。一生こうして平穏無事に暮らせるなら、どれほどいいか」
誰の思惑によるものか、一行は何の邪魔も入らぬまま旅を続け、臨川鎮と秣陵駅を順調に通過し、官道に沿って進み、ついに建康城外で最大かつ最も繁栄した集落――秣陵大鎮へと辿り着いた。
日はまだ高く、何より道中の静けさがあまりに不気味だったため、沈無は床板を軽く叩いて謝必安に合図した。町の外れにある野天の茶屋で少し喉を潤し、頭を冷やしつつ、風向きを探ろうというのだ。謝必安が頷くと、沈無は静かに手綱を引き、車を止めた。
だが、二人が知る由もないところで、建康城内は彼らの接近によってすでに暗流が激しく渦巻いていた。
幕裏に潜む各勢力の重鎮たちのもとには、一刻以上も前から続々と知らせが届いていた。
無常駅の奥深くに浮かぶ画舫の窓格子へ、羽毛のまだらな小鳥が一羽羽ばたき入り、しばらくして一匹の漆黒の虫が羽を広げて飛び去った。幾重の手を経て、最終的に鬼市の薬種商から蘇小小の手へと届けられたその文には、極めて端的に記されていた。 ――謝、未だ死せず。十里外。
城内のある静閑な屋敷の中で、蘇小小は暗紋の施された大外套に身を包み、手にした年代物の花雕酒を味わいながら、冷ややかな笑みを漏らした。「あの薄情な疫病神め、悪運だけは人一倍強くて、本当に生きて帰ってきおったか」 言い終えるや、彼女は銀子を一つ放り投げ、妖艶な双眸をかすかに伏せて複雑な声音で言った。「誰かをつけて見張らせなさい。大難を逃れれば必ず後福があるというけれど……今回ばかりは、借金を踏み倒そうとするなら、閻魔大王に直接言ってもらうわ」
薬種商が銀子を受け取り、一礼して下がろうとしたその時、蘇小小は不意に声を和らげ、艶然と微笑んだ。「何を急いでいるの? 話はまだ終わっていないわ」 彼女は杯を置き、目を細めた。「配下の者に伝えなさい。道中で誰と会ったか、特にどんな女と接触したか、何をしたか、針の先ほどの事まで漏らさず報告しろとね。分かった?」
薬種商は背筋を凍らせ、思わず顔を上げて視線を送ろうとした。だが、蘇小小の顔から瞬時に笑みが消え失せ、冷たい声が飛んだ。「目玉が要らなくなったのかしら? さっさと失せなさい」
薬種商は冷や汗を流して平伏し、狼狽しながら逃げ去った。その背中を見送りながら、蘇小小は眉間を揉み、細いため息をこぼした。「まったく……どいつもこいつも手がかかる」
傍らに控えていた利発な侍女は、主の機嫌を察して息を殺して跪いた。机の上の酒瓶をそっと捧げ持ち、精緻な酒杯へ八分目まで酒を満たす。その所作には塵一つの乱れもなかった。
一方、謝府の絳雪軒の奥室。
百鬼の反噬を受けたばかりの謝知微は、謝家の陣法と自らの根基によって暴走を力ずくで鎮圧し、命を繋ぎ止めたものの、その身体はいまだ激しい損耗に苛まれていた。素白の襦裙を身に纏い、力なく長椅子に寄りかかる彼女の目元には、依然として黒綾の目隠しが巻かれたままだ。侍女の翠桃が温かい煎じ薬を匙で冷ましながら、一口ずつ口元へと運んでいた。
先ほど謝太公が自ら見舞いに訪れたが、命に別状がないと確認するや否や、「養生に専念せよ。余計なことに気を取られるな」と冷酷に言い捨て、袖を翻して立ち去っていった。謝知微の指先は布団の端を強く握り締めていたが、その唇角がかすかに持ち上がった。黒綾越しに遥か遠くを見据えるように顔を上げ、小さく呟く。「微かに感じる……兄様の気配。兄様、無事でよかった……」
翠桃はため息をつき、薬匙を置いて優しく宥めた。「お嬢様、どうか余計なご心配はなさらないでください。若様は昔から悪運が強いお方ですから、絶対に無事です。さあ、まずはお薬を召し上がってくださいな」 少し間を置いて、彼女は口を尖らせた。「それに、三若様の紙鳶が知らせを届けてくださったではありませんか。どうしてお信じにならないのです?」
それを聞き、謝知微は首を巡らせて翠桃の方へ向けた。視力を失っていると知っていても、その音なき凝視を受け止めると翠桃の背筋は粟立った。侍女は怯えながら小声で尋ねる。「お嬢様……な、何を見ていらっしゃるのですか?」
謝知微は首を横に振り、しばらくして静かに口を開いた。「何でもない……兄様はもう、大丈夫だから」
翠桃は要領を得ず、首を傾げながら謝知微の額に手を伸ばした。「お嬢様、まさかお熱で頭が朦朧としておいでなのでは? わけの分からないことばかり仰って」
謝知微は無表情のまま顔を背けてその手をかわし、淡々と言った。「何でもないわ。薬は? 寄越しなさい、飲み干すから」
翠桃は表情をほころばせ、何度も頷いた。「はい! そうこなくては!」
そして朝堂においては、静けさこそがむしろ異様な不気味さを漂わせていた。
先帝が崩御し、遺詔の所在は杳として知れず、新皇の位は空位のまま、朝野の上下は疑心暗鬼に揺れていた。王司徒は怪しげな手段で保身を図って復権を果たし、謝太保率いる謝家と鋭く対立していた。司天監の袁監正は静観を決め込み、鏡妖司の姚指揮使は暗躍を続け、底知れぬ謀略を巡らせている。普段の朝議ですら顔を揃えることのない四人の巨頭は、謝必安が廷尉府と鏡妖司の包囲網を完全に突破したと確信した瞬間、ついに腰を上げた。
彼らは誰よりも理解していた。謝必安が携える先帝の遺詔こそが、新帝の即位を決定づける唯一無二の切り札であると。誰が最初に謝必安と手を結び、遺詔を手中に収めるかによって、この王朝交代の嵐における勝敗が決するのだ。
こうして、各勢力の間で異例の暗黙の了解が成立した。建康城外の街道に敷かれていた武力による捕縛網は解かれ、関所もことごとく撤去された。彼らは謝必安が城門を潜る前に、城外でこの天下を揺るがす若き拾遺と直接相対することを選んだのだ。
秣陵大鎮の外れにある茶屋の傍ら。
謝必安は『驚蟄』に身体を預け、薄霧の彼方に巨大な獣のように佇む建康城の輪郭を眺めていた。その表情には形容しがたい感情が漂い、口からは無意識に別の世界の古い歌が漏れ出ていた。 「明日を思うことを恐れ……別れを告げることを拒む……」
隣に立つ沈無が横目を向け、冷たく彼を見据えた。
その視線に気づいた謝必安は、手をひらひらと振って笑った。「いやいや、ただの鼻歌だ、沈千戸、気に病むなよ」
沈無は呆れ果てて鼻を鳴らし、低く尋ねた。「戯言はいい。この後どう動くつもりだ? 変装して城内へ紛れ込むか?」
「そんな面倒な真似をする必要がどこにある」謝必安は悠然とした態度を崩さない。「すでに建康の足元まで来ているんだ。当ててみろよ……最初に誰が俺たちの前に立ちはだかると思う?」
「鏡妖司か、あるいは司天監だ」沈無は刀の柄に手を置き、最も堅実な推論を口にした。「奴らは俺たちの身内だ、一番耳が早い」
謝必安は短く吹き出し、腰元の歪な漆革の袋を軽く叩いた。その瞳に悪戯めいた狂気が宿る。「あんたはこれの価値をまるで分かってないな。賭けをするか? 俺の見立てじゃ……全員だ。一人残らずやって来るぜ」
彼は人差し指を立て、白み始めた空の彼方を指差した。「雲の上のあの方でさえ、人を遣わさざるを得ないはずだ。安心しろ、俺がいる限り大崩れはしねえよ」
沈無は眉を吊り上げた。「随分と手慣れた口ぶりだな?」
「経験なんてあるわけねえだろ」謝必安は両手を広げ、破顔一笑した。「俺にとっても、生まれて初めて乗る花嫁の輿みたいなもんだ」
沈無の口角が引き攣った。「経験もないくせに、よくそこまで平然としていられるな」
謝必安はニッと笑った。「じゃあ泣き言でも喚くか? 一度目は手探り、二度目は手慣れ。老沈、よく覚えておけよ。俺の名は謝必安だ。俺がいる限り、万事皆安、万事解決だ!」 そう言いながら、彼は沈無の肩を強く叩いた。
沈無はその下らない軽口に返す言葉もなく、頭痛をこらえるように額を押さえた。注ぎたての茶を手に取ると一気に喉へ流し込み、余計な心配で火照った頭を強引に冷やした。
半刻の後、馬車は再び動き出した。
半死半生の千糸叟は縄で床板に固く縛り付けられ、蜃驪は車輪だけになった残骸を牽いて、建康城南の大安門へと一直線に向かった。
城門前にはすでに厳重極まりない警戒体制が敷かれていた。城壁の上には甲冑で身を固めた兵士たちが隙間なく立ち並び、城門の壁には謝必安と沈無の指名手配書が所狭しと貼り巡らされている。出入りを阻まれた民衆の群れで足の踏み場もなく、怒号と悲鳴が入り混じっていた。
謝必安は車輪の縁に寄りかかり、厳しい面持ちの沈無をからかった。「見ろよ、随分と盛大なお出迎えじゃないか。事情を知らない奴が見りゃ、どこぞの将軍様が凱旋帰国したと勘違いするぜ」
城門まで残り半里ほどの地点で、蜃驪がゆっくりと足を止めた。
前方の街道が、朝廷の大軍と各名門の儀仗兵によって完全に封鎖されていたからだ。
周囲を取り囲む重装甲の親衛や従者だけでも、優に千人を数える規模だ。その陣容の威圧感は息を呑むほどだった。
そして、その千余の護衛兵が恭しく道を開けた中央に、背丈も佇まいも異なるが、いずれも天を覆うほどの圧倒的な権勢を放つ四つの人影が、静かに街道の真ん中に立ち塞がっていた。
謝家の総帥、謝太保。
王家の頭魁、王司徒。
司天監の最高権力者、袁監正。
鏡妖司の頂点、姚指揮使。
大魏の朝堂を牛耳る四人の最高権力者たちが、前代未聞にもこの吹き曝しの城門外に一堂に会していたのだ。
謝必安の顔からふざけた笑みが消えた。彼は沈無の肩を叩き、低い声で耳打ちした。「老沈、あんたは口を挟むな、俺が片付ける。デブ、阿奴、お前らは車に残って、あの薛のジジイを見張ってろ」
言い終えると、謝必安は乱れた髪を掻き上げ、泥と血で汚れた拾遺の官服の裾をゆっくりと払った。腰に神兵『驚蟄』を差し、大股で馬車から飛び降りる。沈無がそのすぐ後ろに従った。
正面から突き刺さる、千人を超える精鋭親衛たちの殺気立った視線と、大魏の国運をも左右する四人の巨頭たちの冷酷な眼差し。それらを前にしても、謝必安は眉一つ動かさず、足取りを半歩たりとも乱すことはなかった。
王司徒、袁監正、姚指揮使の三人は、申し合わせたようにほぼ同時に一歩前へ踏み出し、微妙な半包囲の陣形を敷きつつ、互いに視線を交錯させた。
謝必安は足を止め、恐れる様子もなく、むしろ笑みを浮かべて拱手した。「おやおや、上官の皆様方、そう焦られますな。順番に、一人ずつお相手いたしますゆえ。下官は一月あまり外を駆けずり回っておりましたので、まずは私用の家事を片付けさせていただきたく存じます。正式なご挨拶はその後に」
彼は三人の脇をすり抜け、陰鬱な表情を浮かべる謝太保の真正面へと真っ直ぐに歩み寄った。
謝太保は、かつて一族の捨て駒と見なされ、今や宗祠から除名されたはずのこの不肖の孫を冷たい眼差しで見下ろしていた。その深淵のような老いた双眸には、肉親の情など欠片も存在しなかった。
謝必安は慌てることなく丁寧に一礼し、芝居がかった口調で言った。「太公様、孫がお伺い申し上げます。血色もよくお健やかそうで、孫としても心より嬉しく存じます」
「この畜生めが、ここ数日どこへ身を隠しておった?」謝太保は衣の袖を払い、地鳴りのような低い声で言い放った。「たわけた口を叩くでない。さっさとあのブツを差し出せ!」 言い終わるや否や、皺だらけの手のひらが謝必安の眼前へと突き出された。
謝必安はその要求に応じようとはしなかった。吹き抜ける風が官服の裾を激しく煽る中、彼は謝太保をじっと見据え、唇の端に冷ややかな嘲笑を浮かべた。
「太公様がそれをご覧になりたいとおっしゃるなら、難しいことではございません……」謝必安は老人の目を見つめ、静かに、だが急激に冷え切った声音で告げた。「ですがその前に、お話しいただかねばならないことがございます。我が妹、謝知微の件について」
謝太保の老獪な細い目がかすかに細まり、陰険な表情で白い髭を撫でた。「貴様……何故それを知っておる?」
「どうして知っているかは問題ではありません」謝必安の口調は淡々としていたが、一歩も引かない強固な気迫を帯びていた。「妹は今、どうなっていますか?」
謝太保は鼻を鳴らし、これほどの衆目の前で実の孫に主導権を握られることを嫌ったのか、わずかに口調を緩めた。「知微に別状はない。陣法はすでに鎮圧され、命に障りはない」
謝必安は老人の顔に浮かぶ微小な表情筋の動きを微塵も見逃さず凝視した。嘘をついていないと確信した瞬間、強張っていた肩の力がふっと抜け、胸の底から深い安堵の息を吐き出した。
「妹に会わせてください」
謝太保は瞬時に頭の中で利害を計算した。今何よりも優先すべきは天子の遺詔であり、このような些末な要求で膠着状態を作り、他家の物笑いの種になる必要は微塵もなかった。
「ブツを渡せ。お前を自ら知微の元へ連れて行くと約束しよう」
謝必安は笑みを浮かべたが、その瞳の奥は氷のように冷え切っていた。「ええ、約束です。ここにいらっしゃる諸官の皆様も、確とお聞き届けいただけましたね。謝太保様、決して二枚舌はお使いになりませんよう……」
そう言い放つと、謝必安は周囲から注がれる、飢えと貪欲と緊張に満ちた無数の視線を浴びながら、腰元の擦り切れた漆革の袋の奥へと、ゆっくりと手を差し入れた。
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【司天監内部メモ】
新任の拾遺に一つ忠告をしておこう。朝堂に巣食う老獪な狐どもを相手にするくらいなら、山奥で野良の妖魔を数匹狩っていた方が遥かにマシだ。腹の探り合いなんぞ、クソくらえだ。妖魔を斬るよりよほど疲れるからな。




